ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『どうして隠すの?』 マルコによる福音書8:27〜9:1

聖書研究祈祷会 2019年6月5日

 

f:id:bokushiblog:20190607095015j:plain

 

【イエスは何者か】

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか?」……イエス様が、自分は他人にどう思われているかを聞くシーン。これを見ると、神の子であるキリストからも、一気に人間臭さを感じます。

 

 イエス様も、周りにどう見られているか心配したんだろうか? 他人の評価を気にしたんだろうか? 弟子たちに「大丈夫、あなたは人気者ですよ!」「みんなのアイドル!」「スターです!」なんていうふうに、持ち上げて欲しかったんだろうか?

 

 彼らも、この質問をされたとき、少しドキドキしたでしょう。ここに来るまで、イエス様は多くの人の病気を癒したり、悪霊を追い出したりする一方で、色々な騒ぎも起こしていました。

 

 律法学者と衝突し、ファリサイ派と論争し、悪霊の頭ベルゼブルに取り憑かれていると言いふらされる。

 

 母親や兄弟とギクシャクし、ゲラサ地方から追い出され、故郷の人にも受け入れられず、数少ない理解者だった洗礼者ヨハネも殺された……悪い噂や悪評も、それなりに立っていたはずです。

 

 「頭のおかしい偽善者だ」「悪霊に取り憑かれた男」「偽預言者に違いない」あるいは、「社会に混乱をもたらすテロリスト」「ユダヤ教から出た異端」そんなふうに言われていたかもしれません。

 

 弟子たちはその辺りの評価は触れず、言葉を選んで答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」

 

 民の中には、イエス様のことを、つい先日殺された洗礼者ヨハネの生き返りだと言う人も、かつて天に上げられた預言者エリヤの再来だと言う人もいました。

 

 イエス様を肯定的に捉える人たちにも、色々な見方があったみたいです。そんな中、イエス様はずばり、自分の弟子たちへ問われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」

 

 イエス様はこれまで弟子たちに、「わたしを信じなさい」「わたしについて来なさい」と言うことはあっても、自分を何者として信じるべきか、明確に語ったことはありませんでした。

 

 イエス様が神様から遣わされた者、特別な使命を負った者であることは、人々も薄々感じてはいたでしょう。

 

 しかし、実のところ何者なのか、はっきり教えられた者は、弟子たちにさえいなかったんです。彼らがゴクリと唾を飲むのが聞こえてくるような気がします。いったい、どう答えるのが正解なのか、何と言って欲しいのか、弟子たちは必死に考えたでしょう。

 

 師匠の問いに、正しく答えられなければ! というプレッシャーが重くのしかかってきます。

 

 すると、弟子たちの中心的存在であったペトロが代表して答えます。「あなたは、メシア(救い主)です」……この答え、あまり考えずにスッと出てきたように見えますが、実はかなり危険なものでした。

 

【メシアであるとは?】

 一般にメシアというのは、「油注がれた者」という意味で、神様が人々を救うために遣わした指導者、王や預言者などを意味します。

 

 当時の人々にとっては、イスラエルを大国の支配から解放する政治的軍事的リーダー、新しい王を連想させる言葉でした。ようするに、時の権力に対する「革命家」「反逆者」の響きを持っていたわけです。

 

 分かりやすく言うなら、「あなたこそ○○政権を倒す指導者です」「○○主義社会を覆すリーダーです」と宣言したような感じです。

 

 その弟子であることを自負するなら、自分たちもこの人に従って、戦ったり捕まったりする覚悟がある……そういう意思表示でもありました。今見ても、だいぶ過激な発言です。

 

 先ほども言ったように、イエス様は既に、ファリサイ派や律法学者、国の宗教的指導者たちと、いくつも揉め事を起こしていました。

 

 味方になるのは貧しい者や病気を癒された弱者たち、敵対するのは富や権威を持った強者たち……どちらにつくのがより危険であるか、火を見るよりも明らかでした。

 

 にもかかわらず、ペトロはほとんどノータイムで言い切ります。あなたはメシア……たとえどんな危険があろうとも、私はあなたについていく! そう、この返答はイエス様への忖度でもお世辞でもなく、相当覚悟を込めた勇気のいる発言だったんです。

 

 さて、ペトロの返事に対して、イエス様は「よし、正解だ!」と答えてくださるんでしょうか? 「そのとおり、わたしはメシア、これからも離れずついて来い!」そう言ってみんなを鼓舞するんでしょうか?

