ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『愛してほしいんだ』 ヨハネの手紙二1〜13

聖書研究祈祷会 2018年12月19日                   

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【女性に宛てられた手紙?】

 聖書の中で、ある特定の女性に向けて手紙が書かれているのは珍しいことです。「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」……手紙の冒頭に記された言葉を聞いて、多くの人はこう思ったはずです。いったいこの文書を書いた長老とは誰なのだろう? 手紙を受け取った婦人とは、その子どもたちとは、誰なのだろう? と。

 

 長老というのは文字通り、歳をとった人間のことではありません。ここでは、ある教会の群れを導く指導者のことを指しています。後に、「監督」や「司教」と呼ばれるようになった地域ごと、教区ごとの教会を指導する、責任ある立場の前身と言えるでしょう。では、「選ばれた婦人」とは誰のことを指すのでしょうか?

 

 これも文字通り、女性個人を指しているのではなく、手紙の宛先である教会を擬人化したものだと捉えられます。「婦人」(キュリエ)という言葉は、「主」(キュリオス)の女性形で、教会は「主」である神の「花嫁」だという理解があったからです。その子どもたちというのは、教会で信仰を継承してきた信徒たち、教会員を意味します。

 

 このように、ある共同体を擬人化して表現することは、古代の文書では珍しくありませんでした。クリスマスが近い時期に読まれるイザヤ書54章でも、「シオン」すなわち、イスラエルの民を女性になぞらえ、神様と人々との関係を、夫と妻の関係で表しています。さらに、「選ばれた」という言葉は、しばしばキリスト者を指して用いられました。

 

 ようするに、この手紙は、教区の指導者から教会の信徒たちへ宛てられた、公の手紙だったわけです。手紙の挨拶でいきなり「わたしは、あなたがたを真に愛しています」と来るので、何だか遠くにいる父親が、家族に宛てて書いた手紙のように思えますが、そのような家族的関係にある、神と人、人と人との交わりの中で、著者は本題に入っていきます。

 

 その具体的な本題とは、「キリスト教の正統的な教えに留まりなさい」という勧めでした。実は、ヨハネの手紙が書かれた時代は、イエス・キリストとその教えについて、様々な解釈が溢れ始めた時代でした。中には、もともとイエス様が教えていたことから逸脱し、極端に歪められた教えを語る者も出てきました。

 

 ヨハネの手紙二は、そんな時代を生きる信徒たちに、他の教えに惑わされず、今まで教会が守ってきた、イエス様の本当の教えに従うよう、もう一度促している手紙です。気になるのは、他の教えとは違う「本当の教え」とは、いったい何なのかという点です。これについては、ちょっと驚くぐらい当たり前のことが書かれています。

 

【互いに愛し合いなさい】

 「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」……なるほど、確かに新しくありません。「愛し合え」なんて言葉、皆さんもさんざん聞いてきたことでしょう。この時代の信徒たちも、耳にタコができるほど聞いてきたはずなのです。なにせ、イエス様が十字架にかかる前、死ぬ前の最後の夜に語ったことですから!

 

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」……ヨハネによる福音書13章34節、ここで「新しい掟」と言って語られた言葉は、初代教会の中では、もうよく知られている話でした。イエス様が教えた、基本中の基本と言っても過言ではありません。

 

 この教えは、言葉だけでなく、イエス様が全生涯の振る舞いを通して示されてきたことです。罪人と呼ばれる人たちと食事をし、「触れば汚れる」と言われた病を、一人一人に触れて癒し、自ら僕のようになって弟子たちの足を洗い、最後には、人々の受けるべき罪の罰を代わりに背負って十字架にかかってくださいました。これらの話を抜きに、キリスト教の教えと言うことはできません。

 

 イエス様が語られたこと、行われたことは全て、神への愛、人への愛に生きることだったからです。特に、ヨハネという名前がつく福音書と、3つの手紙は、「愛」という言葉で溢れています。「愛しています」「愛し合うこと」「愛とは」「愛に歩むこと」……わずか1ページの間に、どれだけ「愛」が出てくるのでしょう?

