ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『役に立つわけないでしょう?』 申命記8:1〜6、ヨハネによる福音書6:1〜15

礼拝メッセージ 2020年2月23日

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【役に立たない量】

町中のドラッグストアからマスクが消えてしまいました。最近では、コンビニでも「一人3枚まで」と注意書きのある空っぽの棚が目立ちます。ついにはアルコール消毒液さえ買えないときが出てきました。理由は分かっています。コロナウイルスの感染や拡散を防ぐため、みんなが買いに走ったからです。

 

今必要としているのに全然足りてない。運良くマスクを買えたとしても、一人3枚までならあっという間に切れてしまいます。家族の分を確保するのも難しい人がいるでしょう。コロナウイルスに関係なく、花粉症やアレルギーのため、普段から必要としている人も、手に入らなくなっています。

 

一応断っておくと、マスクは感染症の予防にはそこまで役に立ちません。咳やくしゃみによる拡散を防ぐ効果はありますが、人混みや人口の密集しているところへ行かない限り、また、免疫や抵抗が弱っていない限り、予防のためにマスクをつける必要はそこまでありません。

 

ただし、教会のような人が密集するところでは、感染症の対策も、なるべくしっかりやっておきたいところです。けれども、礼拝堂の受付に「ご自由にどうぞ」とマスクを置けば、あっという間に足りなくなってしまうでしょう。なにせ25、6名の人たちが集まる教会です。欲しいだけ分け与えたら、それこそ一発でなくなります。

 

焼け石に水かもしれません。置いておいても、あんまり意味がない気もします。抵抗力の低いお年寄りや子どもたち、治療のために免疫が下がっている人たちへ、本当に必要なだけマスクを渡そうと思ったら、うちに残っていたこれだけの量じゃ、全然役に立たないでしょう。来週か再来週には、なくなっているかもしれません。

 

そう、私たちの周りは足りないものであふれています。新会堂のため、必死にかき集めたけれど、目標には全然届かない献金。仕事や高齢化のために、お願いしたくてもなかなか集まらない奉仕者。何なら来年度は選出できる役員も足りないかもしれない。

 

これじゃ足りない、役に立たないという出来事が、皆さんの家庭や学校、職場でも頻繁にあるでしょう。

 

そんなとき、今日読んだ聖書のエピソードは、夢のような話に聞こえてくるかもしれません。足りないものが満たされる。必要以上に与えられる。まさに「奇跡」という名にふさわしい出来事ですよね。

 

【かき集めた食事】

イエス様がガリラヤ湖の向こう岸に渡って山に登り、群衆に教えを語っていたとき、弟子のフィリポは突然こう尋ねられました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか?」

 

たぶん、フィリポも面食らったでしょう。集まった群衆は、イエス様が病人を癒した出来事を見て、勝手についてきた人々です。確かに、湖を渡り、山を登り、長い距離をついてきた彼らがお腹を空かせていることは想像に難くないですが、食事については自分たちで考えて欲しいところです。

 

そもそも、仕事を捨ててイエス様に従った弟子たちは、そんなにお金を持ってません。そこにいる人たちの食事の世話をするなんて、考えてもいなかったことでしょう。

 

さらに言えば、湖を渡り、山を登り、近くにお店がないところまでやって来たのは、他ならぬイエス様本人です。「今更ここで食事を提供したいんですか?」とびっくりしたことでしょう。

 

けれども、彼は誠実に答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」……ちなみに、1デナリオンは当時の日給です。私たちの感覚で、だいたい6000円から10000円くらいだとすれば、120万円から200万円程度は必要だということでしょう。

 

事実、この後座らせた人々は、男性だけで5000人。乱暴に一食300円かかるとすれば、150万円は必要な計算です。女性、子どもを含めたら300万円以上。当然そんなお金用意できないし、運良く払えたとしても、それだけのパンを売っているお店もありません。

 

しかも、この日はちょうど過越祭が近づいている時期でした。別名、徐酵祭とも呼ばれるこの祭りは、かつてエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、神様によって導かれ、脱出した出来事を覚えるために、各家庭で種無しパンとニガヨモギを用意します。

