ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『金は良いのか悪いのか?』 アモス書8:4〜7、テモテへの手紙一6:1〜12

礼拝メッセージ 2019年10月6日

 

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【不正はいいの?】

 礼拝の最初に聞いた「招きの言葉」……衝撃を受けましたよね? イエス様が、あるとき弟子たちに言った言葉。

 

 「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる*1

 

 念のため弁解しておくと、これは「今日の礼拝で読むように」と指定されている、教団の聖書日課から選んだ聖句です。とんでもない言葉ですよね。

 

 いやいや、「不正を働いて作った金で友達を作れ」なんて、イエス様何を言っているんですか!? 弟子たちも慌てたと思うんです。

 

 現に、アモス書8章4節から7節では、不正を働いて金を儲ける人たちに、神様の厳しい批判が向けられています。

 

 「貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う……エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう……わたしは、彼らが行なったすべてのことを、いつまでも忘れない……」

 

 どうも矛盾していますよね? 不正を働いて作った金、弱い者から搾取した金、貧しい者から巻き上げた金……「そういう手段で財産を得るな」という神様の言葉と、「そこで得た金で友達を作れ」というイエス様の言葉。

 

 何だかチグハグです。金を持っているのが良いのか悪いのか、ちょっと悩んでしまいます。

 

 さらに、テモテへの手紙一では、搾取と支配の象徴である、奴隷制度を容認するような言葉が出てきました。

 

 「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません……むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だから……」

 

 これって、「雇用者が奴隷から利益を得てもいいの?」って話に聞こえてきます。「軛の下にある」という言葉は、低い身分で、やむを得ず力を奪われた人々の休息のない労働を意味する表現です*2

 

 そんな状況に置かれた人から利益を得る……それって、アモス書で批判されている金儲けとそう変わらなくないですか? 

 

 金銭を得て、富を蓄え、財産を築いていく行為……これらは、私たちの生活全般に深く関わっているので、素通りできる問題じゃありません。

 

 今日、「奴隷も搾取オーケーだ!」と言い放つ信者はいないでしょうが、利得を求める行為の良し悪しは、かなり意見が別れるでしょう。

 

【金儲けはダメ?】

 実際、金を儲けることについて、キリスト教会では、その是非が繰り返し問われてきました。

 

 「問題は、富を築くか築かないかではなく、その使い道である」としたり、「福音のために、伝道のために財産を築くなら、神はその人を祝福される」としたり、「よほど不当な手段でなければ、金銭を得ることについて聖書は否定しない」としたり……

 

 一方で、「金銭を求めること自体、欲に支配されている状況だから奨励されるべきじゃない」と言ったり、

 

 「貧しい人、困窮している人たちに富が行き渡るよう、信仰者はなるべく質素な生活を送るべき」と言ったり、「地上に富を積んでも、やがては消え去るものだから、この世ではなく天上に富を積むため、善行に励みなさい」と言ったり……

 

 金は良いのか悪いのか、古代、中世、現代に至るまで議論が続くほど、人々の関心を引く話題です。皆さんはどうでしょうか?

 

 たぶん多くの人が気になるのは、どのような手段で、どの程度の利益なら、「求めてもかまわない」「悪くない」と言われるのか……という話じゃないかと思うんです。

 

 だって安心したいですもん……イエス様に教えを請うたどこかの裕福な青年みたいに、「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われようものなら、私たちは途方に暮れます*3

 

 たとえ、「生活に必要な最低限は残していい」と言われても、それ以外の財産を売り払うことは、やっぱり普通できないでしょう。悲しみながら立ち去る以外にありません。

 

 私たちのルーツである、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレー。彼は生活に必要な最低限のお金を計算し、それ以外の収入は、全て貧しい人々のために寄付しました。

 

 若いときから生涯にわたって……同じ教会の聖職者として、私も必要最低限の収入以外、困窮している人たちのために献げるべきかもしれません。

 

 でも、それはちょっときついから、「この程度でいいよ」と言ってほしいラインがある。あるいは、「そこまでやらなくても別に良い」って思える根拠がほしい。そんなふうに聖書を読もうとしてしまいます。

 

 ほら、イエス様も「不正でまみれた富で友達を作れ」って言ってるじゃないか? 奴隷から利益を得るのも、手紙では否定されていないじゃないか? ところが、同じ手紙の中で、甘い認識をひっくり返す厳しい言葉が出てきます。

 

 「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」

 

 さらにこの後も、不安を煽るような言葉が続きます。「金銭の欲は、すべて悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」……これを聞いたら、思わず弁解したくなりますよね。

 

 「いやいや、私は別に億万長者になりたいんじゃない」「安心して暮らせるだけのお金があれば、ときどきちょっと贅沢ができれば、それで良いんです」と……

 

 でもこの箇所は、必要で最低限度の生活ができれば、それで満足するべきだと言っているようにも聞こえます。それ以上の利得を求める者は、サタンに唆されていると言わんばかりの表現です。

