ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『それは了承できません』 マタイによる福音書10:5〜15

聖書研究祈祷会 2020年1月22日

 

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【排他的・差別的な伝道】

 さて、イエス様が自分に従う弟子たちの中から、12人を各地へ派遣した話……皆さんにはどんなふうに聞こえたでしょうか?

 

 排他的・差別的な伝道命令、派遣される弟子たちへの無茶振り、拒絶した者への容赦ない裁き……「イエス様、それはちょっと了承できません!」という内容に溢れていたと感じるのは、私だけでしょうか?

 

 最初に出てきた宣教範囲の限定に、引っかかりを覚えた人は少なくないでしょう。「異邦人の道に行ってはならない」「サマリア人の町に入ってはならない」「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」

 

 これって、明らかに民族主義的人種差別に聞こえますよね? 外国人のところへ行くな! サマリア人は無視しなさい! 我々と同じ民族以外に宣教することは許されない……!

 

 もしも今、キリスト教会がそんなこと言い始めたら、あっという間に大炎上です。マタイによる福音書は、けっこうこういう記述が多いんですが、なかなか理解に苦しみます。

 

 「救いはまずユダヤ人から」というのが、この福音書の持つイメージなので、異邦人やサマリア人は後回し……という展開が度々見られる。

 

 だけど、それじゃあ、非常に差別的じゃないかと感じるわけです。実際、この書をまとめた人たちも、外国人に対する偏見や民族主義的感覚に支配されたところがあったでしょう。

 

 しかし、「だからこの部分は無視していい」という話でもありません。むしろ、私たちがさらっと通り過ぎる部分、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」という言葉が、いったい何を示すのか、よく考える必要があると思うんです。

 

 「失われた羊」と聞いて、多くの人がイメージするのは、いわゆる「かわいそうな人」「困っている人」「傷ついている人」たちでしょう。

 

 実際、イエス様はやもめや孤児、病人に対して、何度も手を差し伸べてきた方でした。なるほど、私たちも同胞の中で困っている人を優先しろと言われている……単純にそう捉えられたら助かります。

 

 しかし、「イスラエルの家の失われた羊」という言い方は、それこそ、共同体から排除された、追い出された罪人を表す言葉でもあります。

 

 イスラエルの家から断たれた者、追われた者、離れた者と言えば、旧約で重罪を犯した人たちです。神様の言うことを聞かず、民の間に不浄や汚れをもたらした者、みんなに迷惑をかけた者。

 

 イスラエル人が忌み嫌っていた異邦人と付き合い、ローマ帝国の手先となってお金を集めていた徴税人、神殿税を納めることのできない低所得者、姦通の罪を犯した売春婦……その人たちのもとへ行け! という命令。

 

 外国で貧困に苦しむ子どものためなら募金できるけど、元受刑者や近くの駅で野宿しているホームレスには近づきたくない私たち……その私たちへ、「最もあなたの近くにいる、あなたの避けてきた人たちのもとへ行きなさい」とイエス様は命じてくる。

 

 実は、これら近くにいる人を後回しにして、遠くにいる外国人や異民族に手を差し伸べる方が、気が楽なときもあるでしょう。

 

 けれども、イエス様の命じる宣教は、容赦なく、私たちを自分が避けてきた身近なところへ送り出します。今度はちょっと別の意味で、了承しにくいですよね。

 

【弟子たちへの無茶振り】

 次にイエス様は、派遣する弟子たちに対して相当厄介な無茶振りをします。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」……ここまでは普通の宣教命令です。

 

 普通と言っても、道行く人に「天の国は近づいた」とか「悔い改めて福音を信じなさい」とか言い始めたら、今でもみんな引きますよね?

 

 立ち止まって聞いてくれる人はなかなかいない。むしろ、「何か変なことしている人がいます!」と通報され、訴えられ、警察のお世話になってしまうかもしれません。

 

 新しい教えを語るというのは、そもそもハードルの高いことでした。けれども、イエス様はそれよりさらにギョッとすることを命じます。

 

 「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」……いやいや、この前まで漁師や徴税人をしていた男たちに、何を命じているんですか?

