ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『この人もあの人も敵では?』 ルカによる福音書7:1〜10

礼拝メッセージ 2019年5月26日

 

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【信仰者なら隔てはない?】

 「主イェスにおいては世界の民、東と西との隔てはない」「主イェスの救いは力強く、南と北とを結び合わす」「主イェスにおいては世界の民、心を通わせ一つとなる」……たった今歌った賛美の言葉に、皆さんはどれだけ頷けるでしょう?

 

 キリスト者なら、信仰者なら、立場や思想の隔たりを超えて一致できる。そう確信できる現実が、皆さんの前にあるでしょうか?

 

 私がお世話になった信徒の中には、中国や韓国をボロクソに言う人がいます。私が属する教団では、出身校で態度を変える教師がいます。私がフォローしているSNSでは、異なる教派を否定するクリスチャンがいます。

 

 福音派とリベラル、教会派と社会派、親イスラエルに親パレスチナ、あるいは、宗教右派に宗教左派……実を言うと、キリスト教界で一致できる、一つになれるというイメージは、現実からほど遠いのかもしれません。

 

 性別・年齢・所得の差異、国・人種・思想の隔たりは、言うほど簡単には超えられません。特に自分と異なる立場、相反する思想の持ち主には、なるべく関わりたくないし、頼ったり頼られたりしたくない……そう思うのが自然です。

 

 右翼の人が左翼の人に頼み事をする、フェミニストの女性が亭主関白の男性と結婚する。クリスチャンが占い師を相談相手にする。そんな状況が目の前にあったら、思わず突っ込みたくなります。

 

 いやいや、相手はあなたの敵でしょう? あなたと相容れない存在でしょう? どうして頼ったり頼られたりできるんです? あなたは自分の信念を捨ててしまったんですか?

 

 隔たりを超え、関係を結び、一つとなる……それは一歩間違えば、自分の信念を捨てること、周りをつまずかせることになります。

 

 あいつらに助けを求めるなんて! 何で彼らに協力するんだ! あの人たちと行動を共にするくらいなら、私はここを離れます!

 

 隔たりをなくし、心を通わせるはずが、かえって仲間同士の関係を引き裂き、溝を深くしてしまう……政治、社会、宗教において、いくらでも見られる現象です。

 

 同じ立場の者同士、仲良くしているだけの方が、ずっと無難で平和かもしれません。周りをつまずかせることもありませんし、あいつは一貫しているなと安心してもらえます。けれども、聖書に出てくるイエス様は、繰り返し私たちをつまずかせます。

 

 貧しい者の味方であるはずが、金持ちの議員と食事をする。病人や罪人を癒しつつ、彼らを差別するファリサイ派と食事をする。不正や抑圧と戦いながら、不当に税を貪る徴税人と食事をする。

 

 イエス様、それはあかんでしょう? 相手は敵じゃないですか? どうして食事の招待を受けるんですか? そんなところから施しを受けちゃいけません!

 

 けれども、イエス様がファリサイ派の家で食事をするのは、ルカによる福音書だけで、なんと3回……時には敵対心剥き出しの律法学者も一緒にいました。

 

 イエス様がつく食卓には、たいてい異なる思想の人、敵対する立場の人が目と鼻の先に座っていました。弟子たちはいつもヒヤヒヤだったに違いありません。

 

 なんでファリサイ派は敵対しているのにイエス様を招待するんだ? なんでイエス様もそれに応じるんだ?……そう、不思議なことにイエス様と敵対している人たちは、対立しているわりに何度も接触を図りました。

 

 イエス様を罠に嵌め、貶めようとする者もいましたが、中には本気で教えを受けとめ、賞賛する者もいました。立場が違うにもかかわらず!

 

 聖書を読んでいると気づかされます。本来、同じ食卓につくはずのない者たちが、何度も食事を共にしている。この人があの人を招くなんて信じられない! この人とあの人が一緒にいるなんてありえない!

