ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『救い主が生まれて不安になった』 マタイによる福音書2:1〜12

礼拝メッセージ 2018年12月30日

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【不安になっちゃった】

 救い主が生まれて不安になった……なんて罰当たりなタイトルでしょう? せっかくこの前、イエス様が誕生したことをお祝いするクリスマスを迎えたばかりなのに! もう少し、クリスマスの余韻を楽しみたいところです。

 

 先日の礼拝には、私たちの教会にもたくさんの人が来てくれました。近くの大学や高校から来た学生たち、久しぶりに帰って来た家族や親戚、新しく信仰を告白した姉妹……良き訪れ、嬉しい知らせを受け取ったばかりの今、「不安」なんて口にしたくありません。しかし、良き訪れを経験した今だからこそ、私たちを襲ってくる不安があります。

 

 ある牧師は息子との関係がうまくいかず、教会の礼拝にも長い間出席してもらえませんでした。ところが、クリスマスの朝講壇に立つと、数年ぶりに自分の子どもが礼拝に出席しているのを見つけます。教会員もみんな驚きながら振り向いて「先生、○○ちゃんが来てくれたよ!」と囁きます。

 

 嬉しいはずでした。非常に喜ばしい知らせでした。しかし彼は次の瞬間、不安に襲われます。この礼拝が終わった後、自分の語るメッセージを聞いた後、息子はどんな反応をするだろう? 久しぶりに来てくれた息子へ、どう声をかけたらいいだろう? 何も言葉をかけられないまま、すっといなくならないだろうか?

 

 ある伝道師はちょうどクリスマス前の12月に按手を受け、晴れて正教師となりました。3年間、教会の奉仕と勉強に励んできた彼は、ようやく洗礼と聖餐を執行できるようになりました。今までお世話になってきた教会員や牧師たちから、次々と祝福のメッセージを受け取ります。

 

 嬉しいはずでした。非常に喜ばしい知らせでした。しかし彼は次の瞬間、自信がなくなります。新しく派遣される教会で、本当に牧師としてやっていけるだろうか? 誰かに洗礼を授ける日なんて来るだろうか? むしろ自分に幻滅して、信徒が離れていかないだろうか?

 

 ある人は12月の頭から教会の礼拝に出席し、キリスト教や聖書について、ゆっくりと学んできました。そして1年後のクリスマス、自分も神様を信じたいと告白し、洗礼を受けることになりました。クリスマス当日、彼女は頭から水を注がれて、ついにキリスト者の一人となりました。みんなが祝福してくれます。代わる代わるやって来ては、握手と抱擁が交わされます。

 

 嬉しいはずでした。非常に喜ばしい知らせでした。しかし彼女は次の瞬間、不安を覚えます。本当に、これからも私はキリスト者でいられるだろうか? この決心を持ち続けて教会に通い続けることが、礼拝を守り続けることができるだろうか?……神様を信じて不安になった、洗礼を受けて不安になった、牧師になって不安になった。

 

 喜ばしい出来事の後で、その余韻が消えないうちに、様々な不安が私たちを襲います。イエス様が生まれた後もそうでした。救い主の誕生、喜ばしい知らせ、その日を待ち望んでいた人々は、いざ本当にその日が来ると不安になりました。喜ぶべきその日を喜べず、歓迎できず、恐れを抱いたのです。

 

【ヘロデ王の不安】

 救い主誕生の知らせと共に、不安をも人々にもたらしたのは、東方から来た占星術の学者たちでした。彼らは、イエス様が生まれた直後、エルサレムにやって来て、こんなことを尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 

 こう書いてありますが、彼らが誰に尋ねたのか、はっきり書いてあるわけではありません。私が子どもの頃見たページェントでは、学者役の子どもたちが、「きっとエルサレムにいる王様のお城に行けば、救い主がどこに生まれたのか教えてくれる」と言って、ヘロデの城へ向かうシーンがありました。

 

 しかし聖書には、学者たちが真っ直ぐヘロデの城へやって来たとは書かれていません。むしろ、彼らは後からヘロデに呼ばれているので、おそらく街の中で、色んな人に尋ね回っていたのだと思います。そのことがヘロデの耳に入ったのでしょう。彼は、学者たちの言葉を聞いて不安になりました。

 

 自分がユダヤ人の王であるにもかかわらず、他にも王となる人間が生まれたと言われたからです。自分の王位が揺るがされるかもしれないと思ったヘロデは、心中穏やかではありません。彼は王位を守るため、妻や身内を6人、息子を3人も殺した人物と言われています。晩年には、「殺意に満ちた老人」とまで呼ばれました。

 

