ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『キャラ崩壊』 列王記上8:27〜30、ヨハネによる福音書2:13〜25

礼拝メッセージ 2020年2月2日

 

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【急に暴れる?】

 神の子イエス・キリストが神殿で大暴れするシーン……これを見て、普段のイエス様とギャップを感じなかった人はあまりいないと思います。子どもたちを招き、病人を癒し、罪人に寄り添ったイエス様。貧しい者にパンを与え、嫌われ者と食事をし、女性を尊重してきたイエス様。私たちの記憶にあるイエス様は、どれも思いやりに満ちた姿です。

 

 そのイエス様が、ここでは縄で鞭を作って、神殿の境内から羊や牛を全て追い出し、両替人の金を撒き散らして、その台までひっくり返す……「キャラ崩壊」という以外に何と言えるでしょう? まるで人が変わったかのようです。ひと昔前、「最近の若者はすぐキレる」と言われましたが、まさに公共の場でキレてしまった神の子を垣間見た気分です。

 

 でも実は、イエス様って元から激しい人でした。ファリサイ派や律法学者に向けた言葉は、かなり手厳しいものでした。金持ちに対する物言い、悔い改めない街への怒り、無理解な弟子たちに対する憤りは、大人しく穏やかな様子とはかけ離れています。案外、聖書に出てくるイエス様は、怒ったり、叱ったり、嘆いたりするシーンが多いんです。

 

 しかも、暴力的シーンと言っても過言ではないこの出来事……マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、全ての福音書に載っています。もしも、穏やかで紳士的な人物として通っていた芸能人が、市役所で公務員に詰め寄ってクレームを捲し立てていたことが分かったら、大きなイメージダウンでしょう。それなのに、事務所は隠すどころか、公式ホームページにこの出来事を載せてしまう。

 

 ともすれば、マイナスのイメージをもたらすこの場面が、イエス・キリストの福音を宣べ伝える聖書の中で、なぜか大々的に取り上げられる。しかも、ヨハネによる福音書は4つの福音書の中で唯一、イエス様が「鞭を作って」商売人たちを追い出したことが書かれています。他の箇所でも、さすがに鞭は出てきません。

 

 もはや狙って「大暴れするイエス様」を前面に押し出していますよね? しかも、神を礼拝する神殿という聖なる場所で、イエス様はこの事件を起こすんです。まさか、神の子である救い主が、そんなことするとは思わない。教会でやったら出禁です。神を冒涜する行為にも受け取られかねません。

 

 もちろん、これは単に、イエス様の暴力性を描いているわけじゃありません。イエス様が度々表してきた怒りは、貧しい者や弱い者が虐げられ、正義が行われないこと、神ではなく人の権威に従いながら、表向き神に従っているように見せること……そんな矛盾や不正に対するものでした。

 

 ここでも、ユダヤ人男性以外の人が祈れる、神殿唯一の場所であった「異邦人の庭」が、商売人や両替人によって占領され、静かに祈れなくなっていたこと、その背後で甘い汁を吸っていた宗教者たちの姿勢に対し、怒りを露わにしたことが描かれています。とはいえやっぱり、やりすぎに見えますよね?

 

【怒る所か祈る所か?】

 私たちは、こんなふうに、公に怒りを表すことに対し、どうしてもためらいを覚えます。少し前に、カトリック教会の司祭による児童への性的虐待が取沙汰にされました。ある地域では、シスターも声を挙げました。プロテスタント教会では、その前から牧師によるセクハラや性暴力が訴えられ、裁判になったこともありました。

 

 けれども、教会の中でそれらに対する怒りを表すと、「裁くことよりも赦す努力をしましょう」「怒りの声をあげるより、共に祈りを合わせましょう」と、静かに、穏やかに、大人しく、対処することが求められました。

 

 しばしば、被害者は沈黙を強いられ、「教会は裁判所じゃない」「一番大切なのは、神様と自分の一対一の関係である」「イエス様が十字架にかかってくださったことを思ったら、あなたも我慢して赦すべきではないか」と抑え込まれてしまいました。

 

 個人の痛みだけでなく、共同体の痛みも同様に、口に出すのを抑制されます。震災で被害に遭った人のために祈ることは、どこの教会でも行われましたが、原発の問題と向き合った祈りは、公の礼拝でできないところもありました。戦争や紛争で傷ついた人のために祈ることは、多くの教会でなされますが、沖縄で住民の意志を無視して基地が建設されることについて、公に訴え出ることは、教会でも敬遠されました。

