礼拝メッセージ 2019年5月19日
【逆らえば報復される】
「俺がいなきゃお前は何もできない」「あなたの面倒を見てあげるのは私くらい」……家庭で、学校で、会社で、こういった発言を聞いたこと、あるいは言ったことがあるかもしれません。
面と向かって「馬鹿」とは言われないけれど、「こんなこともできないのか」と、日に何度も睨まれる。目の前で繰り返しため息をつかれる。
実はそれ、DVやデートDVの特徴であり要素です。家庭内暴力、精神的肉体的ダメージをもたらす行為……家族や恋人関係だけでなく、友人関係でも起こります。
「私以外にあなたの友達になってくれる人はいない」「あなたはドジで、バカで、情けないけど、私が付き合ってあげている」
その人の自信を失わせ、自責の念に駆らせる言葉。これを続けていくことで、支配と被支配の関係ができあがります。当然、褒められた話ではありません。
似たような言葉が旧約聖書にも出てきました。最初に読んだ申命記7章7節の言葉、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」
取るに足らない者を特別に選んでくださった、憐れみをかけてくださった……神様の恵みを示す言葉ですが、聞きようによっては、人々の自信を失わせるDV加害者の発言と似ているものを感じます。
「あなたは非力で小さくて頼りない、本当にどうしようもない存在だ」「それでも、私と付き合えていることに感謝するべきだ」
神様がこの世に遣わされた救い主イエス様も似たようなことを言いました。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」
悪意ある訳し方をすればこうなります。「俺の言うことを聞いていればいい」「私なしじゃ、あなたは何一つ満足にこなせない」
さらに、神様は人々に対し、自分に逆らうことのないよう警告します。「あなたは、今日わたしが『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」「主は、御自分を否む者にはためらうことなくめいめいに報いられる」
イエス様も脅しのような言葉を残します。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」
夫婦や恋人、友達の間で10個も20個も作られたルール。守れなければ関係を切ると言われた細かい掟。
私がこうするときには、あなたもこうしなければならない。それができなければ、どうなっても知らない。俺がお前を捨ててしまったら、もう生きていけないぞ……逆らったら分かっているな?
大切な相手に対し、神のように振る舞うことが私たち人間には度々あります。自分より弱い小さな存在なら、こっちが守ってあげる分、相手をそう扱ってもいいような気がしてしまいます。自分は良い「主人」になろうと……それが「暴力」だと気づきもせずに。
しかし、神様がイスラエルの民にとった行動や、イエス様が弟子たちに示した行動は、支配と被支配の関係をはるかに超えたものでした。
【神に逆らった結果】
「あなたは、今日わたしが『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」……この言葉は、奴隷として囚われていたイスラエルの民が、神様に導かれてエジプトを脱出し、海を渡り、約束の地に到着したとき、語られたものでした。
「俺の言うことを聞くように」「逆らったら分かっているな?」そのように言う一方で、実は民に対してへりくだり、不平不満を聞いてきたのは神様の方でした。
「どうして我々を連れ出したのか?」「荒れ野で飢え死にさせるためか?」「やっぱりエジプトに帰らせてくれ」
イスラエルの民は、何度も神様の奇跡を見てきたにもかかわらず、約束の地に連れて行くという神様に、繰り返し逆らおうとします。
「助けてくれ」「解放してくれ」神様に向かって叫び求めたことも忘れ、エジプトを脱出した後も、勝手な要求ばかりするんです。
もしもこれが、単なる支配と被支配の関係なら、自分の言うことをきかない民に、神様が罰を下すか、荒れ野にほっぽりだして終わりです。怒鳴って黙らせるか、殴って反省させるかです。
ところが、神様は人々の「主人」ではなく「奴隷」のように行動します。「喉が渇いた」と言えば水を沸かせ、「腹が空いた」と言えばマナを降らせ、「肉が食べたい」と駄々をこねたらウズラを降らせる。
人々は、神様が指導者に選んだモーセを何度も殺そうとするし、挙げ句の果てに金の子牛の像を造って、それを神として拝み始めます。神様からしたら、虐待と浮気のオンパレードです。
にもかかわらず、神様は辛抱強く語りかけ、民の要求に答えていきます。思い返せば、アダムとエバに始まって、王や国民に至るまで、神様が「逆らったら分かっているな?」と言ってきた相手は、神様に仕えると言うよりも、むしろ仕えられてきました。
【キリストに逆らった結果】
圧倒的な力を持った、逆らえないはずの存在が、むしろ人々に仕えてきた……イエス様と弟子たちの関係もそうでした。
イエス様は、弟子たちに足を洗ってもらう主人としてではなく、弟子たちの足を洗う奴隷として仕えました。食事を取り分けてもらう主人ではなく、パンとぶどう酒を取り分ける給仕として働きました。
挙げ句の果てにこう言います。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」……冷静に考えるとおかしな話です。
イエス様がこう言ったとき、弟子たちはまだ、イエス様が十字架にかかろうとしている事実を知りません。主人が何をしようとしているか知らない、理解していない。本当はまだ「友」と呼ばれるはずがないんです。
直前でこうも言われていました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と。
イエス様が命じた掟、それは繰り返し教会で聞いてきたように、「互いに愛し合いなさい」という掟です。弟子たちは、この掟をきちんと守っていたでしょうか?
