ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『すっきりしない!』 マタイによる福音書28:16〜20、使徒言行録1:6〜11

礼拝メッセージ 2019年6月2日

 

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【見放された弟子たち】

 もう、お前に教えることは何もない……そう言って、弟子のもとから立ち去る師匠。よく漫画やアニメに出てくるシーンですが、あれってようするに、弟子が一人前と認められるシーンですよね。

 

 教育期間を終えて、新人担当だった上司が離れ、自分一人に仕事を任される。師匠から免許皆伝を施され、独立の道を歩み始める。

 

 卒業、親離れ、独り立ち……色んな場面がありますが、いずれにせよ、今まで教えられたこと、養われてきたことをもとに、自らの力で道を切り開いていく! そんな新しい出発です。

 

 ドキドキしながらも、これを喜ばしく感じるのは、ある程度自分の力に自信が持てる、自分自身が認められたと公に示されるからです。

 

 「あなたは十分成長した」「しっかり教えを身につけた」そう宣言し、送り出されていくからこそ、私たちは自信を持って師匠や教師から離れられます。

 

 ところが、たまに困った話を耳にします。ろくに教育もしないまま、何も身につけさせないまま、教え子を放り出す教師。言うだけ言って、相手が十分成長したかも確認せず、独り立ちさせてしまう上司。

 

 いきなり師匠を失った弟子は、途方に暮れるしかありません。自信もないし、助けもないし、向上心も出てこない。

 

 後は任せたと放り出され、日に日に心を削られながら、孤独と無力感にさらされる。そんな状況をもたらす厄介な上司に、皆さんも心当たりがあるかもしれません。

 

 私もふと考えるんです。十字架にかかって死んでから、三日目に甦ったイエス様……実はあの方こそ、弟子たちを中途半端に放り出した、とんでもない師匠だったんじゃないか?

 

 イースターを迎えてから7週目、キリストの復活を祝った日から40日以上が経ちました。イエス様はこの40日間、何度も弟子たちの前に現れ、数多くの証拠をもって、自分が生きていることを示してきました。

 

 そして「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言い残し、ガリラヤから天へ昇っていきました。

 

 ちょうど先週の木曜日が、そのことを記念する昇天日でした。ただ、正直イエス様が弟子たちのもとを立ち去ったのって、時期尚早だった気がするんです。だって、彼らの様子を見てください。

 

 イエス様が天へ上るとき、ポカンっと口を開けて突っ立っている。師匠がいなくなったことさえ、しばらくの間気づかない。そんな呆然とした態度です。準備ができていたようには見えません。その上、彼らはとても一人前とは言い難い状況でした。

 

【信じきれない弟子たち】

 初めに読んだ、マタイによる福音書の最後の部分、11人の弟子がガリラヤへ行き、甦ったイエス様に再会したところ。

 

 物語は感動のフィナーレを迎えますが、一つ気になる言葉が出てきます。「しかし、疑う者もいた」……この場面は、イエス様の宣教命令、弟子たちに対する最後の言葉で幕を閉じます。

 

 場所は、イエス様が指示しておかれた山の上。以前、既にこの世を去ったはずのモーセとエリヤが現れた、あの場面を思い出します。あの時と同じように天が開き、今度はイエス様も引き上げられる……そんな展開が予想されうるところです。

 

 つまり、復活したイエス様が、天に昇っていなくなる直前の出来事と言えるでしょう。使徒言行録によれば、イエス様は復活してから、40日にわたって弟子たちの前に現れ、神の国について話していきます。

 

 他の福音書でも、まずは女性たちに、その後一部の弟子たちに、さらに残りの弟子たちにと、次々にイエス様が現れたと書かれています。

 

 ようするに、11人が山の上でイエス様と出会ったのは、もう多くの人に現れた後、皆の前で、最後に姿を現すときだったと思われます。

 

 そんな中、たくさんの人の話を聞いても、復活したイエス様と出会っても、信じきれない弟子がいた。イエス様から直接、数多くの証拠を示されてなお、疑っている者がいた。

 

 それも、最近イエス様を知った新参者ではありません。初期の頃から、ずっとイエス様についてきた11人の使徒たち……その中に「疑う者」がいたんです。

 

 見て分かるように、これがマタイによる福音書の締めくくり、物語の結末部分です。どうせなら、弟子たちみんながイエス様を信じ、めでたし、めでたし……で終わってほしいのに、スッキリしない終わり方です。

 

 さらに、この後いなくなるイエス様は、弟子たちに大きな難題を残します。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」……イエス様が命じておいたこと、それはいったい何だったでしょう?

 

 わざわざ山の上でこれを語るんですから、5章以下に記された『山上の説教』を思い出せと促されているんでしょう。

 

 「腹を立ててはならない」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」……あそこには非常に困難な教えが記されていました。

 

 弟子たちの中で、これらの教えに忠実だったと言える人は、正直思い当たりません。弟子たちの中心的存在であったペトロは、仲間の誰かに腹を立てたとき、イエス様にこう尋ねます。

 

 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか?」……ようするに、7回以上罪を犯した相手なら、さすがにやり返していいですよね? と許可を求めてきたわけです。

 

 しかし、イエス様は言いました。「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」……ペトロがこれを素直に受け入れたのか、私にはわかりません。

 

 また、誰かにカッとしたとき、「復讐してはならない」という言葉を実行した弟子がいるでしょうか?

