ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『もう少し質素にできません?』 エレミヤ書13:12〜17、ルカによる福音書5:33〜39

礼拝メッセージ 2019年2月3日

 

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【悔い改めと断食】

 「新しい服と古い服」「新しいぶどう酒と古いぶどう酒」両者は決して相容れない……ちょっとドキドキしてきませんか? 新しいものと古いものが対立し、互いに受け入れられないという話、私たちの周りにもけっこうあります。若者と高齢者、親と子ども、ベテラン上司と新入社員……いつの時代も、新しい考えと古い考えは衝突し、大きな対立をもたらします。

 

 「イエス様……あなたを支持する洗礼者ヨハネは、弟子たちに度々断食をさせているのに、あなたの弟子たちはずっと飲んだり食べたりしています。あなたは『罪人を悔い改めさせに来た』と言いましたが、正直、あなたに従う人たちが悔い改めているようには見えません。ひたすら宴会ばかりしているではないですか?」

 

 ファリサイ派や律法学者と、断食についての問答が始まりました。ここでも、古い伝統と新しい立場、彼らとイエス様との対立が起きています。ユダヤ人の間で断食といえば、悔い改めと信仰深さの現れです。年に一度の贖罪日には国中の人が断食し、それ以外にも4回、エルサレムが破壊された日を思い起こして断食するときがありました。ファリサイ派の人たちはさらに、週に2度、月曜日と木曜日に断食していました。

 

 頻繁な断食は、それだけ神様の前に悔い改めていることを表し、断食を全くしないというのは、自分の罪と真剣に向き合っていないというふうに見なされました。イエス様の場合は、弟子たちと一緒に断食しないどころか、盛大な宴会に出席していました。しかもその宴会は、徴税人や罪人と呼ばれる人たちの家、質素で清い生活からはかけ離れたところで催されました。

 

 徴税人は、政府から特定の地域で税金を徴収する権利を買い取った人たちで、彼らの中には、契約以上に民衆から税をむしり取って私腹を肥やす者が絶えませんでした。罪人と呼ばれる人たちも、おそらくは彼らの仲間、賄賂や天下りの世界に身を置いた、スキャンダラスな人たちのことだと思われます。

 

 想像してみてください。イエス様が、テレビのワイドショーや週刊誌を賑わすあの人やこの人との会食に出席している。悪い噂の絶えない政府関係者、不倫や売春の疑いがある有名人……そんな人たちと豪勢な食事をしていたら、私たちだって言うでしょう。「イエス様、本当にこの人たちを悔い改めさせに来たのですか? とてもそんなふうには見えません。せめて、もう少し質素にできません?」と。

 

【古い考え】

 これって、私たちの頭が硬いのでしょうか? 古い考えに縛られているのでしょうか? たぶんそう思う人は、ほぼいないでしょう。だって普通でしょ……この感覚? 誰から見ても悪い人と食事をしている。その食事は質素じゃなくて豪勢です。罪を犯した人間が、イエス様と笑顔で語り合い、飲み食いしている……受け入れられますか?

 

 キリスト教会は、イエス様の教えに基づく、新しい考えに生きている! そう言いたいところですが、実は今でも、この方の考えについていくのは大変なのです。罪人が自分の罪を自覚したなら、反省した者らしく、しょぼんとしていてほしい。イエス様の隣で楽しく飲み食いしないでほしい……それが私たちの感覚であり、囚われている古さです。

 

 今どき「断食」を強制するとか古臭いことしませんよ! そう思っている人は多いかもしれませんが、私たちは今も「断食」に変わるものを人に求め、強制し、無言の圧力をかけています。それが古いだなんて夢にも思っていないのです。「そんな派手な服は止めて! 教会に来るなら、もう少し地味にできないの?」「肩が見える格好なんて、あなた本当に礼拝に来たの?」

 

 もっと質素に、もっと地味に、悔い改め、反省している様を見せるように、私たちは人に求めます。それなのにイエス様ときたら、平気で彼らの家に行き、楽しく飲み食いをするのです。戸惑い非難する私たちに、イエス様は答えます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか?」と。

 

 イエス様が一緒にいるところで、イエス様と出会った人たちに、私たちは悲しい顔をさせ、難しい顔をするよう促します。でもそれは、イエス様の求めることじゃありません。私は罪人だ。間違いを犯した者だ。だからここで、イエス様と一緒に笑えない。イエス様と楽しく過ごせない……そう思わせる人たちに「いやいや、違うよ」と言うのです。

 

 結婚式の当日、集まった人たちに向かってこう言う人はいるでしょうか? 「何だ、その格好は! もっと綺麗でピシッとした服を用意できなかったのか? 何だ、その髪色は! 式の当日くらい黒色に染めてこい! 自分のだらしなさが分かっているか? 分かっているなら、そんな楽しそうな顔をしないで、もっと反省した顔で過ごしなさい。さあ、式が始まるぞ!」

 

 こんなこと言い出す人がいたら、摘み出したくなりますよね。花婿と花嫁だって、集まった人たちにこの瞬間を一緒に喜んでほしい、一緒に楽しんでほしいと思っているのに! でもたまに、披露宴で集まった親戚に向かって、説教を始める人もいるでしょう。それが誰かって……私たちなのですよ。

 

