ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『善い行いに意味はない?』 ローマの信徒への手紙9:30〜10:10

礼拝メッセージ 2019年6月12日

 

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【行いは無意味?】

 たぶん、小学5先生か6年生くらいのことだったと思います。当時の私は学校に行くのが本当に憂鬱でした。休み時間、輪ゴムを飛ばして遊んでいる連中の的になったり、階段の踊り場で画鋲を投げる男子の巻き添えになっていたからです。

 

 鉛筆を削ろうとすれば女の子に邪魔をされ、教室へ行こうとすれば通せん坊をされました。消しゴムや定規が筆箱から抜かれていたり、メガネケースが隠されていたり、教科書やノートがゴミ箱に入っていることもしょっちゅうでした。

 

 私は色んなところで目をつけられました。理由は簡単です。先生や大人の前で「良い子」をしているように見えたから。私は多くのあだ名で呼ばれてましたが、その中の一つが「ぶりっ子」でした。

 

 今思えば、それらの嫌がらせは私の「真面目さ」「良い子ぶり」に拍車をかけたと思います。

 

 掃除時間はほとんど一人だけ、真面目に床を拭いていました。給食の台が汚れていれば、当番でなくても綺麗にしました。輪ゴム飛ばしが学校で禁止になってからは、自分に飛んできた輪ゴムをそのまま奪って、先生に没収させたりしました。

 

 ようするに、自分の中で「正しい」と思ったことを、ひたすら実行していたわけです。ちょっと意地になっている部分もありました。先生に「良い子だ」と言われることさえ嫌でした。それを目的にしていると思われたくなかったんです。

 

 正しいことをしていれば、必ず良いことが起きる。正しくない人たちは、絶対にその報いを受ける。そんな期待を抱いてました。

 

 でも、正しい行動が報われることはありませんでした。少なくとも、その教室で私に分かる形では……むしろ、「こいつ頑固だな」「頭固いな」「やっぱぶりっ子だな」と思われる方が多かったと思います。

 

 どちらかと言うと、私はみんなのため、人のために正しいことをしていたんじゃなくて、復讐のため、「お前らみんな間違っている」という意識で、善い行いをしていました。まあ、有り体の言葉で言えば、尖っていたわけです。

 

 たとえ今報われずとも、正しいことをしていれば、いつかその行為は報われる。解放と救済がもたらされる……それは誰もが思い描くことだと思います。

 

 一方で、正しくない者、悪や過ちに走る者は、いつか裁かれ後悔する。勧善懲悪、自業自得、私たちが無意識に望む展開です。

 

 多くの人は、救いには「正しさ」「善い行い」「義であること」が必要だと感じています。だから今は、どれだけしんどくても耐え忍び、悪や過ちを遠ざけて、正しい行動を続けるんだ……

 

 この考えを「邪悪だ」「歪んでいる」と思う人はいないでしょう。もしも、あの頃の私が「行いによって救われるわけじゃない」と言われたら、自分を否定されたと思うでしょう。

 

 頑張って、貫いて、耐え抜いてきたのに、「それじゃ報われない」と言われてしまった。「正しい行動こそが自分を救う」と思っていたのに、「その考えが間違っている」と言われてしまった。

 

 大人が子どもにこんなことすれば、なんて冷たい人だろうと言われるでしょう。でも、これってローマの信徒への手紙を書いた、あのパウロの言葉なんです。

 

【義に至る道】

 「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えたからです」

 

 これを聞いた当時のユダヤ人はどう思ったでしょう? いやいや、行いなくして正しさなんて得られないだろう! そう思うのが自然だったと思います。

 

 「義の律法」とは「正しさのための律法」もっと言えば、「神との正しい関係を目的とする掟」です*1。神様と正しい関係に至るため、必要なものとは何でしょう?

