ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『友達と呼べない』 ヨハネによる福音書15:11〜17

在宅聖研祈祷会 2020年6月3日


『友達と呼べない』ヨハネによる福音書15:11〜17

 

 

讃美歌

ただいまより、在宅聖研祈祷会を始めます。最初に、オンライン賛美歌「閉じこもるわたしたちに」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらの賛美は、著作者の許可を得て配信に載せています。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆力と希望を与えてくださる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、あなたの力を必要とする一人一人に、その言葉が届きますように。

◆私たちの神様、日曜日には弟子たちに聖霊が送られたことを祝うペンテコステを迎えました。久しぶりに、みんなと顔を合わせて礼拝することができました。どうか今、配信を見ている一人一人にも、あなたの祝福がありますように。

◆私たちの神様、6月に入って学校や幼稚園、通勤の再開が始まりました。多くの課題や作業、感染症への対応に戸惑いながら、一日一日を過ごしています。どうか今、不満や葛藤を感じる一人一人に、あなたの平安がもたらされますように。

◆私たちの神様、目の前のことでいっぱいになり、自分の生活に直結している社会や政治の有り様に、私たちは関心を持ちにくくなっています。どうか今、神の民である一人一人に、あなたの良心がもたらされますように。

◆私たちの友であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書15:11〜17。

 

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

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Free-PhotosによるPixabayからの画像

メッセージ

 

どこからが友達?

どこからが「友達」と呼んでいい相手なのか気になったことはないでしょうか? たまに挨拶を交わすくらいなら、友達と呼ぶのはまだ早い。多少仲が良くても、一緒に出かけたり遊んだりしないなら、単なる「知り合い」に過ぎないかもしれない。友達と呼べる条件は何だろう? 私は彼や彼女の友達と自分で呼んでもいいんだろうか?

 

小学3、4年生くらいの頃、私はクラスメートの女の子から「ノブって友達いる?」と聞かれたことがありました。私は素直に「いるよ」と答え、すかさず「それって誰なの?」と尋ねられました。私は何人か遊んだり、しゃべったりしたことのあるクラスメートを答えました。しばらくして彼女からこう言われました。

 

「ノブが友達って言ってた人、みんな友達じゃないって言ってたよ」……似たような体験をした人がいるかもしれません。この事件があってから、私はしばらく、自分の友達が誰か、自分は誰の友達か口にできなくなりました。いったい誰なら友達と言って良かったのか、色んな条件を考えましたが、結局答えは出ませんでした。

 

あまり思い出したくないこの記憶を度々呼び起こしてくるのが、先ほど呼んだイエス様の言葉です。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」……ちょっとジャイアンっぽい台詞ですよね? 「お前友達だよな、友達なら俺の言うこと聞けるよな」みたいに、なかなか圧を感じさせる言葉です。

 

いやいや、神の子である優しいイエス様は、そんな無理難題命じたりしないだろうと思いきや、直前にこう語っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」……なるほど、もしこれが友達の条件だとしたら、私はほとんど誰の友にもなれません。

 

この人のために自分の命を捨てられますか? あなたはこの人の友ですか? と聞かれたら、皆さんもゴクリと唾を飲むでしょう。どれだけ大切な相手でも、親しくしている相手でも、とっさにその人のために命を張れるかと言ったら、正直あまり自信がない。実際、弟子たちもイエス様が敵に捕まったとき、自分の身を案じて逃げ出しました。

 

友達未満・友達失格

たいていの人が同じ道をたどるでしょう。「この人のためなら命なんて惜しくない」と日頃考えていたとしても、いざその時になったら、自分がどう動くかは分かりません。弟子たちも直前まで、本当に命を捨てる覚悟でいました。私は絶対に裏切らない、私だけはこの人についていく、最後まで関係を切ったりしない……そう思って一緒にいました。

 

でも、現実はシビアです。あれだけイエス様のそばにいて、生活を共にした彼らでさえ、自分の命は捨てられなかった。愛する人を守れなかった。今、心の底から神様を信じ、イエス様の教えを守ろうとしている人たちも、実はそれほど自信を持って、「私はイエスの友である」とは口にすることができないでしょう。

 

咄嗟に仲の良い人を守れなかった経験がある人は、心がチクチクしないでしょうか? 命を捨てるとまではいかなくても、多少自分が矢面に立ったり、その人を庇って傷つく覚悟があったのに、その時になって勇気が出せなかった。あるいは、そもそもそういう覚悟さえ持てない……「友達失格」「友達未満」という言葉が自然に頭へ浮かんできます。

 

きっと、自分の命が惜しくなり、文字通りイエス様を見捨ててしまった弟子たちも、イエス様から「友」と呼ばれることはないでしょう。彼らはイエス様が命じたこと、「わたしについてきなさい」「わたしに従いなさい」「互いに愛し合いなさい」という言葉を決定的な場面で守れず、呪いの言葉さえ口にします。

 