 

 ある程度、知識と訓練を積めば、「病人をいやし」まではできるかもしれませんが、「死者を生き返らせ」は明らかに無茶振りです。

 

 病を癒した経験も、死者を生き返らせる奇跡も、皮膚病を清くすることも、悪霊を追い出したこともない人間に、いきなり頼むことじゃない。

 

 しかも、イエス様が一緒についていくわけじゃありません。彼らがそれぞれの町や村を回っていくよう派遣される。

 

 たとえ、イエス様が力を授けていたとしても、ちょっと乱暴です。マニュアルだけ渡して「あとは頑張れ」と言い放つ不親切な上司みたいです。

 

 さらに、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない」「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と、徹底的に無防備であることを命じます。

 

 どんなブラック企業ですか? 体育会系のノリでも、ここまでは言いません。ちょっと突っ込みたくなります。

 

 病を癒し、死者を生き返らせ、汚れを清め、悪霊を追い出す見返りに、何一つ求めず、ただその日の食事と寝床だけ確保するよう命じられる。

 

 普通、これだけのことをしたら、大金が入ると思いません? 尊敬され、支持者が集まり、安定した生活が送れると思いません?

 

 それなのに、イエス様は威厳も何もない、他人の助けを借りる生活をして、身一つで帰ってくるようにと弟子たちへ命じます。

 

 献金を集めて持ってくるようにも、パトロンをつけて帰ってくるようにも言いません。ただ、そのとき、その町で助けてくれる人と出会い、生活できるだけの支援を受け、使命を果たして帰ってこいと命じられる。

 

 「私の授けた力によって、あなたがどれだけ奇跡を行おうと、あなたは自分が受けた恵みを人に返しただけなんだ」……そう言ってくる。

 

 そう、イエス様の命じた無茶振りは、力を授かった弟子たちが、勝手に権威を振るわないよう、謙虚に誠実に堅実に、神の国を宣べ伝えさせる言葉でした。

 

 自分自身の名声を高め、周りの者からたくさん搾取し、好き勝手振る舞うことのないよう、イエス様は彼らを縛ります。

 

 実際、これだけの奇跡が起こせたら、たぶん各地で教祖化すると思いますが、弟子たちは自分を迎えてくれた家で、必要な分だけの支援を受けて、イエス様のもとへ帰ってきました。

 

 誰一人、心身を壊されることなく、本当にちゃんと守られて、受けるべき食事を受けて、帰ってきました。

 

 一見ブラックな命令は、彼らをブラックにしないための誠実な勧めでもありました。逆に言うと、周りに権威を振るいたい人や、甘い汁をすすりたい人には、ちょっと了承できない命令でした。

 

【拒絶への容赦ない裁き】

 最後に、イエス様は弟子達を拒絶した者に、容赦ない裁きが下ると語ります。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」「はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」

 

 ソドムとゴモラと言えば、神様の教えに従わず、悪いことばかりしたために、火と硫黄で焼き尽くされた、創世記に出てくる町々です。

 

 自分たちの教えを受け入れなければ、かつて滅ぼされたこれらの町より、重い罰を受けるだろう……なかなか非寛容ですよね。私が教会で語った言葉を受け入れなければ、あなたは罰を受けてしまうと語ったら、もう半分カルトです。

 

 けれども、実はイエス様って、自分を拒絶した人々に繰り返し教えを語ってきた人でもありました。最優先で弟子たちを派遣したイスラエルに住むユダヤ人たちは、イエス様を会堂から追い出し、崖から落とそうとし、捕えて殺そうとしてきた人たちです。

 

 イエス様の後、もろもろの国や地域で宣教していく弟子たちも、最初に会堂へ入って教えました。そして何度も拒絶されました。

 

 日本だって、キリスト教をそうとう拒絶してきた国です。けれども、拒絶した者が滅びないように、イエス様は何度も弟子たちを派遣し、受け入れるまで、呼びかけ続ける方でした。

 

 容赦ない裁きを語りながらも、裁きを免れるように、預言者を送り、イエス様を送り、弟子たちを送ってきた神様に、私たち自身も命じられます。

 

 「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」……復讐や仕返しをせず、出て行きなさい。あなたの次に送られた人が、また神の国について語るだろう。

 

 「仕返しできない」というのは、その町で受け入れてもらえなかった人からすると、了承できないことかもしれません。神に代わって、自分が裁きを下したいと思うかもしれません。

 

 でも、イエス様こそ、自分を受け入れなかった人たちに、復讐ではなく和解をもたらした方でした。一人一人の罪を引き受け、自ら十字架にかかって、仲直りできないはずの人たちと、復活して再会されました。

 

 イエス様の命令は、了承できないことで溢れています。実行し難いことだらけです。そして、私たちが陥る危険な道から、引き上げようとする言葉でもあります。

 

 もう一度、拒絶したくなる一つ一つの言葉を受けとめて、その意味を味わっていきたいと思います。