ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ちょっとしんどい』 マタイによる福音書6:1〜15

聖書研究祈祷会 2020年2月26日

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【しんどい言葉】

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」

 

イエス様が山上の説教で語った言葉は、私たちにちょっとしんどい思いをさせます。周りから良い人だと思われるように、善い行いをしてないか? 周りにちゃんとした信仰者であると思われるために、取り繕った祈りをしてないか? 周りの人を許せなければ、自分も許してもらえないのか?

 

先ほど読んだ聖書の言葉は、どれも「自分は偽善者じゃないか?」という疑問を突きつけます。所詮、私は自分のために、褒められるために生きている。周りから承認され、責められないように過ごしている。誰かのための行動も、信仰的な生活も、見せかけに過ぎないと言われたら、全力で否定はできないだろう。

 

小さい頃から、「偽善者」という言葉は度々私を苦しめました。みんなが掃除をサボっているとき、一人だけ床を掃いている。誰も給食の台を片付けないとき、係じゃないけど片付ける。周りがうるさく騒いでいても、真面目に課題をやっている。先生から見れば「良い子」でしたが、教室のみんなから見れば「ぶりっ子」でした。

 

それは褒められるためでしょう? 認めてもらうためでしょう? 良いところを先生に見せているだけで、みんなのためじゃないでしょう? そういう目で見られたときに、自分でも否定できませんでした。私は心から掃除がしたくてやっていたわけでも、みんなのために片付けていたわけでも、勉強が好きで真面目にしていたわけでもありません。

 

怒られるのが嫌だったからです。みんなが叱られるとき、自分だけは免れようと思っていた。「良い子だね」と言われるのは、まさに偽善者みたいで嫌でしたが、私はいつか、「君はこれまでちゃんとやってきた」と認められる日を待っていたんです。

 

私を偽善者だと思っていた連中は裁かれて、自分は赦され、救われる……そんな日が来るのを心のどこかで待っていました。だから、人に「良いところを見せるため」というより、「悪くないことを見せるため」に、色々我慢していたんです。ちょうど、律法学者やファリサイ派が、掟をしっかり守っている自分たちは救われて、守る努力をしなかった人は裁かれるのを望んだように。

 

【残酷な気づき】

ただ、そんな私に投げかけられた聖書の言葉は残酷です。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」……そうか、どれだけ良いことをやったって、誰かに見られ、偽善だと囁かれる限り、私の行動は間違っているのか。自分だけ正しくあろうとして、周りを赦せない限り、私も赦してもらえないのか。

 

皆さんはどうでしょう? 自分が偽善者だと思われたい人は一人もいません。偽善者と思われたくないからこそ、良い子を演じていると思われないように、目立たないように、色んなものを見て見ぬ振りした経験が、子どもの頃にあると思います。

 

大人だってそうです。みんながやっている不正を一人だけ指摘すれば、「あいつだけ良い人になろうとしている」と白い目で見られるかもしれない。誰も手をつけなかった面倒臭い作業を始めれば、「余計なことしやがって」と煙たがられてしまうかもしれない。あるいは、「売名行為だ」と叩かれるかもしれない。これは偽善だ、だからやめておこう。

 

ほら、イエス様もこう言っている。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」誰かに見られているところで、目立った行動はしなくていい。施しも、お祈りも、隠れてやるように言われている。だから、私も隠れておこう……こんなふうにあからさまに言うと、「いやいや、それはちょっと違うだろう」と皆さんも思われるでしょう。

 

偽善じみた行動はダメだけど、偽善者だと思われないために、行動しないのも間違っている……そうなんです。むしろイエス様って、明らかに偽善だと思われることを、躊躇なくやってきた方でした。罪人の家で食事をとる。徴税人の家に招かれる。それって美味しいご飯にありつけるからでしょう? 大酒飲みで大食漢だからでしょう? あなたは人のためじゃなくて、自分のためにやっているんだ!