 

 イエス様は、それだけ愛を大事にしてきました。逆に言えば、「キリスト教の正統的な教えとは、愛し合うことである」なんて、周知の事実だったのです。今更言わなくても、みんな分かっていたはずです。どうしてわざわざ、分かっているであろうことを繰り返すのでしょうか? もう一度、「愛してほしいんだ」なんて言うのでしょうか?

 

 その理由を、著者は次のように言っています。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。」

 

 「惑わす者」という言葉は、原語だと「異端に導く者」という意味を含んでいます。ようするに、異端者に気をつけるため、愛の掟に立ち返りなさいと言っているわけです。けれども、いくら正統的なキリスト教とは言えない人たちでも、「愛」を否定するような教えを語るとは思えません。

 

 それこそ、今現在、キリスト教を装った別の教えを語る団体でも、「愛を大事に」「愛に生きろ」と言っているところは、いくらでもあります。「愛なんてダメだ」「愛を捨てろ」なんて言っていたら、誰も従うわけがないからです。「惑わす者」「反キリスト」と呼ばれる人たちも、決して「愛し合う」という掟に反対しているわけではありませんでした。

 

 「彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません」……こっちが、正統的なキリスト教とは言えない理由です。彼らは、神の子であるイエス様が、人間としてこの世に来たことを認めませんでした。神の子が人間のように弱く小さな存在に、肉体のような限界を持つ身体になるはずがないと考えたからです。

 

 そのため、彼らは「イエス様は肉体を持たなかった」「イエス様が人として負われた苦しみや死は、単にそのように見えただけだった」と主張しました。つまり、イエス様が肉体を持って病人に触れたことも、その身が鞭打たれ、傷つけられたことも、十字架につけられて死んだことも、みんな、「そのように見えただけ」「そのように感じられただけ」と言い切ってしまったわけです。

 

 これは、イエス様が人々への愛ゆえに受けた苦しみを、なかったことにする教えでした。愛する行為には、痛みや苦しみが伴うにもかかわらず、「そんな苦しみ、イエス様は負ってない」と言ってしまったわけです。すると、どうでしょう? イエス様が痛みや苦しみを負ってないなら、私たちも傷ついてまで愛し合うことはないじゃないか……そんな話になってしまうのです。

 

 だから、手紙を書いた長老はしつこく、互いに愛し合うことを求めました。愛する中で、あなたが受ける痛みや苦しみは、まさにイエス様がその身に負われた苦しみだったのだ。イエス様はこれだけ苦しむほど、あなたを愛されたのだ。あなたもみんなと互いに愛し合い、イエス様の愛を伝えなさい。それこそが、真理であり、本当の教えだから。

 

【愛と反対の行為では?】

 おそらく、著者は歪められた教えを語る人物が誰なのか知っていたのでしょう。「あの」惑わす者、「あの」反キリストというように、それぞれ定冠詞がついているので、具体的にある人物を思い浮かべて書いていると思われます。当時は多くの巡回教師が、町から町へ教会を訪ねて伝道していました。「惑わす者」も、同じように教会を回って、教えを説いていたのでしょう。

 

 そこで著者は、イエス様が肉体をとって人となり、その苦しみによって私たちを救われたと語らない者、正しい教えを携えてこない巡回教師が来た場合、教会として拒絶しなさいと語ります。

 

 「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです」……ちょっと言い過ぎではないかと感じます。家に入るのを断るのはまだ分かりますが、挨拶してもいけないというのは、口をきくのもダメと言われているようで、あまりいただけません。

 

 ついさっき、「互いに愛し合うように」「愛に歩むように」と言われたのに、まさに矛盾したことを言われているようです。確かに、文字通り、訪ねてきた相手をピシャッと拒絶することを考えると、愛からかけ離れた行為と言えるでしょう。しかし、ちょっと思い浮かべてみてください。

 

 私たちの教会に、ある巡回教師が訪ねてきます。その人は玄関先でこう言います。「どうぞ、礼拝で私に話をさせてください。私は本当の正しい教えを知っています。聖書には、神の子であるキリストは肉体をとって生まれてきたと書かれていますが、それは嘘なのです!」……あるいは、こう言うかもしれません。「私は聖書よりも正しい教えを知っています。教会の皆さんに教えましょう。さあ、講壇に立たせてください!」