 

ようするに、酵母の入ってないパンを焼くため、この時期は普通のパンがなくなるんです。いよいよ、5000人分以上のパンを集められるとは思えません。

 

確かに、ここまでついてきた群衆に食事を提供したいのはやまやまですが、それは無理じゃないでしょうか? するとそこへ、シモン・ペトロの兄弟アンデレも加わってこう言います。

 

「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」……そのとおりです。5000人以上に対してたった5つのパンと2匹の魚。足りるわけがありません。この対比はあまりに大きく感じます。

 

けれども、ちょっと考えてみてください。少年一人が食べるにしては、パン5つと魚2匹ってかなり多いですよね? 成人男性でもそんなに食べません。明らかにこれ、一人分の食事じゃないんです。そう、少年が持ってきたのは、自分だけの食事ではありませんでした。家族の分だったのかもしれません。友達の分も入っていたかもしれません。

 

もしかしたら、みんなに食事を与えようとするイエス様を見て、少年の家族や友人が、「困っているからこれを渡して」と言ったのかもしれません。あるいは、少年自身が「お願いです」と言って集めたのかもしれません。

 

はっきりしているのは、パン5つと魚2匹という食事は、一人の子どもが、自分の持っていた分だけを差し出したものではなく、周りの人たちから「かき集めたものだった」ということです。

 

【用いられる食事】

実は、少なく見える献げ物は、非常に大きな献げ物でした。「役に立つわけないでしょう?」と言った弟子たちに対し、イエス様は一言も「役に立たない」とは言いません。

 

むしろ、少年の食事を受け取って、感謝の祈りをささげます。そして、みんなに分け始めるんです。しかも、「一人いくつまで」と限定せずに、それぞれに「欲しいだけ」分け与えていく。

 

あり得ないことに、5つしかなかったパンは全員に行き渡り、2匹しかなかった魚も、なぜかみんなを満腹させました。かつて、エジプトを脱出した民が、荒れ野で空腹になったとき、神様の与えたマナで一人一人が満たされた出来事を思い出します。

 

さらに、イエス様は少年がかき集めた食事を少しも無駄にしないよう、弟子たちにこう命じます。「少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい」……弟子たちが集めると、残ったパン屑で12の籠がいっぱいになりました。

 

もはや、「パン屑」じゃないですよね。エジプトを脱出した民に与えられたマナは、人々が満腹すると、どれだけ余分に集めても腐って食べられなくなりましたが、イエス様が群衆に与えたパンは、人々が満腹した後も、さらに他の人へ分け与えられるほど余ります。役に立つわけなかった献げ物が、こうして大きく用いられました。

 

実は、似たような経験を私たちはしています。自分のような足りない者が、牧師の務めに、役員の務めに、教師の務めに用いられ、役に立つことなんてあるだろうか? そう思いながら、それぞれの教会で大いに用いられて来た人たちを、私も皆さんも知っています。

 

ちょっとしか献げられないから、ほとんど来ることができないから、みんなのように手伝えないから、自分なんて役に立たない……そう思っている人のことを、イエス様がどれだけ感謝して用いているか、もっと知ってほしいんです。

 

少し前に、今教会に来ることが困難な人のところへ、訪問聖餐に行きました。持っていったパンとぶどう液は、これっぽっちの小さな量です。腹を満たすことも、味わうことも難しいほどの少ない食事。けれども、この食事を口にしたとき、涙を流して感謝した方がおられました。

 

困難な現実、不安な状況、それらを解消するのに、このちっぽけな食事が役にたつとは思えない。思えないのに、その人は力を与えられたと言いました。イエス様がおられる食事の豊かさを、私に教えたのはその人でした。満足に動けない、礼拝に来られない人たちは、キリストの恵みの豊かさを伝える立派な奉仕者でもありました。

 

私も、この人たちにならいたいと思います。足りない自分を豊かに用いる、イエス様の力に生かされたいと思います。私の前には、皆さんのかき集めてきた12の籠にいっぱいの恵みがあふれています。新しい一週間、この恵みを他の人にも、一緒に分かち合っていきましょう。