 この後彼は、イエス様の殺害を企て、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺すよう命じるため、多くの人は「絵に描いた暴君」「神様に背く罪人」というイメージを持つことになるでしょう。しかし、よく考えてみてください。イエス様が生まれた時代、救い主の誕生を告げられて、それをすぐ信じた人なんて、ほとんどいませんでした。

 

 たいていの人は疑って、なかなか受け入れようとしませんでした。そんな中、ヘロデは学者たちの言葉を聞いて簡単に真に受けます。「救い主」なんて一言も言われていないのに、「ユダヤ人の王」というだけですぐ察するのです。「メシアはどこに生まれることになっている!」……祭司長や律法学者たちに問いただした言葉からも分かるように、彼はその場で、救い主メシアが生まれたと信じたのです。

 

 もしも、敬虔でない不信仰な人間なら、学者たちの言葉を真に受ける必要なんてありません。生まれたばかりの赤ん坊が、法的な王位継承者ですらない者が、自分の王位を揺るがすなんて考えられなかったはずです。にもかかわらず、ヘロデは不安になりました。救い主の誕生を信じたからこそ、自分の王位が脅かされると思ったのです。

 

 そう、彼は単なる暴君ではありませんでした。エルサレム神殿を立派にしたり、祭司や律法学者と交流を持ったり、実は、どこかで強く神様を求めていた人でもあったのです。けれども、いざ救い主の誕生を耳にすると、彼は素直に喜べません。今王位にある自分がどうなるのか、今の生活がどう変化するのか、恐れてしまったのです。

 

【エルサレムの住民の不安】

 新しい王が生まれると聞いて不安になったのは、ヘロデだけではありませんでした。聖書には、エルサレムの人々も同様に、不安になったと書かれています。自分の王位に固執したヘロデならともかく、なぜ街の人々も不安になったのでしょう? 彼らは長い間、神様が約束したユダヤ人の王、メシアを待ち望んでいた人々です。

 

 学者たちの言葉は、その救い主が到来したという喜ぶべきものでした。にもかかわらず、エルサレムの人々も皆、暴君ヘロデと同様に不安に陥ります。なぜでしょうか? せっかく生まれた救い主が、ヘロデに殺されると思ったからでしょうか? 確かに、それもあるかもしれません。しかし、それ以上に彼らがショックを受けたのは、自分たちに救い主の誕生を知らせたのが、東方から来た学者たちであるという事実でした。

 

 そう、エルサレムの人々に、真の王が生まれたと伝えたのは、同胞のユダヤ人でもなく、預言者でもなく、外国から来た占星術の学者たちでした。名前のとおり、いわゆる、占星学、天文学に通じていた人々です。彼らは、外国の祭司職に当たる人々で、夢を解いたり、占いをしたりしたとも言われています。私たちからすれば、イスラームの聖職者からキリストの誕生を告げ知らされたような衝撃です。

 

 これら占星学や天文学は、バビロニア、インド、エジプト、ギリシア、中国などで発展しましたが、特にバビロニアはユダヤ人にとって、自分たちの国を攻め滅ぼした大国の一つでした。また、かつてイスラエルを支配下に置いたペルシャでも、占星術の学者は祭司職の一つとして知られていました。

 

 その上、彼らは東から来たと言われています。エルサレムから見て東の少し上には、かつてイスラエルを攻め滅ぼし、ユダヤ人たちを支配してきたバビロニア、アッシリア、ペルシャといった大国の地域があります。実際のところ、学者たちがどの国からやって来たのかはっきりと分かりませんが、その辺りからやって来たのだろうと考える人は少なくありません。

 

 つまり、エルサレムの人々にとって、かつて自分たちの土地や財産を奪ってきた外国の人間に、救い主の誕生を知らされたわけです。神様は、同胞のユダヤ人にではなく、むしろユダヤ人にとって忌まわしい外国人、救われるはずのない、滅ぼされるべき存在と考えられていた人たちによって、新しい王の誕生を知らせたのです。

 

 さらに、この学者たちは、黄金、乳香、没薬といった、貴重な贈り物を所持していました。贈り物が3種類だから、それを携える学者たちも3人いたのだと思われることが多いですが、そんなはずはありません。東から砂漠を越え、荒野を越えて、高価な宝物を持って来るのです。途中、強盗や追い剥ぎに襲われる危険があった場所で、護衛をつけないわけがありません。

 

 しかも、何十キロもの道のりを何日もかけて移動するわけですから、荷物も多くなります。地位の高い彼らをお世話する人間もいます。もはやその行列は、イスラエルから見て、外国から軍隊がやって来たのに等しかったでしょう。彼らがひざまずく存在、彼らに称えられる存在……100パーセント、今の政権との衝突が予想されます。

