ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『すぐには喜べない』 ルカによる福音書1:5〜20

礼拝メッセージ 2018年12月16日

f:id:bokushiblog:20181216125028j:plain
 

【もうすぐクリスマスだけど】

 「ヨルダンの岸で、洗礼者叫ぶ。目覚めてよく聞け、主がすぐ来られる」……先ほど歌った讃美歌の言葉、いったい誰のことを歌っているのか、皆さんは分かったでしょうか? 教会に長年通っている人なら、すぐにピンと来たでしょう。そう、イエス様が成人したとき、ヨルダン川で洗礼を授けた、あのバプテスマのヨハネです。

 

 彼は、イエス様が活動を始める前に、「もうすぐ救い主がやってくる。みんな悔い改めて準備をしなさい」と呼びかけ、人々に洗礼を授けた人物です。言わば、イエス様がやって来る準備をした人物……けれども、人々はヨハネの言ったことを、すぐに受け入れたわけでも、喜んだわけでもありませんでした。むしろ、彼を捕まえ、牢屋に閉じ込める人物もいました。救い主の到来は、その準備の段階から、けっこうな苦労があったようです。

 

 そんなヨハネが生まれる前、彼の両親に起きた出来事が、今日の聖書箇所に書いてありました。最初に紹介されるのは、父親であるザカリアです。ザカリアは、ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤ組の祭司であったと書かれています。

 

 当時、イスラエルの祭司たちは、24組に分かれて交代でエルサレム神殿に仕えていました。ザカリアの所属するアビヤ組もその一つでした。また、彼の妻エリサベトも、有名なアロン家という祭司の家柄の娘でした。

 

 ザカリアとエリサベトは、2人とも「神の前に正しい人」と呼ばれ、神様から与えられた掟と定めとを全て守り、非の打ちどころがなかったと言われる人物でした。ところが、2人には長い間子どもができず、既に歳をとっていました。

 

 当時のユダヤ社会では、子どもがたくさん生まれること、特に男の子に恵まれることは、神様から祝福を受けているしるしだと思われていました。そのため、子どもがいないということは、逆に、神様の祝福から排除されていると見なされました。

 

 今でしたら大問題になる見方ですが、当時は「子を生めないことは恥である」という認識が当たり前の世の中でした。ザカリアとエリサベトは、神様の教えをきちんと守ってきた「正しい人」であるにもかかわらず、神様の祝福を受けることのできない、理不尽に思える状況の中で生きていました。

 

【喜べなかった2人】

 そんな中、ある日、祭司であったザカリアに、聖所に入って香を焚く当番が回ってきます。それは、祭司にとって一生に一度、回ってくるか来ないかの重要な役割でした。ところが、香を焚くために彼が聖所の中へ入っていくと、ある事件が起きてしまいます。

 

 儀式が終わるまでの間、祭司の他は誰一人入ってはならないはずの聖所に、何者かが現れて、香壇の右に立ったのです。それは、神様から遣わされた天使でした。ザカリアはただならぬ者の出現に、不安と恐怖の念を抱きます。すると、天使は口を開き、こう語りました。

 

 「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」……この知らせを受けて、ザカリアはどんな反応をしたでしょうか? 天使が言うように「やった! ついに自分にも男の子が生まれるんだ!」と信じ、すぐに喜んだでしょうか? 

 

 いえいえ、続きを見れば分かるように、彼は天使の言葉を聞いてすぐには喜べませんでした。当然のごとく、彼の口からこんな疑問が出てきます。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」……もう2人とも年老いているのに、どうして子どもを産めるというのか? 

 

 現代の私たちでも真っ先に思い浮かぶ疑問です。すると、天使はこう答えます。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

 

 皮肉なことに、祭司であるザカリアは、「しゃべることができなくなる」という致命的なしるしを与えられることになりました。しかも、聖所で仕事をしていた最中に! 実は、彼の役割であった香を焚く当番は、最後に外で待つ民衆に対して、祝福の言葉を唱えて完成するものでした。牧師である私が、礼拝の途中でしゃべれなくなって、祝福の言葉を唱えられなくなる……そんな大事件が起きたのです。

 

 ザカリアの願いどおり、天使は確かに「子どもが生まれるのは本当だよ」というしるしを与えましたが、皮肉にも口を利けなくされた彼は、長い間喜びを口にすることができませんでした。

 

 また、彼の妻、エリサベトも、おそらく帰ってきた夫から、筆談か何かしらの方法で、ことの顛末を知らされたことと思いますが、その知らせをすぐに喜んだわけではありません。エリサベトが声高らかに、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と語るのは、妊娠してから5ヶ月も経った後のことでした。

 

 母親のお腹が膨らんでくるのが、だいたい12週目から15週目くらいなので、5ヶ月と言えば、誰が見てもお腹が大きくなったという状態です。その頃になってようやく、彼女は本当に身ごもったのだと確信し、喜ぶことができるようになりました。それ以前は、祭司の夫が仕事の途中で口を利けなくされたというスキャンダルから逃れるため、身を隠していなければなりませんでした。

 

