ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『初代教会のクレーム対応』 使徒言行録6:1〜15

聖書研究祈祷会 2019年7月10日

 

f:id:bokushiblog:20190710151547p:plain

 

【最初の問題】

 初代教会のクレーム対応……こう言うと、皆さんは何を思い浮かべるでしょう? クレームって基本的には、共同体の外側から内側に対して行われるものです。

 

 お店の従業員に対するお客さんのクレーム、会社の営業マンに対する取引先からのクレーム、そして、教会の会衆に対する近隣住民からのクレーム。

 

 たとえば、「礼拝の音がうるさい」「教会の鐘がうるさい」という苦情、「教会の敷地でやっているバーベキューの煙がひどい」という文句、「勧誘がしつこ過ぎる」という苦言……

 

 これらは明らかにこちら側の責任で、防音にしたり、煙が出ないようにしたり、誠実に対応しなきゃいけません。

 

 まあ、最近は多くの教会がこのあたりに気を遣っているので、昔からある教会の中では、あまり聞かなくなったクレームです。

 

 むしろ、私たちが教会でクレーム(苦情や文句)として聞くのは、共同体の内側で、所属している人たちの間で起きる問題でしょう。

 

 「あの人が私に奉仕を押し付ける」という苦情、「役員会が勝手に大事なことを決めてしまう」という文句、「牧師が自分と全然話をしてくれない」という苦言……私たちに身近なクレームと言えばこっちです。

 

 「身近」って別に、今そういう苦情が華陽教会であがっているという意味じゃありませんが、長年教会に通っている人は、外からよりも、中から苦情を聞くことの方が多いでしょう。

 

 初代教会で起きた最初のクレームも、外側からではなく、教会の内側から発されました。ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。なぜなら、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからです。

 

 「日々の分配」というのは、貧しい人々に対する援助のことで、ユダヤ教の伝統をキリスト教会が引き継いだものです*1

 

 毎週金曜日、それぞれの地域で貧しい人々に与えられた「パンかご」と呼ばれる基金のお金か、あるいは「盆」と呼ばれる施しのことで、見知らぬ人々に届けられた食料のどちらかを指すんでしょう*2

 

 どうも、外国出身のユダヤ人と、生まれた頃からエルサレムにいるユダヤ人との間で、不公平な分配が行われていたようです。私たちで言えば、帰国子女とそうでないグループとの間で、対立が起きた感じでしょうか?

 

 たぶん、あからさまな差別というよりは、地元のユダヤ人から食事が配られ、後から配られる外国出身のユダヤ人たちが、毎回何人かあぶれてしまう……という話だったんじゃないかと思います。

 

 「先生、どうにかしてください」「彼らを叱って公平に配らせてください」「私たちの仲間にも、行き渡るようにしてください」……あちこちから抗議の声があがります。

 

 しかし、12人の使徒たちは、この問題に手が回りません。3000人、5000人と、どんどん増えていく信徒*3に対して、イエス様の弟子12人だけでは、手が足りなくなってきたんです。

 

 そこで、彼らはこう言います。「わたしたちが神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」……これじゃあ雑用に追われて、聖書の話もイエス様の話もろくにできないじゃないか! と危機感を持ったわけです。

 

 逆に言えば、このときまで教会の代表者たる12使徒、「司祭」や「牧師」と呼ばれるような宗教的指導者が、人々の食事を世話していたってことですよね。

 

【特別な務め】

 考えてみたら、イエス様がいたときから4000人、5000人の群衆に、パンや魚を配っていた弟子たちは*4、同じように、ずっと人々の食事を世話してきたわけです。

 

 しかし、彼らだけでは手が回らなくなってきたため、改めて食事の世話をする7人を選ぶことになります。

 

 彼らの選出は、12使徒の指名ではなく、教会会議による選挙によって行われます*5。全会衆の中から「霊と知恵に満ちた評判の良い人たち」7人を、みんなで投票するわけです。

 

 この7人は、単に食事の世話をするため選ばれますが、読者は教会の「執事」や「役員」といった、指導者的立ち位置の選挙を思い浮かべるでしょう*6

 

 事実、7人のうち、ステファノやフィリポといった人物は、食事の世話に留まらず、病人を癒し、不思議な業を見せ、人々へ力強くメッセージを語って、伝道の第一線に立っていきます。

 

 もう使徒たちに準ずる教会の立派な指導者です。そう、教会の指導者的立ち位置は、日常的で必要不可欠な運営上の要求から生まれました*7

 

 教会の職制は、共同体全体がその宣教に従事できるよう、必要な仕事が遂行されるようにできたんです。牧師や役員という地位は、他の信徒より特別視されるために作られたわけじゃありません。

 

 宗教改革者マルティン・ルターも、全ての信徒は聖職者の身分であること、教会の牧師は「特別な身分」へ就くのではなく、会衆のとりなしによって、「特別な務め」に任じられることを教えています。

 

 牧師や役員(特に男性が)がお茶を運んだり、食器を洗っていたりすると、慌てて「そんなことさせるわけには!」と飛んでくる人がいますが、本来、教会の指導者的立場の人も、礼拝の務めがないがしろにされるわけでない限り、食事の世話も、後片付けもするんです。ここはそういう共同体なんです。

 

【偏った選ばれ方】

 初代教会で最初に選出された執事、役員のように見える7人も、もともとはこのように食事の世話をするため選ばれました。ところが、この7人の選ばれ方、少々奇妙に思えます。

 

 普通、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間で揉め事が起きたんですから、選出される7人も、ギリシャ語を話す者とヘブライ語を話す者、半々くらいにするのが自然です。

 

 ところが、ここに挙げられた7人の名前、ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオという人物は、全員ギリシャ的な名前か、外国出身の人物です*8

 

 ヘブライ語(厳密にはアラム語)を話すユダヤ人は、一人も入っていないんです。これって、かなりバランス悪くありません?