 

 ユダヤ人は誰もが、ローマ帝国の支配から解放されることを求めていました。ヘロデのような暴君ではなく、柔和で誠実な王を求めていました。私たちだって、正義と公正に基づいた、誠実な政治家を求めるでしょう。不正を正し、複雑な問題に向き合って変革を促す、勇気ある指導者を求めるでしょう。

 

 しかし、エルサレムの住民は気づいたのです。本当に救い主が生まれたなら、これから大きな変化が始まる。自分たちの生活も、環境も、何もかもがどうなるか分からない。もしかしたら、戦いに巻き込まれるかもしれない。より悪い方向へ行くかもしれない。そんなことになるなら、救い主なんて生まれない方が、心をかき乱されずに済むじゃないか。 

 

 いずれにせよ、エルサレムの人々は学者から受けた喜ばしい知らせを、誰も喜ぶことができませんでした。長い間待ち望んでいた知らせであるにもかかわらず、むしろ不安材料として受け取ってしまいました。

 

【脱出と解放】

 多くの者が、今の生活を脅かす不安に囚われていました。祭司長や律法学者だって、間違いなく、救い主を望んでいたはずなのです。にもかかわらず、メシアの命を狙うヘロデに対し、あっさりその居場所を教えてしまいます。彼らも、今ある自分たちの生活や地位に変化がもたらされることを恐れていました。

 

 そんな中、エルサレムを出発した占星術の学者たちは、星によって導かれ、救い主のいる場所へとたどり着きます。彼らだけが、この物語において「喜んだ」人間です。不安に囚われなかった人々です……いえ、本当にそうでしょうか? 占星術の学者たちは、何にも囚われていなかったから、救い主に会うことができたのでしょうか?

 

 もう一度、星に導かれて進んでいった学者たちの記事を読んでみると、旧約聖書に記された、ある出来事を思い出します。それは、ユダヤ人が奴隷として捕えられていたエジプトから脱出したとき、神様から火の柱や雲の柱によって導かれた出来事です。ユダヤ人たちが、かつてエジプトの奴隷であったように、占星術の学者たちも、どこへ行けばいいのか分からない奴隷のような状態でした。

 

 東にある大国も、時代の流れと共に以前のような力を振るえなくなってきました。イスラエルのように、他国に滅ぼされた国もありました。祭司職の学者たちも、何に頼ったらいいか分からなくなってきました。

 

 彼らが行っていた占星学や天文学は、現代で言えば最先端の科学で真理を追究するようなものかもしれません。しかし、どんなに星を見て答えを求めても、彼らの心は満たされませんでした。自分たちは何を知りたいのだろう? 本当に頼るべきものは何なのだろう?

 

 そんな時、遠い東の地で、彼らの前に特別な星が示されます。学者たちはその星を見て、自分たちの求めるべきものが、救い主メシアであると気づかされたのです。彼らは、その星の光に導かれ、追い求めるべきものが分からない人生から脱出します。自分たちの心を真に喜ばせる、真に満たしてくれる救い主と出会うために、はるばるベツレヘムまで旅に出かけるのです。

 

 不安もあったでしょう。宝を携えた危険な旅、しかも夜でなければ、自分たちを導く星の光は見えません。学者たちも追い剥ぎや盗賊、狼や獣に襲われる心配をしながら、不安の中を進みました。途中で、星が見える暗闇ではなく、明るい昼間のうちに目的地へ向かえないかとエルサレムに立ち寄ります。星の導きとは違う、人間の力に頼ろうとする……それくらい彼らも追い詰められていました。

 

 しかし、不安に囚われ、エルサレムに立ち寄った彼らを、神様はなお導き続けます。ヘロデのもとから出発した学者たちは、再び自分たちを導く星の光を見つけました。彼らはまた、暗闇の中、不安の中を進んで救い主と出会う道を歩んでいきました。

 

 クリスマスは、良い知らせをもたらしました。私たちはその訪れを喜びました。同時に、不安も出てきました。この後何が起きるのか、どんな変化が訪れるのか、全く予想がつかないからです。大切な人と再会した者、関係性の変化が訪れた者、新たな決心ができた者、それぞれ、今も自分が何かに囚われていることを感じます。

 

 イエス様は、そんなあなたを導きます。囚われているものから脱出し、進むべき道を示します。神と敵対した人々、滅ぶべき存在だと思われていた人々に、救い主と出会う道を整えました。あなたのことも、この先ずっと導いてくれます。だから今、出かけましょう。心に不安を抱えつつ、そこから脱出する旅へ、共に出て行きましょう。