ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『それって健全?』 テトスへの手紙2:1〜15

聖書研究祈祷会 2019年1月30日                   

 

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【侮られる宣教者】

 誰にも侮られてはなりません、非難の余地があってはなりません、十分な権威を持って教えなさい……パウロがテトスに書き送ったとされるこの手紙を読んでいると、私はこう思わずにはいられません。どうもテトスというキリスト者のリーダーは、クレタ島の教会で、なかなか言うことを聞いてもらえなかったんだな……と。

 

 テトスは、今でいう宣教師のような立ち位置です。世界で初めて、異邦人への伝道を本格的に展開したパウロと共に、小アジアやギリシャで宣教し、コリント教会ともつながりを持っていました。やがて彼は、一人前の宣教師としてパウロから仕事を託され、クレタ島に滞在することになります。ところが間もなく、大きな壁にぶち当たりました。

 

 どんな問題か?……取り繕うことなく言ってしまえば、こうなります。「教会の人たちが全然言うことをきいてくれない!」そう、この手紙では全体にわたって、教会の人たちをどうやって従わせるかが事細かに指示されています。たぶん、今現在、教会に通っている人の目には、あまり気持ちの良いものではありません。

 

 「こうこうこうすれば、従うようにさせることができます」「こうこうこうすれば、わたしたちについて何の悪口も言えなくなります」……牧師と伝道師が、教会員についてそんな話をしているところ、見たくないし、聞きたくありません。正直言って、この箇所を読んでスッキリした人は、あまりいないでしょう?

 

 ところが、この手紙には、随所にそういった言葉が見出されます。裏を返せば、テトスのいた教会では、彼を侮り、彼を非難し、彼に権威を認めない多くの者がいたわけです。宣教師の力不足と情けない姿を暴露してしまうヤバい手紙……なんてものを新約聖書に残したのでしょう!

 

 そんな中、パウロはテトスにこうアドバイスしています。健全で、思慮深くあるよう努めなさいと。そう、健全であること! 多くの人がこれを求めてやみません。健全な家族、健全な組織、健全な社会……みんな憧れています。みんな考えています。どうしたら自分は、自分の属する共同体は、健全な状態になれるだろう? と。

 

 ところが、新共同訳で『健全な教え』と見出しのついたこの部分、現代的な視点から見れば、「それって健全?」と疑問を感じずにはいられない話がけっこう出てきます。正直私は、ここからどうやってメッセージをするべきなのか、本当に、本当に悩みました。なにせ、ここで言われる「健全な教え」とは、「従わせること」に重点が置かれているからです。

 

【健全に見えない教え】

 最初に引っかかるのは、この言葉です。「年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。」

 

 見る人が見れば、男尊女卑、男性中心主義が如実に現れた言葉ですよね。若い女性に対し、「家事にいそしみ」「夫に従うよう」求める。男女の間に「上」と「下」があるかのような表現……しかも、それを男性が女性に指示するのではなく、女性から女性へ指示させる! なんとも巧妙な刷り込みです。私は正直好きになれません。

 

 次に引っかかるのは、この言葉です。「奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい」……ちょっと待ってください! 主人に奴隷の解放を求めるのではなく、奴隷に主人への忠誠を求めるのですか? 奴隷制度を容認しちゃった言葉です。

 

 ここで言われている奴隷が、アフリカからヨーロッパ・アメリカに連れてこられた奴隷とは、だいぶ異なる待遇だったことを加味しても、あまり褒められた話とは思えません。しかも、主人に対する絶対的な服従を促し、反抗するのを許さない態度……これを皆さん、健全な教えと言えますか?

 

 3章では、一般市民に対しても、支配者や権威者に服して従うよう教えられています。ブラック企業に勤めている人が、これを聞いたらどうでしょう? 所詮キリスト教会も、お上の言うことには逆らうなって教えるわけか……そう感じても仕方がありません。1世紀から2世紀にかけて、行政機関にキリスト教を認めてもらうため、色々と取り繕う必要があったとは言え、これはなかなかまずいです。

 

 イエス様の教えからも、ちょっと離れているように感じます。イエス様は、女性に対し、当たり前に求められていた客人へのもてなしを忘れ、自分の話に聞き入っていた、あのマリアのことを「良い方を選んだ」と言いました。当時でも今でも、常識の枠組みを超えたあり得ない態度です。祭司長や律法学者といった権威者にも、従うどころかためらわず批判し、正面から戦います。

 

 テトスへの手紙は、このようなイエス様の姿より、もともと市民に受け入れられていた一般的な道徳、支配的な感覚に則っていると感じられます。果たしてここから、イエス様の教え、キリスト教のメッセージを聞き取ることはできるのでしょうか?……実はできるのです。いかにも保守的な一般論しか語っていないように聞こえるこの手紙、ユダヤ人からすると、けっこう衝撃的な内容が含まれていました。

 

【常識を超える教え】

 たとえば先ほど、3節から4節にかけて、男性中心主義が現れている話をしましたが、実はここに、その男性中心主義を超える言葉も見ることができるのです。手紙では「年老いた男」と「年老いた女」それぞれに勧めるべきことを教えていますが、年老いた女性の方にだけ、ある表現が使われています。

 

 それは、「聖なる務めを果たす者」という言葉です。パッと見、聖職者のことかな? と思わされる表現、少なくとも、教会において、何らかの指導者的立場、教える立場を表したもの……それが女性に対して使われている! これは「組織の中で教える立場と言えば男性である」という感覚が支配的だった社会では、なかなか衝撃的なことでした。

