ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そんなたとえじゃ分からない』 マルコによる福音書4:21〜34

聖書研究祈祷会 2019年5月15日

 

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【説明のないたとえ】

 何かを説明するためによく分からないたとえ話をされて、かえって混乱してしまう。たとえ話を用いることで、おかしな矛盾が生じてしまう。そんな場面に皆さんも遭遇したことがないでしょうか?

 

 最近、近畿大学の卒業式に招かれた漫才コンビ、キングコング西野亮廣さんのスピーチが話題になりました。要約するとこんなところです。

 

 ―時計には長針と短針があって、1時間に1回重なり合う。ただし、11時台だけは長針が短針に追いつかず、2つの針は重ならない。重なるのは、やっと12時になったとき。何が言いたいかというと、鐘が鳴る前には報われない時間があって、人生における11時台も必ずやって来る。でも、時計の針は必ず重なるから、挑戦し続けてほしい―

 

 ネット上では「感動した」という声がある一方、「時計と人生は違う」「定期的に針が重なる時計を、定期的に報われない人生にたとえるのか?」「マルチ商法の動機付けや成功哲学と同じで、根拠のない話に説得力を与えている」などの批判も受けています。

 

 そう、たとえ話ってこれに陥りやすいんです。いい話っぽく語ることで、何となく説得力のある雰囲気を醸し出す。「誰もが必ず報われる」という前提で、現実に対応しない抽象的なすり替えを行ってしまう。

 

 私自身も、礼拝や祈祷会でそんな話をしていないか、注意する必要があるでしょう。「いいことがあれば信仰のおかげ、悪いことがあれば信仰が足りないせい」そんな短絡的なメッセージをついつい語ってしまうのが、私たち牧師の悪いところです。

 

 色んなたとえ話をしてきました。会衆を感動させ、共感を呼び、励まされたと感じる「良い話」……だけど、それは本当に誠実だったのか?

 

【たとえを濫用するイエス様】

 イエス様も、たくさんのたとえ話を語りました。先ほど読んだ箇所の直前には、《種を蒔く人のたとえ》が語られ、その説明が弟子たちにされていました。

 

 33節にはこうあります。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」

 

 なるほど、さすがイエス様です。でも、人々の聞く力に応じて語ったわりに、弟子たちは理解していません。皆キョトンとしています。「そのたとえはいったい何を言っているんです?」弟子たちがこんな有様なので、群衆も似たような反応です。

 

 イエス様のたとえを聞いた人々は、「良い話だ!」「感動した!」「励まされた!」なんて言いません。むしろ、「これはいったいどういう意味だろう?」「何が言いたかったんだろう?」と考え込んでしまいます。

 

 「このたとえが分からないのか? では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか!」イエス様はそう言いながら、《種を蒔く人のたとえ》を説明し、さらにその後、「ともし火のたとえ」「秤のたとえ」「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」と、怒涛のたとえ話ラッシュを始めます。

 

 ついさっき、たとえ話を語っても理解されないことが分かったのに、その後もたとえを用いて語り続ける。自分の弟子たちには、密かにその意味を説明しながら。

 

 なんと非効率で手間のかかるやり方でしょう。しかも、聞き手にとって最も肝心なところ、たとえ話の説明についてはほとんど記されません。

 

 説明があるのは初めのたとえ話だけ。あとはほぼ、言いっ放しです。以前、《種を蒔く人のたとえ》については、ルカによる福音書8章から礼拝で語らせてもらいました。

 

 そのとき、イエス様が語った極僅かなたとえ話の説明も、実は成り立っていないことを話しました。

 

 「種は神の言葉である」と言いながら、その後の説明では、聞き手が「種」にたとえられているようにも、種を蒔く「土地」にたとえられているようにも聞こえてくる。

 

 イエス様のたとえは、聞いた人にすぐ「答え」を得られるようにではなく、聞いた人が自分で「考え」自分で「受け取る」ようにできている。そのように言ったと思います。

 

 新しく語られたこの4つのたとえについても、手軽な感動や励ましを得るのではなく、何をどうたとえているのか、自分で考えるよう促されています。

 

【ともし火のたとえ】

 まず、《ともし火のたとえ》については、そもそも「ともし火」が何にたとえられているのか、一切説明してくれません。前半と後半の話もつながっていない、関係ないように聞こえます。

 

 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」……普通、この後に続くとしたら「だから、置くべきところに置くべきものを置きなさい」「適材適所だ」と言ったような言葉だと思います。

 

 ところが、実際に続くのは「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉です。さらに、その後出て来る「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉も関連がよく分かりません。

 

 直前で、神の言葉を「種」にたとえていたイエス様の話を思い出すなら、こちらでは、神の言葉が「ともし火」にたとえられていると考えられます。

 

 前回のたとえでは、御言葉である「種」がふさわしくない土地、道端や石地にも蒔かれましたが、こちらのたとえでは、御言葉である「ともし火」が然るべき場所、部屋全体を照らす燭台の上に置かれます。

 

 隠したいものが御言葉という光によってあらわにされ、公にされる。けれども、部屋に隠しているものがある人は、燭台の上にともし火を置くのを避けようとする。見られては困る、公にされては困るものがあるから、御言葉を心の真ん中に置きたくない。

 

 それは、イエス様のたとえを理解しなかった弟子たちの心情、群衆の心情を表しているのかもしれません。神様はあらゆる土地に、イスラエル人にも異邦人にも御言葉の種を蒔かれます。私たちが好きな人にも苦手な人も嫌いな人にも種を蒔く。

