ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『いつ終わってもいい?』 ハガイ書2:1〜9、ルカによる福音書21:1〜9

礼拝メッセージ 2019年1月27日

 

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【全部はダメでしょ?】

 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」……衝撃的な言葉ですよね。貧しいやもめ、いわゆる未亡人の女性が持っている生活費を全て献金する。明日からどうやって生きていくのでしょう? 食べ物も、飲み物も、着る物も買えません。税金も払えません。神殿から家へ帰るまでの交通費だって、残っていないのです。

 

 もし、夫を亡くした彼女が、シングルマザーだったとしたら、残された子どもはどうやって育てるのでしょう? 学費も、養育費も、怪我や病気をしたときの治療費も工面できません。通帳の残高はゼロ、たとえ生活保護を受けていたとしても、その全てを神殿の賽銭箱に入れてしまいました。

 

 彼女は、何一つ残らなくても、神様が助けてくれると信頼してささげたのだ。そう言って、この様子を褒め称える人たち……いやいや違うでしょう! 止めなきゃいけないでしょう! 今日、私の目の前で「持っている生活費全部です」と言って教会にささげようとする人がいたら……止めますよ。止めなきゃまずいですよ、健全な教会なら。

 

 今日、皆さんの目の前で「子どものために貯金していたお金を全てささげます」と言い出す人がいたら、どうします? 全財産じゃなくても「いや、ちょっと考え直そ?」と言いますよね。神様は、子どもの進学費、養育費まで全部出せなんて言わないよ、子どもの成長と自立を見届けたとき、感謝の気持ちとしてささげる方がいいんじゃない?……と。

 

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」……イエス様の言うことはもっともです。彼女は、有り余る中からちょこっと献金したのではなく、自分の持っている全財産を献金したのですから。でもこれって「だから素晴らしい」という話なのでしょうか? 「あなたもこうするように」と勧められていることなのでしょうか?

 

 イエス様は一言も「彼女を見習え」とは言いません。彼女を「愚か」だとも言いません。ただ、「だれよりもたくさん入れた」という事実だけを話します。「もう生きる希望なんて欠けらもない。この世がいつ終わったっていい。いっそ、何もかも献金してしまおう」……そんな投げやりな思いで、彼女がささげていたとしたら、どうします? これを他の人にも奨励できるでしょうか?

 

【崩される神殿】

 ある人たちが、見事な石と奉納物で飾られた神殿を見ていました。「素晴らしい、非常に美しい神殿だ。きっと多くの人が献金をささげて、これだけ立派な建物ができたに違いない!」けれども、イエス様は言いました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と。

 

 金持ちたちの見栄っ張りな献金が意味を為さないというなら、まだ分かります。でもこの神殿には、貧しいやもめの生活費、自分の全財産をささげた人の献金も、使われているのです。それがいつの日か簡単に崩される。一つも地面に残らないと言われてしまう。これって、一生懸命、乏しい中からささげた人たちにとっても、ショッキングな話ですよね。

 

 実は、エルサレム神殿は2回、完膚なきまでに破壊されています。最初に破壊されたのは、紀元前586年のバビロン捕囚……かつて、ソロモン王の時代に建てられた第一神殿です。大国に滅ぼされたイスラエルの町は、長い間放置されていました。しかし、紀元前516年に、バビロンから解放され、帰って来た人々が神殿を再建し、エルサレムに第二神殿が建てられます。

 

 最初に読んだ、預言者ハガイの言葉は、神殿の再建にあたって、人々を励ますためのものでした。しかし、できあがった神殿は、ハガイが言っていたほど立派なものではなく、第一神殿よりも、ずっとずっと小さく、みすぼらしいものでした。ちなみに、エルサレム陥落を生き延びた「残った者」たちは、少なくとも70歳以上……もう定年を迎えているような人たちが、必死に財産をささげて建てた神殿です。

 

 彼らが亡くなった後、500年近く経ってから、ようやく完全に改築するような形で、大拡張された神殿が出来上がります。それが、ヘロデ王の時代に、見事な石と奉納物で飾られたエルサレム神殿でした。しかし、念願叶って出来たこの神殿も、わずか50年以内のうちに、市街もろとも、紀元70年にローマの軍隊によって滅ぼされます。

