聖書研究祈祷会 2019年8月14日
【まるでコックリさん】
私が小さい頃、「コックリさん」って流行ったんですが、皆さんも聞いたことあるでしょうか? もともとは西洋のターニング・テーブルに起源を持つ占いの一種です*1。
机の上に「はい」「いいえ」、数字や50音表を記した紙を置き、その紙に10円玉などの硬貨を乗せて、参加者全員の人差し指を添えていく。すると硬貨が勝手に動いて、メッセージを発信する……というものです*2。
一時期、小学生や中学生の間でものすごく流行りましたが、悪ふざけでやってみた子どもたちが精神的に不安定な状態になったり、不安や恐怖を煽られたりで、全国的に禁止が呼びかけられたこともありました。
いくつかの小説やアニメ、映画では、面白半分でコックリさんに手を出した子どもたちが、本当に霊を呼び寄せて危険な目に遭ってしまう……というお約束のシーンも出てきます。似たような話、いっぱいありますよね?
霊が見えるフリをして友達をからかっていたら、自分が怖い目に遭ってしまう。お祓いや悪魔祓いの真似事をして、見えない何かを怒らせてしまう。軽い気持ちで心霊スポットに行ってみたら、何かを連れて帰ってしまう……
真夏の怪談や怖い話で持ちきりの今、こういった話は、テレビやラジオでもよく耳にすることでしょう。
驚くべきことに、聖書の中にも、これと似たような話が出てきます。病気を癒し、悪霊を追い出すパウロの真似事をした祈祷師たちが、かえって悪霊を怒らせて、裸にされ、傷つけられてしまう。
ある意味、「聖書的な怪談」ですよね。この時期にピッタリな話と言ったら怒られるでしょうか?
奇跡、癒し、悪霊、祈祷師、祭司、魔術、そして呪文のような言葉……オカルトっぽい要素がこれだけ出てくる箇所も珍しいです。
まあ、エンターテイメントとしては面白いですが、ここから「神の教え」を聞こうと思ったら、正直なかなか苦労します。だって、巷で聞くような「怖い話」とそっくりですもん。
たぶん、名前と単語を入れ替えてラジオで流したら、「霊媒師の真似事をして怖い目に遭いました」という投稿とそう区別がつきません。実際、聖書学者の中には「この物語には教えとなるようなものはほとんどない」と言っている人もいるくらいです。
あったとしても、「偽物が本物の真似をしちゃいけませんよ」「信じないでやっても逆効果ですよ」というありきたりのメッセージになっちゃいます。
【何を警告している?】
しかし、ユーモアに富むオカルトっぽいこの話には、鋭いメッセージが含まれています。それは、単なる偽物と本物の区別ではなく、信仰者と不信仰者の対比でもなく、むしろ、信仰者が陥りやすい罠の指摘ではないかと思うんです。
最初に、パウロの真似をし始めたユダヤ人の祈祷師たちについて見てみましょう。彼らはパウロと同じように、各地を巡り歩きながら悪霊祓いを行っていたようです。
祈祷や儀式によって悪霊を追い出す行為・職業は、古代社会ではまあ一般的。イエス様も、自分以外に悪霊を追い出している人たちについて言及している箇所があります*3
これらの人は、敬虔なユダヤ教徒であるファリサイ派の仲間だったり、群衆が信頼する仲間だったりしたようなので、基本的には、イスラエルの神を信じる信仰深い者だったんでしょう*4。
中には、悪霊たちを追い出すとき、イエス様の名前を使う者も出て来ます。ルカによる福音書9章49節〜50節を見てみると、12弟子は最初、勝手にイエス様の名前を使い始めた彼らのことを自分たちの仲間と認めませんが、イエス様はなぜかあっさり、彼らも弟子だと認めます。
どうやら、勝手にイエス様の名前を使う、勝手に弟子たちの真似をすることが、即警告の対象となるわけじゃないようです。
ところが、別の祈祷師の中には、ユダヤ教、キリスト教、異教を問わず、「聖なる名前」と呼ばれるものを手当たり次第使っている者もいたようです。
3世紀に遡るパリ魔術大パピルスによると、アブラハム、イサク、ヤコブ、および、サバルバルバティオスの神の名によって願い事がなされています*5。
まるで、神も英雄も宗教もごちゃ混ぜにしたスピリチュアル系新宗教のよう……とにかく効き目がありそうなものを詰め込んでみた! という感じです。「試みに、主イエスの名を唱えて」という一文から、その様子がありありと浮かんできます。
祈祷師の一部が、そうした名前の乱用を行っていたことは明らかで、後のユダヤ教のラビたちからも非難されています*6。
ところが今回びっくりなのは、ユダヤ人の聖職者、しかも、「祭司長」スケワの息子たちまで、おかしな祈祷を始めたことです。
「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」……悪霊に取り憑かれている人に向かって、ユダヤ人の祭司長の息子がそう言い始める。
どういうことかと言えば、キリスト教の牧師の息子である私が、こんなことを言い始めるのと似ています。「ムハンマドが宣べ伝えているアッラーによって、お前たちに命じる」