既に、イエス様は弟子たちの一人が裏切ることも、みんなが自分を見捨てて逃げることも、ペトロが自分のことを知らないと口にすることも知っていました。彼らの前で、そのことを予告しています。弟子たちは必死に否定しますが、結局そのとおりになることを私たちは知っています。

 

もし、相手がジャイアンならこう言うでしょう。「お前今日から俺の奴隷な。友達の約束守れないもんな」……ところが、イエス様の口から出てきた言葉は違いました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである」

 

いやいや、弟子たちもまだ分かってません。イエス様がこれから死ぬことも、十字架につけられていくことも! それなのに、続けてこうも言うんです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」……どういうことでしょう? 彼らはイエス様の命じたことを守れないし、イエス様のために命を捨てることもありません。

 

むしろ、「私はあの人の弟子じゃない」と関係を否定してしまうような人間です。明らかに約束を破る人に対して、イエス様は宣言する。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」「わたしがあなたがたを選んだ」……もはや、何で彼らが友達と認められたのか分かりません。彼らは「友」と呼ばれる条件を全く満たしていないんです。

 

友と呼ばれた人たち

ふと思い返すと、別の福音書では自分を裏切るユダに対しても、イエス様はこう言ってました。「友よ、しようとしていることをするがよい」……今まさに、自分を捕え、敵に引き渡そうとする愚か者に、イエス様は「友」と呼ぶ。「わたしがあなたを選んだ」と言う。自分が命じたことを守るどころか、敵対する人に対してさえ。

 

そう、イエス様が「友」と呼ばれた人たちは、本来「友」と呼ばれるはずのない人でした。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」……こう言いながら、命じたことを行えていない相手に、イエス様は「友よ」と言うんです。全く矛盾しています。矛盾していますが、決して前言撤回したわけではありません。

 

イエス様は度々、とてもそうとは言えない状況で、人々に向かって「あなたがたはわたしを信じた」とか「あなたがたはわたしに従ったのだ」とか「あなたがたは世の光である」とか、大それたことを語ってきました。いやいや、まだイエス様を神の子だと分かってないし、従ってもいないし、世の光なんて言うのは大袈裟すぎる!

 

そんな弟子たちや群衆のことを、イエス様は持ち上げ続けます。ちょっと滑稽に見えるかもしれません。こう言われている人々は、結局イエス様を見捨てたり、十字架につけたり、隠れたりする人たちですから。でも、イエス様は虚言を吐いたわけではありません。本当に、彼らが自分を信じ、自分に従い、世の光となることを宣言していたんです。

 

イエス様の命じたことを行えなかった弟子たちは、やがて復活したイエス様に会い、命じられたとおり、世界各地へ神様のことを伝えていきます。イエス様を神の子だと分かっていなかった群衆は、彼らの言葉を聞いて信じるようになっていきます。戸を閉めて鍵をかけていた人々は、ペンテコステに家を飛び出し、世の中を照らすイエス様の言葉を語り始めます。

 

そう、彼らはイエス様に「友」と呼ばれたからこそ、本当の「友」となっていきます。条件を満たしたから友となったのではありません。友と呼ばれることによって、友の在り方へと変えられていったんです。

 

ある時期から、私が誰の友達か、誰が私の友達か言えるようになったのは、このことに気づかされたからでした。私たちは「友達」の条件を満たせるか気にしますが、イエス様は、友と呼んだ人を本当の友へと変えていきます。あなたもイエス様に選ばれ、イエス様に友と呼ばれ、本当の友へと変えられていく。

 

自分を誰かの友と言えない人が、この方に選ばれていることを思い出すことができますように。

 

とりなし

共に主イエス・キリストが与えられた、とりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(鹿児島県薩摩川内市の川内教会)のために、原発や基地の問題と向き合わされている人のために、生活困窮者と支援者のために、病や怪我で弱っている人のために祈りを合わせます。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆鹿児島県薩摩川内市の川内教会のために祈ります。のぞみ幼稚園の子どもたち、若いスタッフ、教会員の一人一人が、感染症やあらゆる事故から守られますように。また、川内を離れた若者たちに、引き続きあなたのお支えがありますように。

◆原発や基地の問題と向き合わされている人のために祈ります。多くの立場と思想に挟まれ、身動きが取れなくなった人に、あなたの励ましと導きがありますように。問題の解決に向けて誠実な気づきが与えられますように。

◆生活困窮者と支援者のために祈ります。最も気づかれないところ、最も無視されているところに、あなたの助けがもたらされますように。また、その業に用いられる人たちが、あなたによって守られますように。

◆病や怪我で弱っている人のために祈ります。心身の衰えを感じて、期待や希望が持てない人に、あなたの聖霊が豊かに注がれ、新しい力が与えられますように。日々の生活に喜びと楽しみが生まれ、あなたを賛美することができますように。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる私たちの友、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を3回繰り返して歌いましょう。こちらの賛美も、著作者の許可を得て配信に載せています。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、あなたに平和がありますように。