 

 彼らのささげた献金は水の泡です。イエス様が言うように、どんなに立派な神殿でも、どんなに荘厳な教会でも、ある日突然、崩される日がやって来ます。地震や台風によって、国や政府の迫害によって、破壊された教会……そんな光景を思い浮かべた人もいるでしょう。しかし、イエス様から、神殿の崩壊を予告された人たちが思い浮かべたのは、戦争や災害による破壊というよりも、世の終わりによる崩壊というイメージでした。

 

 いつの日か、今ある古い世界は滅ぼされ、神様の支配が完成する。理不尽な人間による支配が終わり、神の国がやって来る。その日、地上は天変地異によって、あらゆるものが破壊される。しかし、神の国に受け入れられた人たちは、崩れ落ちた神殿に代わって、新しい神殿に招き入れられ、共に礼拝し、神の国の完成を祝って、食事に与ることができる。

 

 そんなイメージを、イスラエルの人たちは古くから持っていました。だから、イエス様のおっしゃった神殿の崩壊とは、世の終わりを意味するのだと考えました。2つの考え方ができると思います。世界の終わりが近いなら、この世で礼拝するための場所に、いくら献金したって意味がない。あるいは、世界の終わりが近いからこそ、神の国に受け入れられるよう必死に献金した方がいい。

 

【やもめの献金】

 貧しいやもめの献金は、どっちの意味で捉えたらいいのでしょう? 間も無く崩される神殿のために、全財産をささげてしまった悲しい話か? それとも、神の国にふさわしい尊いささげものをしたと認められる嬉しい話か? イエス様は、彼女の献金を良いとも悪いとも言いません。ただ、「誰よりもたくさん入れた」とだけ語ります。

 

 実は、直前にも、イエス様はやもめについて話をしていました。当時、夫を失った女性の中には、自分が相談した律法の専門家から、法外な金を要求されたり、残された遺産を横領されてしまう人たちがいました。そのような扱いをした律法学者には、人一倍厳しい裁きが与えられると、イエス様は激しく非難しています。

 

 その直後、一人のやもめが神殿で、たった2枚のレプトン銅貨、今で言えば100円かそこらの献金をささげます。実はそれが全財産……残りは全て、悪徳弁護士のような律法学者に、巻き上げられてしまったのかもしれません。誰よりもたくさん取り上げられ、誰よりもみすぼらしくされた人……そんな小さな存在が、誰よりもたくさん入れたのです。

 

 周りにはたくさんの金持ちがいました。彼女のような小さな者を搾取して、多くの財産を築いた人。あるいは、彼女のような存在を気にも留めず、自分の私腹ばかり肥やしてきた人。その有り余る中から、一部を賽銭箱に入れていく……彼らは誰も、やもめに対して気を留めません。彼女が今日終わりを向かえようが、明日命が尽きようが、自分たちには関係ないことだと思っています。

 

 金持ちとはいかなくても、私たちだってそう変わりません。今日ここに、ボロボロで異臭漂う人がやって来て、明らかにまともな生活をしていないと分かるけれど、その場でポケットにある小銭を全て出そうとしたら……止めるでしょうか?

 

【新しい神殿】

 最初に「全財産をささげようとする人がいたら止めるでしょ?」と言いましたが、それは身内の話です。少なくとも、私たちと似たような生活レベルの相手なら、止めるでしょう。けれども、相当ギャップのある人が、路上で生活するような人が入って来て、目の前で全てをささげたら……慌てて止めてようとする人は、なかなかいないと思います。だって、数十円、数百円かそこらですよ? それが持っている全てかもしれませんけど……。

 

 彼が、彼女が、この後食べ物を買えない可能性があっても、やっていけるか分からなくても、ぼんやり献金するのを見ている私がいます。私たちは、今月の給料から一部を献金し、残りで生活するとしても、残されたものがない彼らの生活には気を留めないでしょう。神様を礼拝する場所で、賛美を歌い、聖書を聞き、為すべきことをしたと思って、帰っていくでしょう。

 

 ところが、イエス様はその時大きな声で言うのです。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」……ハッとさせられます。今まで気を留めなかった、関心のなかった相手に、心を動かさずにはいられません。なんたって、その人の緊急事態がこの場で宣言されたのですから!

