ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『わたしゃ知らん』 マタイによる福音書24:36〜44

聖書研究祈祷会 2018年12月12日

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【気になるものは気になる】

 アドヴェントの第一週目に入ったとき、「クリスマスまでの4週間はイエス様の誕生を祝う準備の期間ですが、ただそれだけの期間でもないのです」と話しました。この4週間は、クリスマスを待ち望む期間であると共に、この世の終わりに、イエス様が再び訪れる日を待ち望む、「再臨」を覚える期間でもあるからです。

 

 イエス様が再びこの世へやって来て、全ての悪を打ち滅ぼし、不正と暴力にまみれた世界が終わる、新しい神の国が到来する日……その日、その時はいつ来るのか、当然誰もが気になります。理不尽なこの世界に早く終わりが訪れ、新しい世界になってほしいと願う人もいれば、いやいや、この世の終わりが今来てしまったら困るのだ! という人もいるでしょう。

 

 皆さんはどっちの意味で、世の終わり、再臨の日がいつ来るのか気になっているでしょう? マタイ、マルコ、ルカによる福音書が書かれた時点では、まだ多くの教会で、自分たちが生きている時代に、イエス様は再びこの世へやって来るのだと信じる人々がいました。理不尽で悪にまみれたこの世界が早く終わって、イエス様が治める新しい世界、愛と正義に満たされた神の国に訪れてほしいと、みんな期待を大きくしていました。

 

 そのため、イエス様が復活してから私たちの時代に至るまで、イエス様が再びこの世にやって来る日はいつなのか、その日を予測しようという試みが、常に存在してきました。「何年、何月、何日に、この世の終わりが訪れる」「あと何年後に終末がやって来る」……そんな言葉が目に入るのは、今でもあまり珍しくないですよね?

 

 弟子たちでさえ、新しい神の国が打ち立てられる日はいつなのか、常に気になっていました。彼らは、復活したイエス様が天に昇られるとき、前のめりになって尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」……もしかしたら、自分たちはそれを今目にするのかもしれないと、興奮していたのでしょう。

 

 しかし、イエス様は落ち着いて答えを返されました。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」……なんだ、やっぱり私たちは、いつイエス様が再来するのか、この世の終わりが訪れるのか、はっきり知ることはできないのか……そう落胆した矢先、彼らは続けてこう言われます。

 

 「(しかし)あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」……私がもう一度やって来る日を詮索するより、私の語ってきたこと、行ってきたことを人々に伝え、私を信じるように証をしなさい、宣教の課題に集中しなさい、イエス様はそう促したのです。

 

【イエス様も知らない?】

 けれども、必ずしも全ての人が、この言葉を素直に聞いたわけではありませんでした。イエス様から言われた宣教の課題に集中する代わりに、この世の終わりがいつ来るのか、計算を試みたのです。気持ちは分かります。私たちも自分が生きている間に、終末がやって来るかもしれない、イエス様が再来するかもしれないと考えていたら、どうしたってその日がいつ来るか知りたくなるでしょう。

 

 彼らは、終末について言及するダニエル書や黙示録の文書を使って、「ここに書いてある数字は、何年後に世の終わりが訪れることを示している」とか、「この部分のアルファベットを数字に直すと、ちょうど何年、何月、何日に、再び救い主が訪れると読むことができる」とか、色々考えてきました。そしてことごとく、外れてきました。

 

 さすがに多くの人が、終末を近いうちに予測することは困難だと感じてきました。けれども、その試みは、しばらく経つと思い出したように現れては、至るところで繰り返されています。別に、オカルト雑誌やオカルト番組だけの話ではありません。キリスト教会で名だたる神学者、聖書学者の中にも、過去には終末の日を予測する注解書を書いていた……なんてこともあるのです。

 

 しかし、先ほど読んだ箇所の冒頭では、終わりの日がいつ来るか詮索し、計算しようとすることは意味がないと、きっぱり否定されています。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である」……なんと、その時に関しては、天使たちも知らないと言うのです。それどころか、イエス様でさえ「わたしゃ知らん」と言っています。