 

 そんな出来事がサラッと目に入ってくると。イエス様と出会った人、イエス様の話を聞いた人は、敵対しているときから既に、ありえない変化が始まっている……そして今日、さらに驚く出来事が読まれました。

 

【百人隊長とその部下】

 ある百人隊長が、病気で死にかかった部下のために、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、イエス様に助けを求めた……ここに出てくる登場人物は、皆本来なら敵同士の関係です。

 

 百人隊長とは文字通り、100人の兵隊を統率する軍のお偉いさんです。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあったので、当然、ユダヤ人の兵隊ではありません。

 

 イスラエルを植民地にしているローマの兵隊、敵国の支配者です。つまり、イスラエルの独立を願っているユダヤ人にとって、紛うことなき抑圧者でした。

 

 そもそも、異邦人である外国人は、イスラエルに異教の神々を持ち込む厄介な存在です。厳格なユダヤ人であれば、普段の生活でもなるべく接触しないことが勧められていました。

 

 ところが、民の指導者的存在であるユダヤ人の長老たちは、百人隊長から使いに出され、彼の部下を助けてもらいに、はるばるイエス様のところまでやって来ます。

 

 植民地の有力者が使い走りにさせられているのかと思いきや、長老たちにしぶしぶ従っている様子はありません。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」

 

 熱心に願う彼らの様子は、敵に従う哀れな人々というより、友を助けようとする仲間のようです。どうやら、この百人隊長は植民地のイスラエルにかなり好意的なようでした。

 

 ユダヤ人を愛して会堂を建てる。敵軍の司令部に、そんな隊長なかなかいなかったでしょう。おそらく他にも、色々便宜を図っていたことが想像されます。

 

 しかしこれ、同じローマの兵隊たちから見ればどうだったんでしょう? 彼らの宗教は、当然、ユダヤ人の宗教とは違います。ローマ人は、自分たちの皇帝を現人神として拝むことが求められました。

 

 皇帝に忠誠を誓う兵隊が、皇帝ではない植民地の神を信仰していたら、それだけで大きな罪になったでしょう。

 

 また、百人隊長がユダヤ人のために建てた「会堂」は、私たちで言えば「教会」、ようするに宗教施設です。

 

 今だって、教会一つ建てるのに大きな費用がかかりますが、当時もそれなりに痛い出費だったに違いありません。その費用はどこから出たんでしょう? もしも、軍の会計から捻出していたなら結構な問題です。

 

 たとえ、ポケットマネーから出していたとしても、皇帝や総督の耳に入れば、植民地の宗教施設に金を出した者として、目をつけられるのは間違いなかったでしょう。

 

 そう、この百人隊長は、ローマ人とユダヤ人の隔たりを超えて友好関係を結ぶ一方で、いつでも所属先から引き裂かれる危険があったんです。

 

 さらに、死にかかった部下を助けるため、彼が頼ろうとしたのは、巷を騒がせるイエス様……悪霊を追い出し、病人を癒す奇跡で有名になっていたので当たり前ですが、逆に言えば、いつ人々を先導し暴動を起こすか分からない要注意人物、ローマ帝国からも注目される存在でした。

 

 言い換えれば、公安が監視対象にプライベートで接触したような話です。これもなかなかやばい行動……この百人隊長は、それだけ何としてでも自分の部下を助けたかったんでしょう。たとえ自分の責任が問われることになったとしても。

 

【ユダヤ人の長老たち】

 一方で、彼に協力したユダヤ人の長老たちも、なかなか危ない橋を渡ります。と言うのも、いくらユダヤ人に好意的なローマ人とは言え、普段人々へ「外国人と接触するな」と指導していた長老たちが、百人隊長のために奔走する姿を見られるわけです。

 

 しかも、外国の友を助けるために訪れたのは、度々ぶつかっていたイエス様のところ! 本来は長老たちも、祭司長や律法学者と同じく、イエス様に敵対する存在でした。

 

 イエス様が神殿の境内で教えているとき、難癖をつけにやって来た人たち。イエス様を十字架につけるため、剣や棒を持ってやって来た人たち。イエス様を最高法院に引き渡すため、夜中に裁判を開いた人たち……その全てに、長老たちの存在がありました。

 

 自分たちに好意的な百人隊長のために奔走するのはともかくとして、普段対立しているイエス様に頼るのは、けっこう抵抗があったんじゃないでしょうか?