 

 しかし、選ばれたつもりの自分たちは、神の言葉が蒔かれても受け入れられず、枯らしたり、踏みつけたりする現実がある。

 

 教会に来ている私たちが、自分たちこそ神様からメッセージを受け取っていると考えながら、実際には都合の良い聞き方しかしてないように……そんな心の闇をあらわにされるイエス様の厳しい言葉……聞きたくない、知りたくない。

 

 それでも、イエス様は言ってきます。「聞く耳のある者は聞きなさい!」……そう、これは感動的というより、うんと厳しい言葉なんです。

 

【秤のたとえ】

 次に出てくる《秤のたとえ》も、《ともし火のたとえ》と同様、何をたとえているのか示されません。そして、言葉のつながりがやっぱりよく分からない。

 

 「何を聞いているかに注意しなさい」という言葉の後で、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と語られる。

 

 2つの言葉がどうつながるのか悩んでいる間に、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という謎の言葉が続けられる。

 

 もはや、秤で量るものが何なのか、それが良いものか悪いものかも語られません。感動したり、「良い話」と思い込んだりする隙もない。むしろ、私たちに「考えて聞く」ことを促す話。

 

 これまでのたとえを思い出すと、「様々な土地に蒔かれた種」「燭台の上に置かれたともし火」に続き、「秤の上に乗せられる何か」が出てきました。

 

 おそらく、「種」や「ともし火」と同様、この「量り与えられるもの」が神の言葉を示していると考えられます。

 

 イエス様はその直前に、「何を聞いているかに注意しなさい」とも言っていました。自分の耳で聞いているもの、自分の秤で量っているものが、本当に「神の言葉」かどうか注意しなさい……そう聞こえてきます。

 

 《ともし火のたとえ》の最後に、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言った言葉を補完する話。

 

 律法主義的な「裁き」を、あなたの善悪の基準を、神の言葉と受けとめるなら、あなたがたは自分の量った裁きで、さらに裁かれる。

 

 本当に神の言葉を聞く人はさらに与えられ、聞かない人はかつて受け取った神の言葉、「ゆるし」「憐れみ」「慈しみ」までも取り上げられる。これも、感動や励ましとは違う、厳しい話ですよね。

 

【成長する種のたとえ】

 そして今度は、再び「種」を用いたたとえ話が出てきます。この話では、種が成長する過程を神の国としてたとえています。これまでの話を振り返ると、ここでも「種」は神の言葉と受けとめられるでしょう。

 

 人々に蒔かれた神の言葉が、芽を出し、成長し、神の国を到来させる。しかし、御言葉がどうやって芽を出すのか、成長するのか、私たちには分からない。

 

 現代に至るまで多くの人が、神の国を実現させる方法を考えてきました。どうしたら、神の国が訪れるのか? ひたすら聖書を学べば、礼拝をきちっと守れば、この社会をより良くすれば……神の国は実現できる!

 

 色んな人が、色んなことを言ってきました。「あと何日で世界は滅び、神の国が到来する!」そう預言する者まで出てきました。

 

 しかし、実際のところ、人は神の国がどうやって実現するのか、訪れるのか知りません。この世の終わりがいつ来るのか、いつ神の支配が完成するのか、私たちには分からない。

 

 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出し成長するが、どうしてそうなるのか知らないように。

 

 このたとえは、神の言葉を蒔かれた私たちが、神の国について知ったつもりになりながら、実は「知らない」ことを教えてくれます。

 

 世の終わり、キリストの再臨、神の国が早く訪れるには、こうすればいい、ああすればいいと法則を知っているかのように語る私たちへ、知るはずがないことを暴露するんです。

 

【からし種のたとえ】

 最後のたとえ話にも、またまた「種」が登場します。今回も、種は神の言葉と捉えて良いでしょう。このたとえ話では、どんな種より小さい「からし種」が出てきます。

 

 「神の国はからし種のようなものである」……ようするに、見えないほど小さなもの、指と指の隙間からこぼれ落ちそうな神の言葉が、どんなものより大きくなって、神の国を実現させると言うんです。

 

 聖書を通して神の言葉を聞いても、本当に神の国が訪れるなんてなかなか信じられない。神の言葉が蒔かれても、それを聞く人、受け入れる人は少数しかいない。日本でも約0.8パーセント、ちっぽけな存在、しょぼい活動、少ない人数。

 

 しかし、あなたがたが、からし種のようにちっぽけだと思っている力は、やがて本当に神の国を到来させる。

 

 ようやく感動的な話、良い話と思えるものが出てきました。しかし、この話もたとえの説明はなく、聞いた人にすぐ分かるものではありません。

 

 始めに説明された《種を蒔く人のたとえ》から始まって、順番に考えていって、ようやく「そういうことか!」と思い当たる回りくどい話です。

 

 イエス様が語ったたとえ話の多くは、「感動」よりも「つまずき」をもたらしました。安易な「答え」よりも、自ら「考える」過程をもたらしました。

 

 「聞く耳のある者は聞きなさい」「何を聞いているかに注意しなさい」……耳障りの良い不合理な感動話や、自己啓発が溢れている今、イエス様のたとえ話は私たち一人一人に新しい力を与えます。

 

 周りの都合に流されず、偽りを見抜き、本当に神様が求める生き方は何なのか、尋ね求めて生きていく、そんな力……今、あなたも言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい」共に、これらの言葉を味わいましょう。