 

 少なくとも、イエス様は自分がメシアであることを否定はなさいませんでした。ペトロは正解したようです。ところが、イエス様は自分の正体を言い当てた彼らに対し、「このことを誰にも話すな」と戒めます。

 

 マルコによる福音書には、度々こういう場面が出てきます。イエス様が特別な方だと分かるとき、「神の子」「救い主」「メシア」であると気づかれるとき、それを言いふらさないよう、沈黙が要求されるんです。

 

 自然と言えば自然です。だって、言いふらせば、敵や反対勢力に目をつけられ、すぐに潰されてしまうから。用意の整わないうちにレジスタンスの看板を出せば、取り締まりを受け、全てが台無しにされてしまうから。

 

 弟子たちも納得したでしょう。イエス様が自分の正体を話さないよう戒めるのは、帝国に反旗を翻すチャンスが失われないようにするためだと……しかし、どうやらそれもまた違ったようでした。

 

 というのも、イエス様はこの後も度々敵と衝突し、自分を貶めようとするファリサイ派や律法学者が大勢いるところで演説し、神殿の境内で暴れまわり、どんどん目をつけられていくからです。

 

 他人の目を気にするどころか、かなり人騒がせな行動をしていきます。自分がメシアであると言わせない、語らせない背景には、やっぱり何か違う意図があるようです。

 

【本当のメシアとは?】

 よく見ると、イエス様は弟子たちに自分の正体を語らせない一方で、これから自分に起こることは全くあからさまに語ります。

 

 「イエスは、ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」

 

 これを聞いてすぐ、弟子たちは気づいたはずです。もし、イエス様が反対勢力に活動を潰されないよう、自分の正体を隠させているなら、こんなことは言わないはずだと。

 

 だって、反対勢力の長老、祭司長、律法学者たちに、自分は捕まって殺されると自ら予告するんですから!

 

 いやいやイエス様、そうじゃないでしょう? あなたは彼らに殺されないよう、捕まらないよう、自分の正体を話さないよう我々に命じたんでしょう? いったい何が楽しくて、「自分は敵に敗北します」なんて言うんですか?

 

 ついさっき、イエス様をメシアと告白し、イスラエルに解放をもたらす指導者だと宣言したペトロは、慌ててイエス様をわきへお連れし、「そんなことがあってはなりません」といさめ始めます。

 

 しかし、イエス様は非常に厳しくペトロを叱って言いました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」……こんなこと言われたらショックですよね。ペトロはどうしてここまで怒られなきゃいけなかったんでしょう?

 

 実は、彼がイエス様を引き寄せたときの「わきへお連れした」という言葉は、教師が生徒を教えるためにわきへ連れていくこと、あるいは、子どもや病弱な人を世話するために連れていくことに使われる動詞です。

 

 「いさめる」という言葉も、イエス様が悪霊や吹き荒れる嵐、弟子たちに対して「叱った」り「命じた」りするときに使われます。ようするに、本来なら弟子であるペトロが師であるイエス様に対してとる行動ではないんです。

 

 そう、ペトロはこのとき無意識に、イエス様の弟子ではなく保護者のように振舞おうとしていました。大人が子どもに言い聞かせるように、「そんなこと言っちゃダメでしょう? 良い子ならこうするべきでしょう?」と。

 

 そんな彼に対し、イエス様は「サタン」と呼びかけます。もちろん、人に対して普通こんなこと言いません。サタンというのは、1章12節〜13節で、イエス様が40日間誘惑を受けた悪魔です。

 

 ペトロよ、あなたは誘惑を受けている。悪魔にそそのかされている。私が来たのは、あなたの期待するスターになるためじゃない。みんなから讃えられるヒーローになるためじゃない。

 

 むしろ私は、嘲られ、鞭打たれ、裸にされて、人々の代わりに十字架につけられるために、この世へやって来たメシアなんだ。

 

【イエスに従うとは?】

 イエス様は、自分をメシアと告白した弟子たちに、その理解が欠けていることを教えます。そして、キリストに従うとは、革命家のリーダーに引っ張られることじゃなく、自ら十字架を背負って従うことだと宣言します。

 

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」

 

 弟子たちが期待していたメシア像は、その人に従うことで、自分たちの活躍が示せる指導者でした。

 

 しかし、イエス様に従うことは、周りに賞賛されるような活躍をすることではなく、むしろ、周りに認めてもらえないまま、誰かのために苦労し、傷つくことでした。

 

 イエス様は、このときから3度にわたって、弟子たちへそのことを示します。彼らは結局、イエス様が十字架につけられ、三日目に復活し、昇天してから10日間が過ぎるまで、イエス様がメシアであるとはどういうことか、はっきりと分かりませんでした。

 

 しかし、聖霊が一人一人に降ったとき、ついに彼らは、イエス様に従うことがどういうことかを理解します。彼ら自身も、嘲られ、傷つけられ、それでも人々に救いを伝える道を歩んでいくようになるんです。

 

 ペンテコステまで、残り4日間、この出来事を味わいつつ、祈りながら待っていきたいと思います。