 

 日本でもこんなことわざがあります。「正直の頭に神宿る」……正直者こそ神様の加護を受け、正しい関係に生きられる。だから、嘘をつかず正直にいなさい。

 

 思いやりを持って行動しなさい。人へ親切にしなさい。不正を憎み、過ちを正し、正義を実行しなさい。進んで、善い行いをしなさい……

 

 これが、私たちのイメージする「正しさ」への道だと思います。「行い」なくして「正しさ」へ到達することは不可能だ。皆さんもそう思うでしょう。

 

 ユダヤ人も真剣に考えました。どうすれば正しさを得られるのか? 何をしたら正しさに達するのか? 彼らには分かりやすい指標、神様が与えた「守るべき掟」がありました。

 

 これを遵守し、貫いていく生き方こそ、神との正しい関係に至る道である。そう思って、人々は細かい掟の一つ一つまで、なるべく守ろうと考えました。

 

 安息日には何が何でも仕事を休む人がいました。その日に歩く歩数さえ制限する人がいました。月経中は家族でさえ絶対触らない人がいました。

 

 周りの国から見れば、いくら何でも真面目すぎる、掟に忠実すぎる偏屈な民族でした。物笑いの種になることもあったでしょう。

 

 「あいつら国を失っているのに、自分たちを捨てた神の掟を、今も真面目に守ってんだぜ」……そう、ユダヤ人は二度にわたって大国に攻め入れられ、自分たちの国を失っていました。

 

 諸国の民からは「戦争に負けた惨めな国」「神に捨てられた哀れな民族」そう思われていました。友達のいない、誰の共感も得られない、偏屈で真面目なクラスメートを見るように。

 

 きっと、パウロの言葉を聞いたとき、ユダヤ人の多くは、ひたすら真面目に生きようとした私のように、「その言い分はひどすぎる」と思ったんじゃないでしょうか?

 

 これだけ白い目で見られながら、偏屈だと思われながら、真面目に掟を守ってきたのに、それが正しくないなんて、正しさに至らないなんて、いくら何でも暴言だと。

 

 パウロはそんな私たちへ、あなたは確かに熱心だと認めます。でもそれは、正しい認識に基づいていない。神の義を知らず、自分の義を求めようとしている。神の義に従ってはいないと言うんです。

 

 ドキリとする言葉です。かつて私が「みんな間違っている」という思いで、「あいつは正しい」と言わせるために、行動していたことを思い出します。神様との正しい関係より、自分が正しいと認められるために生きていた……

 

 神様は、正しい者とそうでない者とを分けるためではなく、全ての者が正しくされて救われるように、この掟を与えたのに。

 

【天国と地獄】

 パウロは、律法の遵守によって正しい者であろうとするのは、神様の掟を利用した自分自身の正当化だと語ります。対して、信仰によって正しい者へ至ることについては、申命記30章11節〜14節を引用して、こう述べています。

 

 「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」……もっと分かりやすく言うならこういうことでしょう。「『だれが天国に行けるか』と考えてはならない」「これは、キリストを引き降ろすことに他なりません」

 

 これ、私たちの間でもよくやっちゃいます。「あんな人天国に行けない、悪いことばかりしているから」「あの人は天国に行けそう、良いことたくさんしているから」

 

 こうやって、誰が神の国に受け入れられるか考えること自体、イエス様が天に上ったことを否定することになる。なぜなら、イエス様は全ての人が天の国、神の国に受け入れられるよう、準備しに行った方から。

 

 また、7節でこうも言われています。「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」こっちも、簡単に言えばこういうことでしょう。「『だれが地獄へ落ちるか』と考えてはならない」「これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」

 

 なぜなら、イエス様は全ての人が滅びから免れるように、みんなの代わりに十字架にかかってくださったから。みんなが滅びないために受けた死を、否定することになる……

 

 万人の救いについての記事は、けっこう私たちをつまずかせます。「なんであいつが救われるんだ! 間違いを犯した人間なのに……」「なんで悪い人も受け入れるんだ! 私を否定してきたのに……」

 

 外国の支配を受け、諸国の民から蔑まれてきたユダヤ人は、異邦人にも罪人にも正しい者と同じ扱いがされるなんて、我慢できなかったでしょう。

 

 「彼らはつまずきの石につまずいたのです」9章32節でそう言われています。「つまずきの石」って何でしょう?