 

 実は、この箇所を記している聖書の写本、いわゆる手書きで残されたコピーの多くが、「子も知らない」という部分を省略しています。神の子であるキリストが、父なる神から終わりの日を知らされていないということが、聖書を書き写す人たちにとって、つまずきとなったからです。

 

 そりゃそうです。将来、もう一度この世へ遣わされるイエス様自身が、その日がいつ来るか知らされていないなんて変な話です。イエス様は誰よりも神様のことを知っているのではなかったのか? イエス様の意志は神様の意志と一つじゃなかったのか? そんな疑問が出てきます。けれども、イエス様が自ら「私も知らない」と言った言葉こそ、イエス様が、私たちと同じところまで降りてきてくださったしるしだと思うのです。

 

 クリスマスに、イエス様が貧しい大工の家庭で、汚い家畜小屋の中で生まれた出来事は、神の御子が、弱く小さな存在と等しくなられたことを意味します。親の世話がなければ生きられない、弱々しい赤子の姿で生まれたイエス様は、神様と意志を一つにしつつ、徹底的に、私たちと同じところまで降りてこられました。

 

 「その日、その時はだれも知らない。天使たちも子も知らない」……イエス様の宣言は単なる無知を意味しているのではなく、無知な人間と、不安や苦しみを共に生きるイエス様自身の姿を現しているのです。そのイエス様が「終末の日を計算するより、宣教の課題に集中しなさい」と命じられた言葉は、決して蔑ろにしてはならないでしょう。

 

【日常に心囚われて】

 では、この言葉を記した福音書の著者は、いくら待っても訪れない終末がいつやって来るのか、気になっていなかったのでしょうか? 残念ながら、この質問に関してはっきり答えることはできません。しかし、少なくとも、イエス様の再来が遅れていることを「神様の恩恵」だと見なしていたのは確かです。

 

 つまり、福音書の著者は、もっと多くの人々が、イエス様を信じて受け入れるように、神様が最後の審判を延期されたと考えたわけです。だからと言って、「神の国はまだ来ない、イエス様が再び来るのはずっと先だ」と気長に考えているわけでもありませんでした。イエス様が再来する日は、最初に考えられたより確かに遅くなったけれども、その日、その時は突然やって来る。いつやって来るかは分からない……そう強く訴えたのです。

 

 「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」……唐突に出てきたイエス様のたとえは、創世記に記された突然の洪水、ノアたちの出来事を思い出すよう促しています。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった」……イエス様がもう一度来るときも、同じだと言われます。

 

 ノアは、神様が世界中を洪水で洗い流すと聞いて、その準備を必死に行った人物です。一方、彼以外の人々は、ノアが巨大な箱舟を造って洪水に備えている間、日常生活に心を奪われ、忙しくしていました。世の終わりに備えることよりも、目の前の仕事や問題を片付けることに必死でした。けれども、食べるため飲むために蓄えたもの、めとるため嫁ぐために準備したものは、洪水の日に全て押し流され、彼らはみんな死んでしまいました。

 

 ルカによる福音書では、このたとえに、ロトの話が付け加えられています。ロトの時代にも、ソドムの町では、人々が食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていました。けれども、ロトの家族が御使いに連れ出され、ソドムの町から出て行った日に、天から硫黄と火が降り注ぎ、住人は一人残らず滅ぼされてしまいました。

 

 これらの話を聞くと、恐ろしいイメージが強調されているように感じます。イエス様が再来するとき、世の終わりに備えていなければ、その日に間に合うよう準備していなければ、ノアやロトの時代に滅ぼされた人々のように、破滅を迎えてしまうと聞こえます。けれども、ノアの洪水にしても、ソドムの滅亡にしても、突然やってきた「終わりの時」は、人々の準備を待って、訪れたものでした。

 