 

 ちなみに、「年老いた女」と聞いて、皆さん60〜70代くらいの人を思い浮かべるかもしれませんが、この時代の平均寿命、極めて短いものでした。つまり、パウロが熟年女性と呼んだのは、成熟した40〜50代くらいの女性に相当します。以外に若いこれらの女性が、共同体の専従者として行動することを教えられるのは、非常に珍しいことでした。

 

 また、奴隷については、自由も解放も促してはくれませんが、彼らに「神の教えを輝かす」役割が与えられていると宣言します。社会的な地位や階級がどれほど低い者であっても、定められた労働以外できない者であっても、その働きは、尊い神の使命に用いられている。教会で蔑ろにされて良い存在じゃない。そう訴えてくるのです。

 

 不思議です。パウロ、あるいはパウロを名乗る手紙の著者は、少なくとも家父長制に染まった保守的な男性中心主義者、人間を財産として所有する奴隷制度に疑問も感じない男のはずです。手紙の随所からそれを感じさせられます。にもかかわらず、その思想の枠組みを超えた指示を展開している……聖書の不思議なところです。

 

 とはいえ、やはり教会員を「従わせようとする」色調が強いこの箇所は、どうも好きになれません。どうしてここまであからさまに、必死になって、人々を従わせるようとするのでしょう? パウロやテトスに反対し、従わないという姿勢は、そんなにまずいものだったのでしょうか?

 

【反対者たち】

 ここで、彼ら「反対者」に焦点を移してみましょう。テトスの言うことをきかず、しばしば異なる教えを語り、教会の人たちに教えていた者……その多くは「割礼を受けている人たち」……つまりはクレタ島に在住するユダヤ人でした。

 

 当時はまだ、キリスト教を一つの宗教というより、ユダヤ教の分派的なものだと捉える人がほとんど……つまり、周りからすれば異邦人であるテトスよりも、もとからユダヤ教の土台を持っていた彼らの方が、説得力を感じやすいところがありました。

 

 なにせ、子どもの頃から旧約聖書の話を叩き込まれ、律法に精通している人たちです。その人たちから、テトスの言うことに対して「いやいや、旧約聖書にはこう書いてあるじゃん」と反論されたら、他の人々も「そうなのか……」と納得してしまうに決まっています。イエス様の生涯を記した福音書も、当時はできて間もない頃、その権威も、はっきり認められておらず、各教会に普及もしていないときでした。テトスは非常にやりにくかったに違いありません。

 

 また、テトスに反対する人たちは、旧約に記された「清めの規定」にうるさかったようで、ユダヤ教の祭儀における「浄」と「不浄」を、キリスト者の生活にも当てはめていたみたいです。「これは清いから食べても良い」「これは汚れているから触れてはダメ」……そんないくつもの規定を、細かく遵守するよう求める人たちがいました。

 

 ところが、これら「清いもの」を区別し、「汚れているもの」を排除する姿勢は、「旧約に書いてあるから」という理由だけで全てに適用すると、神様の愛から離れる結果となりました。当時、病人や罪人といった「汚れている」とされた人たちは、ユダヤ教の祭儀に参加することも許されていませんでした。その延長線上で考えれば、教会の礼拝にも、当然出席を許されません。

 

 しかし、イエス様は、そんな彼らに対し、手を触れて癒し、共に食事をされた方です。「汚れている」とされた異邦人や徴税人とも、分け隔てなく接しました。今まで支配的だった「清さ」と「汚れ」の当てはめ方を、大きく超えて行動されたのです。現代で言えば、未だに「気持ち悪い」「付き合うべきじゃない」と言われがちな、同性愛者やアスペルガーの人たちと自然に付き合い、食事をされたような方でした。

 

 本来はキリスト者もそれに習い、世間で支配的な感覚に振り回されず、神様の愛に生きることが求められます。しかし、テトスに対する「反対者」「不従順な者」「惑わす者」たちは、清めの規定に従わないことを非難し、揚げ足を取っていたようです。「旧約の掟にこう書いてあるのに、彼はそれに従わない! 不真面目で常識を持たない異邦人だ!」と。お得意の律法についての論議で、何度も何度も攻撃したのでしょう。

 

【異なる教え】

 「清いものと汚れたもの」「聖なるものと俗なるもの」「魂と肉体」……あらゆるものを二元化し、極端化したグノーシス主義に陥った人々は、自分たちこそ最上の知恵、最上の知識を持っているとし、「教えてはならないこと」を次々と語って、教会を分裂させていきました。

 

 だからこそ、パウロは必死になって、彼らに揚げ足を取られないよう、あらゆる点で非難されることがないよう、「健全な教え」を勧めます。年老いた男も、年老いた女も、若い男も、若い女も、主人であろうと、奴隷であろうと、全ての人に救いをもたらす、神様の恵みが既に現れている! だから、キリストを信じる全ての人は、善良で思慮深くありなさい……と。

 

 ここで言う「健全な教え」とは、決して教会における階級制度の話ではありません。むしろ教える立場にある者も、仕える立場にある者も、誰もが皆、善良で思慮深くあることを求められている教えです。手紙の著者自身、「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです」と赤裸々な告白しています。

 

 その自分がイエス様に赦され、助けられ、新しい生き方を与えられた事実を思い出し、世の人々に証しすること……それが、様々な職制を確立する中で、教会に与えられていった使命でした。私たちも、今それぞれに与えられている役割を思い起こし、健全に思慮深く行動できるよう、耳を澄ませたいと思います。