 

 マルコによる福音書6章3節にはこんな言葉が出てきます。「このように、人々はイエスにつまずいた」と。そう、人々をつまずかせる石とはイエス様のことでした。

 

 悪いことをした人に赦しをもたらし、掟を守れない人に救いをもたらした。「この人は罪人なのに」「あの人は汚れてるのに」そう心の中で言われる人を、癒し、励まし、解放した。

 

 私に輪ゴムを投げていた人と友達になり、私の物を隠した人へ足りない物を与えます。なるほど、これはつまずかずにいられません。

 

【つまずきの石】

 私の前に置かれたつまずきの石……けれども、これを信じる者、イエス様を信じる者は、失望することがないと言われます。確かに、イエス様を信じた人にもたらされるのは、「自分は正しくないにも関わらず、神様は赦してくださった」という希望です。

 

 パウロ自身も、正しいと信じてキリスト者を迫害していた行動が、大いに間違っていたことを知りました。

 

 自分が批判し、攻撃していた人たちの方が実は正しかった。取り返しのつかない過ちを犯してしまった。にもかかわらず、彼に現れたイエス様はこう言います。

 

 「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」……それは、地獄に落ちるという宣言ではなく、人々を神の国へ招く働きを、一緒に担えという命令でした。

 

 彼は、神の正しさでなく、自分の正しさを信じて行動していた頃、本当の正しさには達しませんでした。

 

 しかし、イエス様から呼びかけられ、神様が何をなそうとしているか、何を求めておられるのか、自の頭で問い直し、考えるようになって、ようやくその道を歩み始めました。

 

 掟をただ守るのでなく、掟が何を命じているか、何を求めているかを問いかけるようになって、初めて神様の愛に生きられるようになりました。

 

 正しいことを為せない自分、その自分をも、イエス様は受け入れ、用いてくれる。イエス様が罪人である自分を正しくしてくれる。

 

 ある人は、同性愛者を罪だと言って、彼らを矯正しようとします。そのままでは天の国に受け入れられず、滅んでしまうと脅します。聖書にそう書いてあるからと……

 

 かつて、キリストが血を流した責任は、ユダヤ人にあると書いてあるから、彼らを虐殺するべきと信じたナチスのように……彼らは赦されるはずがない、救われるはずがないからと。

 

 私たちは、大いにつまずくべきなのかもしれません。正しい行動をすれば救われるというのは、間違った「正しさ」に囚われることかもしれません。私が正しい、これをすれば正しい、神様も認めてくれるはず……

 

 いいえ、神様は間違いだらけの私に向かって、「子よ」「友よ」「兄弟」と呼びかける方です。私が正しいからじゃありません。正しい方が受け入れるから、私は正しくされるんです。

 

 小さい頃の私は、みんなより正しいことを示す必要はなかったんです。良い子になりたいんじゃなくて、友好な関係でいたいと示せばよかった……私がやっていたことの多くは、人に頼るべきことでした。

 

 「掃除しよう」「鉛筆貸して」「一緒に探して」……自分以外が愚か者として罰されるより、望むべきことがありました。

 

 「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」……イエス様は、正しく行動できない全ての者へ、罰ではなく救いをもたらします。正しくない全ての者を、正しくされるお方です。

 

 行動によって正しくされなかったパウロが、信仰によって正しい道へ引き戻されたように……だから、あなたも信じなさい。

*1:マシュー・ブラック著、太田修司訳『ニューセンチュリー聖書注解 ローマの信徒への手紙』日本基督教団出版局、2004年、214頁参照。