ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『こんな退場あり?』 使徒言行録1:6〜14

2019年6月26日

 

f:id:bokushiblog:20190626153352j:plain

 

【意外な退場】

 今日は大変困ったことに、3ヶ月前、日曜日にお話しした聖書箇所と、同じところが当たっています。

 

 十字架にかかって死んだイエス様が復活し、40日経って、天へ上っていく話……昇天日に読まれる聖書箇所が、そっくりそのまま、今日の聖書日課で示されちゃいました。

 

 もう昇天日から10日後のペンテコステも終わって、3週目です。教会に通っている人は、今更昇天日の話? と思うかもしれませんが、今更だからこそ、ふと考えるんです。

 

 どうしてイエス様、せっかく復活したのに、いなくなっちゃったんだろう?……と。そのまま地上に留まれば、もっとたくさんの人がイエス様を信じただろうに。

 

 しかも、40日間一緒に居たんですよ?*1 おそらく、死んだはずのイエス様と再会した弟子たちにとって、この一ヶ月は、ようやく実感が湧いてきた頃でしょう。

 

 初めは疑う者もいました。再会して気づかない人もいました。しかし、一緒に食事を重ねるうちに、幽霊でも幻でもない、確かにあのイエス様だと、みんな分かってきたようです。

 

 弟子たちは復活したイエス様から、神の国についてもう一度教えられていきます。彼らは思ったでしょう。

 

 これは活動を再開する準備、自分たちはこれから、もう一度宣教を開始する。そして、イエス様を捕えて処刑した人たちに反撃する! いよいよその準備が整ってきた……熱くなった弟子たちは、イエス様にこう尋ねます。

 

 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか?」

 

 イエス様を訴えた祭司長、律法学者、長老たちだけでなく、処刑を実行したローマ兵たち。彼らを束ねるローマ帝国そのものを打ち倒し、イスラエルを敵の手から解放するのは、今ですか?

 

 弟子たちは期待を込めて聞きました。もう、自分たちの準備はできています。イエス様、あなたが復活したこと、教えられたこと、全てのことを私たちは心に留めました。

 

 いつでもあなたを捕えた人、訴えた人、処刑した人たちに反撃できます。以前行なってきた活動、神の国について宣べ伝える働きも、より力強くできるでしょう。

 

 さあ、合図をなさってください。号令をかけてください。私たちはあなたに従って、今度こそどこへでも付いていきます!

 

 ところが、イエス様は拍子抜けする返事をします。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」……ようするに、「今じゃない」と言うんです。

 

 まあ待て、落ち着け、そう焦るな……今はその時じゃない。さらに、意気込みと熱意に満ちた彼らに対し、訳の分からないことを言ってきます。

 

 「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

 

 聖霊って何だ? それが下ると力を受ける? 逆に言えば、自分たちは今、力不足ということか? まさにこれからというときに、弟子たちは「おあずけ」をくらってしまいます。

 

 映画で言えば、敵に倒されたはずの主人公が復活し、仲間たちのもとに現れ、さあこれから反撃だ! というタイミング。クライマックスを迎えるシーンです。

 

 それなのに、イエス様はこのタイミングで弟子たちを止め、あろうことか退場してしまいます。

 

【あっけない別れ】

 「話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」……あまりにあっけない別れです。ちょっと信じられません。

 

 普通救い主が、ヒーローが退場するのは、敵を倒して問題を解決してからじゃないでしょうか?

 

 40日間、弟子たちと一緒にいて、神の国について教え込み、準備万端になった段階でいなくなる。これが本当に映画だったら、いったい何のために復活したの? となるでしょう。

 

 イエス様を見つめていた弟子たちもポカンとしています。そりゃそうです。まさかこのタイミングで、自分たちだけ置いていくとは思わないじゃないですか?

 

 そう言えば、以前もイエス様は山の上で白く輝いて、天上でモーセやエリヤと話していました*2

 

 あの時も、雲に包まれた後、イエス様は帰ってきたから、今回もまたすぐ戻ってくるに違いない。もしかしたら、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人はそう思っていたかもしれません。

 

 けれど、一向にイエス様が戻ってくる気配はありません。すると、どこからか白い服を着た2人の人が現れて、弟子たちに声をかけてきます。

 

 白い服の2人と言えば、イエス様が復活したとき、墓の中でそのことを知らせた謎の存在*3。おそらく神の使いでしょう。彼らは痺れを切らせたようにこう言います。

 

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」

 

 この時になって初めて、弟子たちはイエス様が、この世の終わりがくる時まで、天に上げられてしまったんだと気づきます。

 

 えっ、じゃあ今のが、最後の別れ? 次、イエス様がやって来るまでもう会えない? ちょっと呆然とする話ですよね。

 

 死を打ち破ったイエス様が、強大な力に満ちたイエス様が、何の力もない弟子たちに「じゃ、後は任せた」と言わんばかりにそそくさと退場してしまう……彼らだけでも大丈夫と言うんでしょうか?