 

祭司長、律法学者、ファリサイ派の人たちから、何度そう非難を受けたことか。安息日に病人を癒したり、神殿から商売人たちを追い出したり、偉い人たちを公然と批判する。今だったら、SNSであっという間に炎上したでしょう。「そのやり方はどうなのか?」「自分が目立ちたいだけだろう?」「やっぱり売名行為じゃないか?」

 

一方、ファリサイ派の人たちは、もっと無難に、もっと大人しく、会堂や街角で祈りをささげました。主よ、私は大人しく、冷静に、落ち着いた姿勢で過ごしています。道端で貧しい人に施しを与え、街角や会堂でみんなのために祈っています。罪人や徴税人、娼婦や異邦人と関わっている、あの「偽善者」とは違います。私はちゃんと、誰からの批判も受けないように生きています。

 

そう、神様がどう思うかでなく、周りにどう思われるかで生きている。たとえ、誰かのためになるとしても、自分の評価を下げかねないなら行動しない。友達から、同僚から、家族から、近所から、教会のみんなから、偽善者だと思われないように、無難な善人として生きていく。

 

ラッパを吹くという表現は、まさに自分を取り繕うことです。「私は悪人じゃありません」「偽善者なんかじゃありません」「みんなが受け入れられるまともな人です」「だから、私を叩かないでください」「私を疑わないでください」「ほら、どこにも突っ込みどころはないでしょう?」……そうやって、大きく見せること。

 

でも、イエス様が勧めているのはそういうことじゃないんです。私たちが、自分を偽善者だと見られないようにするのは、結局人からどう思われるかを気にしているからこそ、でした。隠れたことを見ておられる神様は、「偽善」や「罪人」という評価に悩み、苦しみながら戦っている、見えない部分も知っています。

 

【何を悔い改める?】

「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」……この言葉も、「自分が赦してほしければ、あなたも人を赦しなさい」という条件付けではありません。掟の守れない人を赦せなかった律法学者やファリサイ派は、掟が守れない自分自身も赦せませんでした。

 

613個もある聖書の掟を全て守れる人間なんて、普通に考えてありえません。律法を守ることで罪が避けられ、罰を免れ救われる……という考え方は、どんなに真面目に生きていたって絶望的な話です。今日もあれができなかった、これができなかった、こんな過ちを犯してしまった……だけど、それを認めたら自分は罰を免れない。

 

もう、あとは誤魔化していくしかありません。あっちの人に比べれば、私はちゃんとやれている。こっちの人と比べたら、私は許容範囲だろう。そうして、「赦せない人」を増やすことで、自分は大丈夫だと言い聞かせる。だけど、心の底では、自分自身も赦されるとは思っていない。

 

そんな中、イエス様は、誰から見ても掟をちゃんと守れていない、徴税人や娼婦、罪人たちと食事をし、神の赦しを告げました。悪人であり、偽善者であり、愚かであり、高慢である自分……そんな自分を正面から見て、神様に祈った人の言葉が、ルカによる福音書18章9節に出てきます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください……」

 

今日は、キリストの十字架と苦しみを思い起こす46日間、受難節の始まりを覚える灰の水曜日です。この期間、私たちは自分自身の犯した罪を振り返り、悔い改めて神様に赦しを求めます。毎年この時期がやってくると、私はちょっとしんどくなります。普段は見ないようにしている自分の過ち、自分の愚かさを見つめる期間でもあるからです。

 

「やってしまったこと」だけでなく、「やらなかったこと」「無視してきたこと」「包み隠してきたこと」をもう一度見つめて悔い改める。なかなか厳しい時間です。しかし、イエス様は、自分自身を見つめて戦う一人一人を見ておられます。責めるのではなく支えるために、新しい生き方へ導くために、共に祈ってくださいます。

 

イースターを迎えるまでの間、この方と一緒に、一歩一歩歩んでいきましょう。