【喜ぶための準備】

 ザカリアとエリサベトが、天使の言葉を聞いてすぐには信じられず、喜べなかった一方で、同じように天使から子どもが生まれるお告げを受けたとき、信じて受け入れた人物がいます。それが、イエス様の母マリアです。

 

 マリアはまだ結婚していない自分に、男の子が生まれると聞いたとき、戸惑いながらも神様を信頼し、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えます。天使はそれを聞いて、何事もなく去っていきます。ザカリアの身に起きたことと、マリアの身に起きたことを比べると、非常に対照的です。

 

 このように、ザカリアとマリアの話を聞くとき、私たちはマリアのように、たとえ戸惑うようなことであっても、神様が語ることをすぐに受け入れ、神様に信頼して生きていくことが求められていると教えられます。しかし、子どもの誕生を知らせるこの2つの出来事を読むとき、ただ単に、神様の言うことをすぐに受け入れたマリアと、そうできなかったザカリア……というふうに比較するだけでは、もったいないと私は思うのです。

 

 実は、聖書をよく見てみると、マリアも天使の知らせを受けて、一言目から「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言えたわけではありません。彼女も、天使に向かって最初に返したのは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」という言葉でした。

 

 「年老いた自分たちに、なぜ子どもができるのか?」というザカリアの問い以上に、「そもそも関係を持った相手がいないのに、なぜ子どもができるのか?」というマリアの問いは、もっともなものでした。

 

 すると、天使はマリアに向かって、彼女の親族であるエリサベトも、年をとっているが男の子を身ごもっていると話します。不妊の女と言われていたエリサベツが、もう六ヶ月になっている。普通なら有り得ないことが、自分の身内に起こっている……。

 

 マリアはそのことを聞いたからこそ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と返せたのです。また、妊娠して間もないマリアが、神様を褒め称えて、有名な賛歌を歌ったのも、実際にエリサベトと出会い、言葉を交わした後のことでした。ザカリアは、年老いた自分とエリサベトの間に、子どもが生まれるしるしを求めましたが、実は彼らの体験こそが、救い主イエス様の母マリアが、神様を信頼するためのしるしとなっていたのです。

 

 その後、ザカリアとエリサベトの間には、無事に元気な男の子が生まれてきます。天使に言われたとおり、ザカリアはその子に「ヨハネ」と名づけました。するとそれまで、ものを言えなくされていた彼の口が開け、舌がゆるみ、ザカリアは神様を褒め称え始めます。やがて、この時生まれた男の子は、人々に悔い改めの洗礼を授ける、バプテスマのヨハネとして成長し、イエス様が神様の計画を行うための準備をする人物となりました。

 

【すぐには喜べなくても】

 さて、アドヴェントの3週目を迎えた今、私たちは、イエス様が誕生した日を記念するクリスマスの準備をすると共に、イエス様がこの地上に再びやって来る日を祈りつつ、待ち望むことが求められています。

 

 しかし、もしかすると、今すぐ、イエス様がこの世にやって来るのは困る、という人もいるかもしれません。イエス様と再び会える日を待ちながらも、自分の中にある不信仰、これからの予定、周りの状況を考えた時、今会うのはちょっと喜べない……ということがあるかもしれません。 

 

 かつて、年老いていることや、まだ結婚していないという現実的な問題を前にして、子どもが生まれるという神様の知らせを、すぐには喜べなかった人たちがいるように、私たちも、十字架にかかって復活してくださった、あのイエス様がやって来る! と聞いても、すぐには喜べないかもしれません。

 

 また、「来週はいよいよクリスマス!」と言われても、ただウキウキ喜んではいられないという人もいるでしょう。年末に入ってくるこの時期は、働いている人たちにとって忙しくなりやすい時期であり、学生にとってはレポートや論文、受験や就活に追われる時期でもあります。クリスマスがやって来ると聞いたところで、忙しい毎日のことが気になって、それどころではない人も大勢いるでしょう。

 

 病気や怪我、家族の不幸、自分の身に訪れたどうしようもない出来事……それらの積み重なりが、現実的な問題が、今知らされている喜びの訪れを、受け入れにくくしている人もいるでしょう。

 

 しかし、神様はそんな私たちに、確信しづらい喜びの訪れを、静かに準備させてくださいます。イエス・キリストの母マリアに先立って、老夫婦に子どもが生まれた出来事は、マリアが神様の言うことを受け入れ、すぐに信頼するための準備となりました。そして、天使の言うことをすぐには喜べなかったザカリアとエリサベトも、やがて本当に、自分たちに子どもが生まれるという喜びを、味わうことができるようになりました。

 

 私たちも、今はまだ、いつイエス様が現れても喜べるような状態ではないように感じられるかもしれません。クリスマスがやって来ると聞いても、準備するべき様々なことに気を取られ、すぐには喜べないかもしれません。

 

 しかし、神様は全ての者に、一人一人に、本当の喜びが訪れる瞬間を準備し、招いているのです。その招きに答え、私たちのもとにやって来るイエス様を、神様を、心から迎え入れることができるように、これからも祈って歩みたいと思います。