 

 「ここは礼拝する場所です」「社会の問題を訴えるところじゃありません」「怒りを撒き散らすのは勘弁です」「慰めと平安を語ってください」……確かにそうかもしれません。私たちは礼拝するためにここへ来ています。

 

 でも、性的虐待を受けた人たちは、その反省もないままに、安心して教会で礼拝することはできません。原発の危険を知った人たちは、対策が十分されないままに、今まで通りその地で礼拝することはできません。沖縄に住む人たちは、自分たちの意志を無視されて、勝手に工事を進められる中、黙って礼拝することはできません。

 

 でも、教会だから、礼拝だから、信徒だからと、叫ばず、怒らず、静かにしているよう求められ、それに従ってきた人たちがいました。ちょうど、神殿の境内で、自分たちの祈るところを占領され、献げ物や献金のために高い手数料を払わされていた異邦人のように。

 

 かつての祭司やユダヤ人も言ったでしょう。「ここは神殿だから、叫んだり、怒ったりせず、大人しく静かに祈りなさい」……実際には、静かに祈れない状況を、自分たちで作り出し、無視しているにもかかわらず、一部の人にそれを強いてきたんです。 

 

【叫べなかった人たち】

 そんな中、神の子であるイエス様は、空気を読まずに怒ります。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」……不正を隠し、虐待を隠し、抑え込まれた人たちを黙らせているのは、祈りの家でも何でもない。そう言って、基地の前で座り込みをする信徒のごとく、カヌーに乗って工事を止める若者のごとく、イエス様は商売人や両替人を追い出します。

 

 このとき、一緒にいた弟子たちは、イエス様を見て「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉を思い出します。おそらく、イエス様が暴れ出したとき、その叫び声が境内に響き渡ったと思うんです。そう、神殿って、神様を礼拝する場所って、もともと正義や公正を求めて叫ぶ場所、訴え出る場所でした。

 

 最初に読んだ列王記には、ソロモン王が神殿を完成させたとき、このように言ったのが書かれていました。「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください」……もしかしたら、教会というのは行儀よく、大人しく、静かに祈るだけの場所だと思われるかもしれません。でも、旧約聖書には、けっこう激しい言葉で自分の実情を訴えて、神に依り頼む人たちの姿が出てきます。

 

 王の不正を正してください、堕落した祭司を戒めてください、搾取に喘ぐ者を助けてください、弱者を無視する者を裁いてください、貶められた私を顧みてください……個人の痛み、共同体の痛みが訴えられ、叫ばれ、聞き届けられる場所こそが、「わたしの名をとどめる」と神様がおっしゃった神殿であり、教会であるはずなんです。

 

 けれども、イエス様の時代にも、叫ぶ者がいれば、その訴えを黙らせようとする声がありました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」……こんなことをして平気で済むと思っているのか? 我々を怒らせたらいったいどうなるか分かっているのか?

 

 イエス様は挑戦的に答えます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」……ここでいう「神殿」とは、イエス様の体のことを指していると、聖書には注釈が入っています。ようするに「自分を黙らせようとして体を刺し貫いたところで、私は三日後に復活する」と言うわけです。

 

 抗議する者、抵抗する者を黙らせたい人たちにとって、究極の勝利はその人の死です。死は、絶対的な沈黙をもたらします。もはや、正義の実現を求めて、その口が開かれることはありません。ところが、イエス様は絶対的な沈黙を破って甦り、再び口を開きます。人々に変化と回復をもたらす言葉の数々を語ります。

 

 教会で性的虐待に苦しんだ人、被害を受けた人の中には、既に亡くなっている人もいます。「私の声を聞いてください」と訴え続け、誰にも耳を貸してもらえなかった人もいます。しかし、被害者の叫びは消えることなく、勇気を出した別の人たちによって、再び沈黙を破られます。その人たちの中には、確かに復活の主が生きているんです。

 

 キャラ崩壊したように見えるイエス様の行動は、実はその生涯を通して一貫しているものでした。傷ついている者を癒し、倒れている者を起こし、その口を開く勇気を与え、必要な変化をもたらされる……今、キリストのパンと杯にあずかるとき、もう一度、私たちに語りかけられたこと、促されていることを思い出し、自分の遣わされた場所へと出て行きましょう。