誰が一番偉いか言い争い、人より高い地位を求め、喧嘩ばかりしていた彼ら。子どもたちを蔑ろにし、女性を追い払う姿。逆に、お互いを思いやる姿は、なかなか見ることができません。
本来、弟子たちは「友」と呼ばれるはずがありませんでした。むしろ、自分たちを「友」と呼んでくれたイエス様が捕まったとき、見捨てて逃げてしまいました。
イエス様が処刑され、遺体が墓に納められるときも、顔を出しさえしませんでした。「友」としてありえない姿です。木から離れて落ちてしまった枝のように、捨てられて焼かれるはずの存在でした。
にもかかわらず、イエス様は復活し、再び彼らの前に現れて、自分は今もあなたたちの「友」であると語ります。「あなたがたに平和があるように」と呼びかけ、関係を回復するんです。
「逆らったら分かっているな?」と言われた人々が、神様に逆らった結果、イエス様に従わなかった結果、どうなってしまったか? 捨てられてしまったのか?……聖書はむしろ、逆のことを記しています。
支配と被支配の関係を超えて、主人と奴隷の関係を廃して、私たちの「友」として近づき、宥め、正しい道へ帰される。この方が私たちに求めるのも、支配と被支配の関係ではなく、互いに愛し合う関係です。
【支配と対等な関係】
聖書を見ていると、神様は一見、逆らう者に容赦はしない、暴君的支配者に感じられます。「逆らえばお前を打つ」と言い、罰や報復で脅しているように感じます。
しかし、実際に聖書の多くを占めているのは、神様が罰や処罰を下したシーンより、対話を試みるシーンの方がはるかに多いんです。
ある程度、痛い目に遭わせてから言うことを聞かせた方が早いのに、預言者を送っては自分の言うことを聞くように、このままではいけないと警告する。
痛い目を見ないと話を聞かないのは、もう何度も経験しているのに、繰り返し人々と対話しようとする。それが神様の姿でした。
支配的な関係を好む者なら、弟子を盾に自分を守り、自分を庇うようコントロールするでしょう。しかし、神様は逆のことを行います。友のために自分の命を捨てる……自分を盾に人々を守り、自分に応えるかどうか、相手の選択に委ねてくれる。
イエス様の十字架と復活を通して示された愛は、私たちを恐れで支配する力ではなく、恐れから解放する力でした。
「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」
最初に、DV加害者の発言と似ているものを感じた言葉、今読み返すと、むしろ暖かい言葉に聞こえます。主はあなたに心引かれた。あなたが強いからでも、忠実だからでもなく、ただあなたという存在に心引かれ、選んでくれた。何度も背いたあなたのことを。
神様は、人々を支配するためではなく、解放するために選びました。虐待するためではなく、癒すために連れ出しました。奴隷にするためではなく、友となるため、兄弟となるために呼びかけました。神様は私たちにも、互いに愛し合うことを求めます。
【互いに愛し合う相手】
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」……繰り返し、イエス様が命じているこの言葉、皆さんはどのように聞くでしょう?
あなたとあなたが愛する相手は、この掟に似合う関係を結べているでしょうか? 実は、「愛」という名で別の力に支配されていないでしょうか?
あなたが支配している相手は誰でしょう? あなたが友と呼ぶべき相手は誰でしょう? あなたが主人のように振る舞い、奴隷のように扱っている相手は誰でしょう?
自分が教えている相手、養っている相手、育てている相手に向けているもの、それは愛でしょうか? それとも支配欲でしょうか?
あるいは、あなたを支配し、あなたを奴隷にしている相手は誰でしょう? 恐れと不安でコントロールし、自分を閉じ込めている相手は誰でしょう?
キリストは私たちを「友」と呼びました。私たちの「主人」ではなく、「仕える者」となりました。あなたも「主人」ではなく「友」となり、「奴隷」ではなく「兄弟」となりなさい。
ここに招かれた一人一人が、恐れから解放され、新しい関係に生きられるよう、隣人に頼る力、訴えを受けとめる力、誠実に応える力が与えられますように。