【古い継ぎ当て】

 イエス様はこれらの話をしているとき、自分がこの後、人々のために十字架につけられ、殺されてしまうことを知っていました。やがて、彼らも断食するときが来るのを知っていました。だから、彼らと直接過ごせるこの時間を、とても大事にしていました。罪人が、自らの過ちと向き合って、その深刻さに打ち拉がれてなお、新しい生き方ができるように、彼らが自分と共に食べ、共に飲み、共に笑った出来事を記憶させました。

 

 イエス様は、罪人に罰を与えることではなく、罪人と共に食事をし、仲間にすることで、人々に悔い改める心と力を起こしてきました。しかし、その有様は、ファリサイ派の人々や律法学者とは相容れないものでした。彼らは罪人を共同体に回復することよりも、罪人を共同体から弾き出す考えに染まっていたからです。

 

 イエス様が、貧しい人も病人も、娼婦も異邦人も、罪人も徴税人も招かれた方であるのに対し、彼らは壁を作る者でした。自分たちの基準に合わなければ受け入れない、そんな態度を崩せませんでした。そこで、イエス様はあるたとえを話されます。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。」

 

 当たり前のことですよね? 言われなくても分かっています。そんなもったいないことしませんよ。でも実は、私たちは普段の礼拝でそれをしています。聖書も、讃美歌も、公読文も、現代の新しい訳で、初めて礼拝に招かれた人も分かる言葉を選んでいるのに、主の祈りと使徒信条だけは、古い言葉を選んでいる。それが今、私たちの礼拝にふさわしい格式高いやり方だと思ってやっている。

 

 イエス様が教えた最も基本的な祈り、教会に来た人へ最初に教えるはずの祈りが、私たちでも普段使わない文語の言葉で語られる。キリスト教の基本的な信仰を要約した信条が、告白を聞いた者に伝わらない言葉で唱えられる。それに馴染んでもらうのが、正しく、普通だと信じている……なるほど、今現在、新しい服に古い服の継ぎ切れを当てているのが、私たちの姿なのかもしれません。

 

【新しいものを欲しがらない】

 「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」……これも、あたり前のことです。新しいぶどう酒は発酵してガスが出るので、伸縮性のある新しい革袋に入れないといけません。古い革袋に入れたらガスが発生しても皮が伸びないので、すぐに破れてしまいます。

 

 しかし、やっぱりよくやってしまうことです。私たちは、古い考えと新しい考えが衝突したとき、2つを継ぎ合わせて、事なきを得ようとします。使徒言行録に出てくる教会にも、イエス様の新しい教えを、ユダヤ教の古い律法主義的枠組みの中に入れようとした人々がいました。

 

 彼らユダヤ主義的キリスト者は、ペトロに向かってこう非難します。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした!」……ユダヤ教の伝統であった、男性の包皮を切り取る儀式。それを行わなければ、本当に神様に悔い改めたしるしにはならないと主張したのです。

 

 今だったら、そんな古い考え、捨てればいいのに……と思いますが、古いと気づかずにやっているのです。長年勧められてきたこと、長年当たり前だと思っていたことが、ある日突然イエス様から覆されます。「あなたがやっていることは、婚礼の客を断食させ、新しい服と古い服を継ぎ合わせ、新しいぶどう酒を古い革袋に入れているのと変わらない!」と。

 

 そして、トドメを刺すかのようにこう言います。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」……私もそうです。礼拝堂がピンクや紫の服でいっぱいになったら、「前の方が落ち着いていて良かった」と言うでしょう。主の祈りが文語訳から口語訳になったら、「古い方が唱えやすかった」と思うでしょう。

 

 新しく翻訳された聖書も、20年近く慣れ親しんだ翻訳とは違うので、なかなか礼拝に使おうとは思えないでいます。たとえ、新しい時代、新しい理解に基づく適切な姿だったとしても、簡単には受け入れられないのが私たちです。だから、この言葉を思い出すのです! イエス様が断食について教えられ、たとえを語ったこの話は、古いものを過ぎ去らせ、新しいものを生じさせるメッセージなのです。

 

【宴会と聖餐】

 さて、今日はこの後、イエス様の十字架と復活を記念する聖餐式が行われます。聖餐式は、やがて来たる神の国で、私たちが招かれる神様との食事を先取りしたものです。ただし、皆さんが聖餐を受けるとき、笑顔でこれを受ける人はなかなかないと思います。

 

 普段私も式文で読み上げるとおり、イエス様が自分のために苦しまれた、そのことを思い出してパンと杯を受けるからです。自分の罪を見つめながら笑顔になろうという人はいないでしょう。そもそも、罪を反省しながら飲み食いするなんて、かなり微妙な話でしょう?

 

 しかし今日は、難しい顔になろうとしないで、イエス様が共にいて、共に食べ、共に飲んでくださる喜びを、どうぞ思い出してください。「悔い改め」と「飲み食い」は、非常にミスマッチな組み合わせですが、これこそ、イエス様がもたらした新しさです。イエス様と出会って自分の愚かさ、罪深さを知ることと、そのイエス様から赦されて、一緒にいてもらえることを知る喜びは、決して切り離せないのです。

 

 私も普段、式文を間違って読まないように、顔を強張らせて立っていますが、今日は古い自分を脱ぎ捨てて、新しく、飲んだり食べたりしたいと思います。そして、今まで私たちが拒んできたもの、受け入れられなかったもののために、祈りを合わせ、神様の招きに答えていきたいと思います。