 

 権威があるとは認めていない相手、いちゃもんつけている相手に頼るわけですから、プライドはズタズタです。民衆からも「普段批判している相手に頼るのか?」と言われてしまいそうです。

 

 けれども、彼らは熱心に、心からイエス様へ頼りました。対立する外国人のために、敵対する人間へ助けを求めました。私はこれこそ奇跡なんじゃないかなと思います。

 

 それを聞いて、イエス様はすぐさま彼らと一緒に出かけます。すると、その家からほど遠からぬ所で、新たに使いに出された百人隊長の友人がやって来ました。

 

 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」

 

 わたしはあなたをお迎えできる者じゃないんです……そう言ってくる相手に、イエス様はけっこう平気で近づいてしまう人でした。

 

 「私から離れてください」「私は罪深い者なんです」と言われても、がんがんその人に迫って来る箇所が、聖書にはいくつか出て来ます。けれども、ここでそんなことしたら、百人隊長の取り巻きはたいへんな騒ぎになったでしょう。

 

 イエス様は、ユダヤ人の民衆の多くから、ローマ帝国を討ち亡ぼすイスラエルの王となることを期待されていました。

 

 百人隊長の家で、死にかかった仲間を心配するローマの兵隊たちにとって、イエス様こそ自分たちとユダヤ人との間に、一触即発の危機をもたらす危険な存在でした。

 

 また、百人隊長に会堂を建ててもらったユダヤ人の中には、普段、祭司長や律法学者と敵対しているイエス様に頼ることをよく思わない人もいたでしょう。

 

 それなのに、民の指導者である長老たちがイエス様を連れて来たとなれば、その場で言い合いが始まる危険もあったでしょう。まさに、この人もあの人も敵では?……という状況です。

 

 百人隊長からすれば、イエス様が自分の家に来ても、自分がイエス様のもとへ行っても、大切な友人たちとの間に隔たりがもたらされることになりました。

 

 もしも、イエス様がユダヤ人の期待するように、ローマを討ち亡ぼす王ならば。一方を敵とし、一方を味方として隔たりをもたらす存在なら。

 

【癒しをもたらす主】

 でも、そうじゃないと思っていたなら……彼はイエス様を正しく理解していました。あなたは我々を敵と味方に分断するために来たんじゃないでしょう? 平和をもたらすために来たんでしょう? 和解のために……そうして、使いの友人にこう言わせます。

 

 「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」

 

 その場で命じてください。そうすれば、あなたの言うとおりに。隔たりではなく回復がもたらされます。百人隊長の信仰告白に、イエス様は感心して言いました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」

 

 そう、私たちはキリスト者同士の一致と言っても、自分に反対する信条や思想が砕かれた上で、一つになることを願っています。政権を倒すこと、執行部を引き摺り下ろすこと、組織を崩壊させること……

 

 そんな結末ばかりを望んでしまう。相手が倒れ臥すことを望んでしまう。かつて、多くの人がイスラエルの支配かローマ帝国の妥当を望んだように。

 

 しかし、イエス様がもたらすのは、癒しと回復です。信じない者を信じる者に、迫害する者を宣教する者に、拒んでいた者を迎え入れる者に変えた方。私たちが今も信じきれていないのは、このことじゃないでしょうか?

 

 私を憎み、私が憎んでいるあの人が、同じ食卓につく世界……その日をもたらすために、この方は私たちのもとへやって来た。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」

 

 普通なら、心を通わせるとは思えないユダヤ人とローマ人との間に、一致と平和を信じた信仰。

 

 そう、私の中にもこれほどの信仰はないかもしれない。だって、まだ、引き裂かれた関係が回復するとは思えないから。あの人が、あの組織が、あの国が変わるとは思えないから。

 

 そう期待し、祈ることさえできないから。でも、もしかしたら今日、祈る言葉が与えられるかもしれません。ひと言、たったひと言「癒してください」という叫び。

 

 この人もあの人も敵では? という世界で、イエス様に助けを求めるとき、ユダヤ人もローマ人も、長老たちも百人隊長も、皆一つになりました。私たちも、この方に癒しを求めたいと思います。