 

 サマリア人の村でイエス様が歓迎されなかったとき、一緒にいたヤコブとヨハネはこう耳打ちします。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」

 

 どう考えてもオーバーキル! 非常に過激な発言です。弟子たちは決して、聖人君子ではありませんでした。ちょっとしたことですぐ頭に血が上る、好戦的な兄弟たち。

 

 イエス様は彼らをたしなめた上で、何度も報復ではなく愛と赦しを訴えます。しかし、繰り返しイエス様が語った「敵を愛しなさい」という教えは、ついぞ思い出されません。

 

 イエス様が大祭司の手下に捕えられたとき、弟子の一人が剣を抜いて打ちかかり、片方の耳を切り落としてしまうからです。

 

 ここに、「愛」の二文字は見えません。彼らの中に、イエス様の教えを身につけた者、一人前の弟子と言える者は一人も挙げられませんでした。

 

 もちろん、イエス様が復活した途端、彼らが忠実になれたわけでもありません。「互いに愛し合いなさい」と言われつつ、互いの言うことを信じない、「わたしたちは主を見た」と言う姉妹の言葉を信じない……それが彼らの姿でした。

 

 そう、誰一人満足に教えを守れていないのに、イエス様は言ったんです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」……いやいや、彼らが教師になるのはまだ早い! この状況で免許皆伝されても、どうもスッキリできません。

 

【理解してない弟子たち】

 後から読んだ使徒言行録の箇所にも、気になる部分がありました。イエス様が天に上げられる直前に、弟子たちが質問するシーン。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」

 

 イエス様が十字架につけられる前、民の多くが期待していたのは、自分たちを支配するローマ帝国を討ち滅ぼし、イスラエルを独立させてくれる軍事的な王でした。

 

 しかし、イエス様は、敵と味方を分け隔てる軍事的な王ではなく、和解と平和をもたらす全世界の救い主としてやって来ました。

 

 イエス様が復活して40日も経っているのに、そのことがまだ、弟子たちに分かっていなかったんです。これはなかなかショックです。

 

 なにせ、イエス様が立ち去る直前に、大事な最後のお別れシーンで、彼らの無知が露わにされてしまうから。しかも、馬鹿な質問をした彼らに対し、イエス様は自分の教えを全世界に広めるよう託される。

 

 いやいや、彼らはまだまだ未熟です。教えが身についていないどころか、理解できてさえいないんです。イエス様が去っていくのは早過ぎます。

 

 せめて、教えを理解してから、少しでも実践できてから、彼らを教師にすべきです。そうじゃなきゃ、弟子たちは途方に暮れて、またイースターの前と同じように、部屋へ閉じこもることになるでしょう。

 

 実際、彼らはイエス様の言葉にポカンとし、そのまま天へ昇っていくのを見つめています。なんてスッキリしない別れ方でしょう?

 

 もしかしたら、彼らはまだ、イエス様が天からの大軍を引き連れて、地上に戻ってくるのを期待していたのかもしれません。しかし、いくら待っても軍事的な王は降りてこない。

 

 挙げ句の果てに、痺れを切らした天の使いが彼らに言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に引き上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」

 

 この時になって初めて、彼らは別れに気づくんです。ちょっと切ない話ですよね。本当にこんな別れで良かったんでしょうか?

 

【聖霊を待つ弟子たち】

 しかし、イエス様は容赦なく、彼らを置き去りにしていきます。ただ一言、大事な約束を残しながら。

 

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

 

 思い返せば、イエス様は天に昇る前、最後の食事でこう言っていました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」

 

 約束されたものとは何でしょうか? 手元に聖書がある私たちは、それが、ペンテコステの日に弟子たちへ送られた聖霊だと知ることができます。

 

 家の中に閉じこもって、祈りを合わせていた弟子たちに、突然、激しい風が吹いてきて、炎のような舌が現れ、一人一人の上に留まった。やがて彼らは、あらゆる国の言葉で話し始め、力強くキリストを宣べ伝えていきます。

 

 この聖霊は、イエス様の教えを理解させ、弱っている人を力づけ、語るべき言葉をその人にもたらす「助け主」「弁護人」であることが、聖書のあちこちに書かれています。

 

 イエス様は、自分の代わりに、一人一人に聖霊を送って助けることを約束します。どうしたらいいか分からない、教えを実行する勇気が出ない、そんなとき、あなたを助ける聖霊を送るから、約束されたものを待ちなさいと。

 

 この出来事は、一見スッキリしない話です。弟子たちとイエス様の別れは、全然かっこよくありません。締まりのないスタートです。

 

 しかし、イエス様は約束します。聖霊を通して、私たちは一つであると。あなたがどんなに情けなく、半人前の者であろうと、私はあなたと共にいて、語るべき言葉を授けると。

 

 かつて、イエス様が弟子たちと食事をされたとき、そこには疑いを抱く者、教えを実行できない者、信じきれない者がいました。最後の最後までそうでした。

 

 しかし、イエス様は、彼らのためにパンを裂き、ぶどう酒を分け与えました。この方が共にいることを、今もそばにいることを、聖餐によって実感するとき、私たちもまた、信じない者ではなく、信じる者に変えられます。

 

 だから、あなたも、命じられたことを教えなさい。