 ノアに関しては、彼とその家族が箱舟を造り終わり、全員が舟に乗ってから、40日40夜の雨が降り注ぎました。実は、神様が洪水を起こしたのは、彼らが舟に乗ってから、実に7日も経った後でした。ロトに関しては、「この町から逃げなさい」と御使いたちに促され、しばらく一晩明けてから、町に硫黄の火が降り注ぎました。

 

 けれども、ロトは明け方になっても逃げ出さず、御使いたちに急き立てられても、家を出るのをためらっていました。今逃げたら住まいを失ってしまう、財産も全て無くしてしまう……目の前の生活に囚われていたのは、彼も同じでした。本来なら、終わりが来るのを予告されながら、準備が間に合わなかった者として、彼も滅ぼされるはずでした。しかし、神様はロトを憐れんで、御使いたちに無理やり、彼とその家族を連れ出させました。

 

 世の終わりについては、恐ろしいイメージばかりが強調されやすいですが、その一つ一つに神様の憐れみが、慈しみが描かれているのです。それらを通して、今この世の生活に囚われている者が、神の国に心を向けるよう、聖書は促してきます。神様は、準備しない者を切り捨てるのではなく、全ての者が準備するよう、促しているのです。

 

【思いがけないとき】

 イエス様は、続けて2つのたとえを語られます。「そのとき、畑に2人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。2人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」……この話の並べ方も面白く感じます。

 

 さっきまでノアとロトの話を持ち出して、「日常の生活に囚われず、終わりの日を準備しなさい」という話をしていたのに、ここでは、日常の仕事をしている2人のうち、一方は神の国に受け入れられ、もう一方は置き去りにされるという話をしています。どうやら、「世の終わりに備えるため、日常の生活を捨てなさい」と言っているわけではないと分かります。

 

 最初に少し話しましたが、初代教会では、イエス様の再来について性急な予測を立て、「世の終わりは何年に来る」「イエス様はあと何ヶ月で来る」と熱狂的に語る人々がいました。その中には、いずれ世界は終わるのだから、今の生活なんてどうでもいい! 仕事も何もかもやめて、イエス様を待ち望もう! と過激な主張をする人たちもいました。

 

 しかし、イエス様の語る「準備」とは、この世の仕事や生活を放り出すような、捨て身の待望を意味しているのではありません。畑を耕し、臼をひくという、日常の生活を過ごしながら、イエス様を信じ、伝えていくという宣教の業が勧められます。そう、イエス様の再来を準備するということは、巨大な箱舟を造ったり、住んでいる町から出て行ったりというような、無理難題を要求されるわけではありません。

 

 イエス様が願っているのは一つです。「私を信じ、互いに愛し合いなさい」……それが、私たちに求められている準備です。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」……はっきりしているのは、主人は必ず帰って来るという事実です。それも、私たちが思いがけないとき……

 

 誰かを傷つけ辱めているとき、対立が深まり喧嘩してしまったとき、困っている人を無視したとき、友人や知り合いを見捨てたとき……その日、その時、イエス様は突然帰ってきます。こんな姿見せられない! というタイミングで、主人はガチャリと、家の戸を開けてくるのです。

 

 あるいは、親が子どもの部屋に入るとき、トントンっとノックをしてから、わざと時間を置いて入ってくるときの、あの緊張感と似ているかもしれません。「入っちゃうよ、準備できている? いつ人が来てもいいように、ちゃんと部屋の中片付けている?」……イエス様の再来は、いつ来るかを予測するようなものではなく、いつ来てもいいように準備するものです。

 

 泥棒がいつ来るか予測するのではなく、いつ来てもいいように備えるのと同じ、まさにそんな話です。「人の子は思いがけない時に来る」……だから今、私を信じ、私を受け入れ、互いに愛し合って、準備をしなさい。私はあなたたちが準備を整えるのを待っている。皆さんにはイエス様のノックが聞こえているでしょうか? クリスマスまで2週間、あなたの部屋は、イエス様を出迎える用意ができているでしょうか? 共に耳を澄ませましょう。