 

 もしかして、ヘブライ語を話すユダヤ人が、自分たちへの苦情を聞いて反省し、ギリシャ語を話すユダヤ人が優先されるよう、自ら身を引いてくれたんでしょうか?

 

 彼らの思いを汲んで選出した結果なんでしょうか? そうだとすれば美しい話ですが、実際はどうだったんでしょう?

 

 ヘブライ語を話すユダヤ人の中には、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」がいなかった、というオチかもしれません。

 

 あるいは、「食事の世話をする役目なんて、ギリシャ語を話すユダヤ人に任せればいい」と思い、誰もヘブライ語を話すユダヤ人には入れなかった。そういう話かもしれません。

 

 こんなこと言ったらひんしゅくを買うかもしれませんが、私はどちらかと言うと、後者だったんじゃないかと思います。だって、誰もが認める立派な人を、食事の世話係に任命するなんて、なかなか難しい話でしょう?

 

 ですが、この出来事は、私たちへ重要なことを教えてくれます。ちょっと身近な場面で想像してみましょう。

 

【虐げられた者の選出】

 ある日、私たちの教会で、女性の信徒と男性の信徒の間に揉め事が起きたとします。昼食を配るとき、いつも男性たちが優先的に配られて、度々女性の分が忘れられている。

 

 みんなが食事の席についたとき、まだ女性に行き渡っていないのに、男性に食事が行き渡っていれば、すぐみんな食べ始めてしまう。すると、後から来た人の分が減ってしまう。

 

 「先生、公平に食事が配られるようにしてください」「女性の分も確保させてください」誰かが牧師に頼みます。けれど、礼拝のあと、役員会の準備やらで、食卓に来るのが遅れてしまう私には手が回りません。そこで、こう提案します。

 

 「それなら、公平に配ってもらえるように、評判の良い人を配膳係に選びませんか?」「男も女も関係なく、みんなに行き渡るよう気を遣ってくれる人たち7人を選んでみましょうよ」

 

 さっそく、みんなで話し合い、7人の配膳係が選ばれます。しかし、そこに選ばれたのは、なんと女性のみでした。

 

 「男性で配膳してくれる人なんて、この中に果たしているだろうか?」「配膳なんて、女性にやらせとけばいいんじゃない?」

 

 ぶっちゃけ、公平性という観点からはほど遠い理由で選ばれた7人は、それでも真面目です。みんなのために、全員へ食事が行き渡るよう常に気を配ってくれました。

 

 ところが、彼女たちを選んだ会衆は、全く想像がつきませんでした。この7人が、配膳係という枠を超えて、聖書入門クラスやキリスト教入門まで開くようになり、果ては礼拝で証をし、教会の中心を担っていくことになるなんて!

 

 そう、食事の世話する人に過ぎなかった彼らは、精力的に伝道の道を歩き出し、教会の中に、新しい風をどんどん吹き込んでいくんです……今、私たちが見ている使徒言行録には、そんな衝撃的な記録が残されています。。

 

【思ってもみない展開】

 初代教会で、ギリシャ語を話す7人を選んだ教会の人たちは、まさか彼らが、自分たちの活動の中心を担う者になるなんて、考えていなかったんじゃないでしょうか?

 

 ただの雑用、自分たちの世話のために選んでおいた人々が、自分たちの指導者的立ち位置になっている……その事実に、ある者は驚き、ある者は悔い改め、ある者は腹を立てたでしょう。

 

 しかも、このうちのステファノは、最初の殉教者、イエス様に従って命をささげた者となります*9。12使徒よりも早くです。

 

 また、フィリポはかつて、イエス様を追い出したサマリアの町で信徒を増やし、エチオピアの宦官まで信仰に入らせます*10。こんなこと、誰が予想できたでしょう?

 

 神様は、私たちの「選び」に働きかけて、思ってもみない展開をもたらします。打算であったり、妥協であったり、利己的な思いで選んだ人が、想像を超えた働きをすることがあります。

 

 なんなら、私たちの期待していた方向とは全然違う展開かもしれません。しかし、そのような出来事を見るたびに、私たちの都合や身勝手さを大きく超えて働かれる神様の「選び」を思い出すんです。

 

 ある人にとって、自分が選ばれたことは、周りの身勝手さによる不本意な出来事かもしれません。みんなの期待するように動くことを求められ、しんどい思いをしているかもしれません。

 

 しかし、神様は周りの期待や目論見を超えて、あなたに大切な使命を与えます。また、私たちが無責任に選んだ人を、私たちの導き手として遣わします。

 

 その一つ一つを心に刻みながら、神に仕え、隣人に仕え、この世へと出て行きたいと思います。

*1:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、569頁参照。

*2:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、569頁参照。

*3:使徒2:41、4:4参照。

*4:マルコ8:1〜10、ルカ9:10〜17参照。

*5:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、133頁参照。

*6:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、569頁参照。

*7:W.H・ウィリモン著、中村博武訳、『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、102〜103頁参照

*8:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、569〜570頁参照。

*9:使徒7:54〜8:1参照。

*10:使徒8:4〜40参照。