 

 いえいえ、弟子たちは神の国ついて再度、40日にわたって教えられながら、何も理解していませんでした。

 

 イエス様は、多くの人が期待する軍事的な王ではなく、全ての人を罪から救う救い主としてやってきたのに、彼らはまだ、ローマ帝国に敵対する反逆の王だと思っています。

 

 イエス様が「国を建て直すとき」というのは、イスラエルにとどまらず、ローマも、他の国も、世界中全てのものが、暴力や死という理不尽な力から解放されるときです。

 

 「互いに愛し合いなさい」という神の国の教えを聞いてきたにもかかわらず、弟子たちはまだ、外国人とイスラエル、敵と味方という考え方を引きずっていました。

 

 そんな弟子たちの無理解を、天に上る直前に見てしまったイエス様……普通これなら、やっぱもうちょっと側にいて教えた方がいいかな? と思いますよね。でも、イエス様は謎の信頼を彼らに対して持っています。

 

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」……わたしの証人となる。自分について、未だに分かっていない彼らが、わたしの証人となる。

 

 私だったら不安です。何か間違えたことを言うんじゃないか? 自分のことを誤解したまま、とんでもないことを人々に教えていかないか?

 

 彼らを野放しにしたまま天へ上るなんて、正気の沙汰とは思えません。でも、イエス様は心配する様子も見せず、そのまま天へ上っていきます。「父が約束されたものを、あなたがたに送る」と言い残して。

 

【約束されたもの】

 イエス様は天に上げられる前、弟子たちと最後の食事をしながらこう言っていました。

 

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」

 

 ご存知ペンテコステの出来事、弟子たちに聖霊が送られる日を約束した言葉です。 

 

 「父・子・聖霊なる三位一体の神」……と言われるように、聖霊は神様と、イエス様と本質を同じくするものです*4

 

 ある人が父なる神を「見えざる神」、子なる神イエスを「見える神」、聖霊なる神を「感じる神」と言ったように*5、神様も聖霊も、私たちの目に見えません。

 

 イエス様は、自分が天に上った後、見ることのできない感じる神、自分と本質を同じくする聖霊を、あなたがたに送ると約束しました。

 

 そんなことせずに、いつまでも「見える神」であるイエス様が、一緒にいてくれたら良かったのに……そう思うかもしれません。

 

 でも、イエス様が天に上って、見えなくなって、聖霊によって「感じる」ことしかできなくなって、初めてできるようになったことがあります。それは、「見ないで信じる」という信仰です*6

 

 イエス様が復活したとき、誰一人「見ないで信じる」者はいませんでした。先にイエス様と出会った人たちの話を聞いても、空っぽの墓を見せられても、一番親しかった弟子たちでさえ、信じることができませんでした。彼らが信じたのは、復活したイエス様を直接見てからです。

 

 もっと言えば、最初は見ても信じることができなかった人さえいました。マタイによる福音書の最後には、復活したイエス様と山の上で会って、なお、疑う弟子もいたことが書かれています*7

 

 見ても、聞いても、信じることのできなかった人たち……聖書にはたくさんそういう人が出てきました。

 

 ただでさえ、見ても信じられなかった人たちが大勢いるのに、イエス様を見ないで信じるなんて、到底考えられません。しかし、聖霊を受けた弟子たちは、初めて、見えない神様の力、イエス様の送った力に信頼し、語り始めることができたんです。

 

 それどころか、一度もイエス様と出会ったことのない人たち、イエス様を見たことのない人たちに、信仰を告白させるに至ります。

 

 文字通り、「見ないで信じる」者が生まれたのは、イエス様が天に上って、見えなくなって、聖霊が送られたことによってだったんです。

 

 聖霊って何ですか? とよく聞かれますが、一つは「見ないで信じる」ことができるように、私たちを導く力なんだと思います。

 

 イエス様が天に上る直前まで、イエス様を理解できなかった弟子たちまで、聖霊は大きく変えました。見ても信じることができなかった人さえ、見ないで信じることができる者へと、次々に変えられていきました。

 

 ここにいる人たちも、その一人です。「聖霊を感じる」というのは、見えない神様、見えないイエス様を、なぜか信じられるようになる、そんな出来事です。

 

 見えないイエス様がそばにいる、共にいる、一緒にいる……私たちがそう感じられるように、天へ上ったイエス様を、これからも信頼していきたいと思います。

*1:使徒1:3参照。

*2:ルカ9:28〜36参照。

*3:ルカ24:1〜12参照。

*4:岩島忠彦「Q27三位一体の説明を聞いたものの、よくわかりません。どう考えたらよいのでしょうか?」荒瀬牧彦/松本敏之監修『そうか!なるほど!!キリスト教』日本基督教団出版局、2016年、72〜73頁参照。

*5:岩島忠彦「Q27三位一体の説明を聞いたものの、よくわかりません。どう考えたらよいのでしょうか?」荒瀬牧彦/松本敏之監修『そうか!なるほど!!キリスト教』日本基督教団出版局、2016年、73頁参照。

*6:ヨハネ20:29参照。

*7:マタイ28:16〜17