 

【満ち足りるって?】

 教会によっては、こういった箇所から名指しで信徒を批判してしまうところもあります。「あなたはまだ献げられるのに、欲に囚われて出し惜しんでいる!」「教会の会計に口を出すのは、サタンに蝕まれているからだ!」

 

 一方で、ささげられた献金や収入の大部分が、一部の人の懐に入る……この一年で3件か4件は聞いた話です。

 

 人には「金銭に囚われるな」と言いながら、自分には富が集中するよう仕組んでしまう。そういう人間が、初代教会にもたくさんいました。信心を利得の道と考える者、福音を語る自分には、たくさん報酬が与えられると考える者……

 

 ある教師は、秘密めかした教えを、純粋な信仰であるかのように言って、多額の献金と引き換えに信者たちへ教えます。また、ある教師は、カウンセリングまがいのことを繰り返し、何度も、何度もお金を巻き上げます*4

 

 欲に囚われているのはそっちなのに、出し惜しむ信者の方が、自分の財産に固執する愚かな者のように言ってくる。そうしてまた一人、また一人と献金をささげさせられ、「異なる教え」の虜になっていく。

 

 どうやら、初代教会にあった問題も、現在のキリスト教会やスピリチュアル界隈で問題になっていることも、そう変わらないようですね。

 

 テモテへの手紙一は、こういった者を「キリストの健全な言葉から離れた者」「信心に基づく教えに従わない者」と批判しています。

 

 彼らは高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになり、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いを生じさせる。精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える……かなり辛辣です。

 

 しかし、6節にはこうも書いています。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」と……私たちはこの「満ち足りる者」にならなければならない。

 

 でも、お金がなくても、奴隷であっても、「満ち足りる者になる」って、いったいどういうことなんでしょう?

 

 昔ある子どもが、遠足に持っていくお菓子を選んでいたとき、大きくて玩具付きのお菓子があるのに、わざわざ小さくて何もついてないお菓子を、幾つも籠に入れていました。

 

 思わず、「大きい方じゃなくていいの?」と尋ねると、「みんなと分けられないから」って返ってきた。

 

 その子が言うには、遠足でお菓子を食べるとき、みんなが持ってきた色んなお菓子を、お互いに交換して食べる。大きくて玩具付きのお菓子を一人で楽しむより、他の人と、違うお菓子を分け合って食べる方が、ずっと楽しいし面白いと。

 

 なるほどと思いました。「満ち足りる」ということは、独占した状況では生まれない。むしろ、分かち合うときにこそ、もたらされる。

 

【世界聖餐日の日に】

 礼拝の最初に、招詞として聞いたイエス様の言葉。「不正にまみれた金で友達を作りなさい」……あの前には、主人の財産を無駄遣いした管理人が、主人に借りのある人たちを次々と呼んで、借金を減額していくたとえがありました*5

 

 それまで、自分が利益を独占するために操作していた会計を、負債を負った人たちのために操作します。

 

 この操作で、彼に新たなお金が入ることはありません。たぶん、一人で主人の金を持ち逃げする方が、将来の蓄えにはなったでしょう。

 

 しかし、管理人は主人に無駄遣いがバレたとき、それまで利益を独占していたやり方を捨て、周りの人と利得を分かち合う道へ進みます。

 

 この後追い出される彼は、貯金も蓄えもありませんが、順番に助けた友達の家に迎え入れられ、一緒に食事をすることになるでしょう。

 

 そう、アモス書で批判されている商人たちの不正も、テモテへの手紙で警告されている欲求も、「分かち合う」喜びから離れた行為……自分に富が集中するよう、利益を独占し、金品を「独り占め」しようとする行為です。

 

 でも実は、その行為によって本当に「満ち足りる」ことはない。一人で隠れてパンを食べても、決しておいしくは感じない。

 

 今日は、奇しくも世界聖餐日……イエス様が分け合ったパンとぶどう酒を、私たちもそれぞれの教会で分け合って、一緒にいただく日曜日です。

 

 この世で様々なものを独占し、分け合うことを拒んできた私たちは、不正な管理人と変わらない、小さな罪人に過ぎません。しかし神様は、私たちを「独占する者」から「分け合う者」へと導いて、永遠の住まいに迎え入れようとしています。

 

 欲に囚われ、なかなか満足できない、私やあなたに勧めます。あなたも「満ち足りる者」になりなさい。

 

 キリストのパンと杯を受けて、分かち合う喜びを知りなさい。この聖餐を通して、追い出される者から、迎え入れられる者になりなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

*1:ルカ16:19参照。

*2:T.C・オーデン著、岩橋常久訳『現代聖書注解 テモテへの手紙1、2 テトスへの手紙』日本基督教団出版局、1996年、182頁13〜15行参照。

*3:マルコ10:17〜22参照。

*4:土屋博「テモテへの手紙一」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、612頁下段13〜18行参照。

*5:ルカ16:1〜8参照。