 

 これはキリスト教会としては断るしかないと思います。また、「挨拶してもなりません」とありますが、ここで言う「挨拶」とは、歓迎の言葉を述べると共に、食事や生活の世話を含む慣習を意味しました。つまり、その人が継続的に、教会の中で歪んだ教えを語るのを許してしまうことなのです。そのような判断は、悪い行いに加わるのと同じだよ、と著者は言ってくるわけです。

 

 おそらく、「イエス・キリストは肉体をとらなかった」「人としての苦しみを受けなかった」と主張する巡回教師は、本気で自分はキリストを信じている、正しい教えを語っていると思っていたでしょう。善意から、人々に語っていたでしょう。そんな相手に対し、拒絶の意志を示すのは、確かに心苦しく感じます。

 

 しかし、町から町へ回る中で、いくつもの教会に「これはおかしい」と思われ、受け入れられず、ようやくたどり着いた先の教会で、「まあ、拒絶するのも何だし……」と受け入れられたら、その人は「やはり、自分を受け入れる教会が現れた! 私は正しかったのだ!」と歪んだ考えを強化することになるでしょう。時には心苦しくても、「愛をもって」、訪れた人の申し出を断ることが必要なときもあるのです。

 

【募金や勧誘を断る例】

 そのようなジレンマを抱えた例が、現代においても見られます。皆さんも、キリスト教を装った宗教団体ついて聞いたことがある、あるいは、見たことがあると思います。その中に、「破壊的カルト」と呼ばれる、反社会的な集団もあります。よく問題になったのは、一件一件家を訪ねてきて、「これを買わないと地獄に落ちる」「これを持っていれば救われる」と、壺や印鑑を売りつけてくるというものです。

 

 それは、霊感商法と言われるもので、今でも時々耳に入りますが、実は他にも、色んな形で資金集めをしている破壊的な集団があります。その手口の一つに、物を売りつけるのではなく、各家庭の家を回って、「難民救済のために」とか「恵まれない子どもたちのために」とか言って、寄付をお願いしますと、募金を募るやり方があるのです。

 

 いわゆる募金詐欺です。実際には、集まったお金が難民や子どもたちのために使われることはなく、教祖の手元に行くわけです。しかし、募金を募る青年たちは、「これが教祖様のために使われたら、やがて世界が救われて、難民も子どももみんな救われるのだ」と信じ、集めさせられているのです。

 

 もちろん、普通の募金活動なら、個々の家にまで押しかけて、寄付を募ることなんてありません。「何か怪しいな」「胡散臭いな」と思われて、彼らは何件も何件も断られます。しかし、一日中家から家へ歩き続け、疲れ果てた状態でたどり着いた先に、同情する人間が現れます。

 

 「こんなに一生懸命、募金を集めている子を無碍にするのもかわいそうだ。声も枯れ、疲れ果てているのに、断ったらさすがに悪い」……そうして、募金箱にお金を入れてしまいます。すると、募金を集めていた青年は思うのです。「ああ、やっぱり自分がやっていることは正しいのだ。こうやって、分かってくれる人がちゃんと現れるのだ!」

 

 実際には、見るに耐えず、罪悪感から募金をしてしまうわけですが、彼らにそれは分かりません。幹部たちに、自分の言うことをきいていれば、うちの教えが正しいと、だんだん分かってくると言われ、本当にそうだと信じてしまうのです。憐れみから、彼らに募金をしてあげても、彼らにかかったマインド・コントロールを、強化する羽目になるのです。やがては、組織のためなら人を騙すことも正しいのだという感覚が染みこんでしまいます。

 

 「愛に歩む」とはどういうことかを考えるとき、単に「いい人」を装うことではないと思わされます。愛からかけ離れた教えを拒絶する、その人が囚われている教えを助長しないよう、きちっと断ることも大事でした。手紙の著者は、今も私たちに、イエス様の愛に留まるよう、互いに愛し合うよう、促しているのです。