どれだけ変なことか分かったでしょうか? 私がこう言いだしたらイスラームの人にも失礼ですよね。当然、イスラエルの正統的な祭司の家族なら、こんなこと、よう言わんはずなんです。
当時、ユダヤ教の異端か分派と思われていた教祖や宣教者の名前を使って祈祷する。ここからもう、たぶん普通のユダヤ人祭司じゃないな……ということが分かります。
だって、多くの場合「イエスの名」によって活動することは、ユダヤ人からも異邦人からも止められていたんですから。
ユダヤ教聖職者のトップクラスの家族がやるには、相当リスクがあったわけです。軽い気持ちでやるには、職が追われるかもしれない危険な行為。
おそらく、スケワという人物は、エルサレムで職を得ていた正統的なユダヤ人祭司ではなかったんでしょう。数限りなくあった異教文化の「祭司長」を自称していた可能性があります*7。
今で言えば、どこかの神学校を出たわけでもなく、勝手に「牧師」を自称し始め、特に勉強しないまま、仏教や神道の混じったふんわりとした教えを語る人に似ているかもしれません。
【成功法則・成功哲学】
そんな彼らが、パウロや弟子たちの真似事をして、かえって悪霊からひどい目に遭わされる。それは当然だ……と思うでしょうか?
しかしそれなら、ルカによる福音書9章49節〜50節で、弟子たちと一緒にイエス様に従わず、勝手にイエス様の名前を使って悪霊を追い出していた人たちの方は、ひどい目に遭わされていませんでした。
イエス様を信じているなら、ちゃんと神の教えを伝えるなら、彼らも12弟子と一緒に従うべきだったでしょうし、イエス様の話を直接聞いて教わるべきだったと思います。
むしろ、ただの一般人だった人間が、自分の活動を認められて、イエス様の直近の弟子からスカウトされたわけですから、普通は大喜びで付いていくシーンですよね? ある種の成功体験です。
ところが、彼らは弟子たちと一緒に従わない、そのまま自分の名が記されることのない個人の活動を続けていく……困った人、苦しんでいる人の病気を癒し、悪霊を追い出し、人々の間を巡り続ける。
彼らが「イエスの名によって」悪霊を追い出したのは、自分たちの名声や地位を獲得するためではありません。本当に苦しんでいる人へ、神の国が宣べ伝えられるためだった。
一方、スケワの息子たちはどうだったんでしょう? 彼らが試みにイエスの名を唱え、パウロの名を用いたのは、自分たちが「成功する」ためだったんじゃないかと思います。
数々の悪霊を追い出し、身につけているものを当てるだけで病気を癒すようになったパウロ。彼を「成功者」として捉え、その真似をすれば自分たちも成功する……ある意味、現代で言う「成功法則」「成功哲学」的な考えがあったように感じるんです。
今でも、聖書に出てくる登場人物を「成功者」に見立て、その真似をすれば自分たちも祝福される、成功する……という法則を説く人もいます*8。でもはっきり言って、聖書はそういう人間礼賛的なあり方を許しません。
ここではヒーローのように描かれるパウロも、別の箇所ではペトロやバルナバと仲違いし、対話もできなくなってしまう弱い部分が描かれます。
聖書が私たちに勧めるのは、「誰々のように行動すれば成功する、失敗しない」という話ではなく、人間を絶対視せず、神様に心を向けて生きることです。
パウロの「功績」を見て、パウロの真似をした祭司長の息子たちは、パウロが信じているイエス様ではなく、「真似をすれば自分たちも……」という「成功」しか見ていませんでした。
私たち信仰者も、聖書が伝える神様ではなく、神様を信じた人の「功績」や「成功」しか見ないなら、同じような罠にはまってしまいます。そのことをよく思い出しながら、この夏を過ごしたいと思います。
*1:
コックリさん - Wikipedia1〜3行参照。
*2:コックリさん - Wikipedia 概要1〜4行参照。
*3:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、360頁上段10〜12行参照。
*4:マルコ9:38〜39、ルカ9:49〜50参照
*5:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、270頁14〜18行参照。
*6:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、270頁23〜24行参照。
*7:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、270頁25〜30行参照。
*8:教会がカルト化する運動と神学(2) - ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜「ニューソート」参照。