 

 イエス様、今何て言いました? このみすぼらしい女性が生活費を全部入れた? それって明日から生活できないじゃないですか? そこまでして神様に何かを願うほど、この女性は困窮しているのですか? この人には助けが必要なのですか? 厄介なことを言ってくれましたね……それを知ったら、彼女を無視するわけにはいかないじゃないですか。

 

 有り余る中から献金していた金持ちたちも、決してみんなが、困窮した人を無視できるわけではなかったでしょう。むしろ、愛と正義に満ちた神様を礼拝する場所で、見て見ぬ振りをしろという方が困難です。イエス様がやもめについて語った後、礼拝に来ていた何人かは、彼女に声をかけたでしょう。「大丈夫、私にできることはない……?」私たちの教会なら、「ご飯食べてく?」とハレルヤ・ランチに誘うでしょう。

 

 どんなに見事な教会も、どんなに立派な神殿も、やがては朽ち果て、崩れ去ります。しかし、そこに集う共同体の姿は残ります。目の前で困窮している人に手を差し出し、一緒に支えあって生きていこうとする人たち。その群れを作るため、朽ち果てない共同体を建てるため、イエス様は宣言します。「ここに、全てをささげて何も残ってない人がいる」と。

 

 終わりの日に、私たちが神様を礼拝する新しい神殿とは、このように建て上げられた共同体です。イエス様のひと言で、互いを気遣い、助け合い、愛し合うようになる共同体。教会は、その新しい神殿の先駆けとして、この世に証ししていく場でもあります。献金は、そのしるしとしてささげられるものであり、あなたの生活を破壊してまで、求められるものではありません。

 

【惑わされないように】

 ときどき、「ささげればささげるほど祝福され、あなたの人生は豊かになる」と言ってくる集団もあります。「やもめのように全てをささげないと、悪魔がどんどん力をつけ、あなたを支配してしまう」と、不安を煽るところもあります。

 

 中には、「再臨したイエス・キリスト」を名乗って、「もうじきこの世の終わりがやって来る」「私に従わなければ地獄に落ちる」と言い聞かせ、極端に派手な教会、やたら立派な牧師館を建てさせる人もいます。見事な石と奉納物で囲まれながら贅沢な暮らしを送り、困窮した人には目も留めない……そんな指導者が、残念ながら、わりとあちこちにいるのです。

 

 しかし、イエス様はこう言っています。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」と。

 

 また、戦争や暴動のニュースを並べ立て、世の終わりが迫っていると脅されることもありますが、イエス様はそんなとき「おびえてはならない」と呼びかけます。そして、こういうことが起こっても、「世の終わりはすぐには来ない」と言われます。その日がいつ来るのか、どんなタイミングで起こるのかは、誰一人、当日まで、知らされることはないのです。イエス様本人が、「私も知らない。父なる神様だけがご存知だ」と言っています。

 

 私たちキリスト教会は、この世の終わりがいつ来てもいいように、いつだって自分をささげる生き方を求められます。それは、明日を顧みない投げやりな生き方ではなく、一日一日を誠実に、互いを思いやって生きていく共同体の歩みです。礼拝に来て、ただ祈り、ただ歌い、ただ聖書を読むだけで帰ろうとする私たちに、隣や前後で困っている人に気づきさえしない私たちに、イエス様は新たな行動をもたらします。

 

 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」……さあ、あなたはこの人にどうします? 今日、あなたの隣に、イエス様のおっしゃった人がいるかもしれません。何一つ残されていない、助けを必要としている人が、側にいるかもしれません。あるいは、あなた自身がそうなのかもしれません。イエス様は、私たちを互いに引き合わせ、互いに助けをもたらして、バラバラの民を共同体に造り変えます。

 

 だから、新しい神殿を建て上げましょう。いつかは崩れ去る、見た目だけの教会ではなく、朽ち果てることのない愛に満ちた共同体として、隣の人、前後の人を思い起こしましょう……さあ、目を上げなさい。