ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そんなの栄光じゃない!』 ヨハネによる福音書12:27〜36

礼拝メッセージ 2020年3月29日                

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【裏切りと死が栄光?】

「栄光」って言葉を聞いたとき、何をイメージするでしょう? 王冠、王座、勝利、歓声、名声、繁栄、地位、財産……信頼する仲間に囲まれ、笑顔と拍手に包まれる。たぶん、そういった輝かしい様子を考える人が大半じゃないかと思います。みんなから褒められ、崇められ、感謝される、嬉しくて仕方のない様子。

 

ところが、それとは全くかけ離れた状態がやってくることを「栄光」と表現した方がいます。「父よ、御名の栄光を現してください」イエス様が神様にそう祈ったとき、天からこんな声が聞こえてきました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」……その後何が起こったか、皆さん予想できるでしょうか?

 

まず、どれだけ奇跡を目の当たりにしても、イエス様を信じない者が出てきました。次に、食事の席でイエス様が弟子たちの足を洗い始めます。まるで奴隷のような姿です。さらに、弟子の一人がイエス様を裏切るために出て行きます。彼の手引きでイエス様はあっさり捕まり、大祭司のもとへ連行されます。

 

他の弟子たちもみんなイエス様を見捨てて、一目散に逃げてしまいました。隠れてついてきたペトロも、門番に「イエスの仲間か?」と問い詰められると「違う」と打ち消してしまいます。最後の仲間も失いました。その後、イエス様は死刑の判決を受け、鞭で打たれ、平手で打たれ、荊の冠をつけられて、「ユダヤ人の王、万歳」と嘲られます。

 

民衆も「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と連呼し、イエス様は裸にされ、磔にされ、渇いた喉には酸いぶどう酒を流し込まされ、息を引き取った後も、脇腹を槍で突かれてしまいます。完全に死んだことが確認されてからも、安息日が近かったので、まともな葬儀は行われず、簡易的な埋葬で済まされます。

 

これが、天から「再び栄光を現そう」と聞こえた後の出来事です。どこが栄光に見えるでしょう? むしろ、この上なく悲惨な状況ですよね。イエス様自身、これらのことが起こる前に「わたしは心騒ぐ」と言っていました。神様が自分に現す栄光とは、この世の富や名声によってではなく、裏切りと死によってもたらされると知っていたからです。

 

「そんなの栄光じゃない!」と言いたくなります。でも、ヨハネによる福音書では、イエス様が裏切られ、逮捕され、十字架につけられるときこそ「栄光を受けた」と語られます。全くひどい話です。普通、みんなから歓迎と祝福を受けてこそ、栄光を受けたと言えるはずです。

 

【民衆の一転する態度】

そう、本来なら過越祭の6日前、イエス様がエルサレムに入城したシーンこそ、「栄光を受けた」というのにふさわしい場面でした。「ホサナ! 主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に!」そう叫ぶ人々に出迎えられたイエス様こそ、ナツメヤシの枝を振って歓迎されたあの時こそ、栄光が現された姿じゃないでしょうか?

 

でも、ここでは「栄光を受けた」とは語られません。むしろ、あれだけ熱烈に歓迎していた民衆は、イエス様が逮捕され、裁判にかけられると、一気に態度を一変させます。人々に寄せられた名声や信頼はあっという間に塵と化し、祝福を願っていた声は、十字架の死を要求する声へと変わっていきます。

 

人間によってもたらされる栄光は、誰かの扇動や誘導によって、あるいは誤解や偏見によって、あっという間に失われるものでもありました。私たちが思い浮かべる「栄光」の多くは、やがて朽ち果て消えゆくものです。すぐに揺らいでは塵になるもの……しかし、神様がもたらす栄光は、どれだけ周りの状況が変わっても失われないものなんです。

 

そう、イエス様が現す栄光とは、神様と人との完全な関係です。自分を信じてもらえなくても、民衆が態度を一変させても、弟子たちが自分を裏切っても、侮辱と暴力をぶつけられても、神の子であるイエス様は、変わらず人々と共にいました。奇跡を期待する群衆から身を隠すことはあっても、彼らを切り捨てようとはなさいません。

 

イエス様は、信じたり疑ったり、従ったり背いたり、常に揺らいでいる私たちを救うため、壊れた関係を回復するため、報復や処罰ではなく、自ら痛みを受けながら、和解の道を歩まれました。疑っていた者が信じるように、背いた者が従うように、悲しんでいた者が喜ぶように、イエス様は「わたしとあなたの関係は切れることなく、より新しくなっていく」と示しました。

 

【不在と闇夜に備えて】

普通、この世の支配者は、自分を賞賛しない人間や自分に背く人間を切り捨て、その者との関係を完全に絶ってしまいます。それこそ、裏切ったり、見捨てたりすると分かっている人間を、いつまでも手元に置いておくなんてあり得ません。さらに、王の命が脅かされた場合、その者と和解することはもっとあり得ません。

 

そんなことをした人間は、地位も財産も剥奪され、国外に追放され、野垂れ死んでしまうでしょう。しかし、神の国の支配者は、本来、王が見捨てる者、追放する者を切り捨てることなく、「兄弟」「姉妹」と呼びかけ、新しい関係を築きます。王自らが、見捨てる者たちの足を洗い、裏切る者を「友」と呼び、自分と新しく関係を結ぶよう呼びかけます。

 

あなたが再び友となるまで、あなたが再び弟子となるまで、この方はあり得ない和解を果たそうと、死を超えて会いに来るんです。だからこそ、イエス様に十字架と死が訪れるとき、聖書は「栄光が現された」と語ります。神様の変わらない愛、不可能を可能にする力、絶望を希望に変える光が、この出来事によって明らかにされていくからです。

 

一方で、イエス様は不穏な言葉も残しています。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」……どうやら、イエス様は栄光を受けた後、神と人との完全な関係を現した後、みんなの前から姿を消してしまうようです。

 

もうじき闇が訪れる。不在の期間が訪れる。だから、そうなる前に、私を信じて歩きなさい……これもまた、私たちをつまずかせる言葉です。だって、一番イエス様に居てほしいとき、一番イエス様の言葉が聞きたいとき、辛く苦しい闇の中を歩いている私たちは、直接話を聞くことができないんですから。

 

いつでも目の前にいてくれる、直接手を貸し、助けてくれる関係こそ、完全な関係に思えます。しかし、イエス様は、自分が再び訪れること、やがて来たる神の国で、もう一度私と会えることを信じ、新しく歩み続けなさいと言われます。

 

ちょうど、一日の始めに幼稚園へ預けられた子どもたちが、一日の終わりに、再びお母さんとお父さんに迎えに来てもらえるように、「私がいなくても良い子でいてね」と言われるように、辛く苦しいことがあっても、必ずそれを受けとめて、抱きしめてくれる方がおられます。

 

時には、遊んでいる子と喧嘩したり、怪我をさせてしまったり、「そんなことをしていたら、迎えが来なくなっちゃうよ!」と叱られるような子もいるでしょう。やっちゃった、もう引っ込みがつかない、このまま迎えに来てもらえずに、家に入れないかもしれない……と目の前が真っ暗になるときもあります。

 

でも、その度に、離れ離れになる前に約束したこと、「また迎えに来るよ」「それまでみんなと仲良くしてね」と言われたことを思い出し、傷つけた子に「ごめんね」という力が与えられます。「さっきはごめん、また遊んでくれる?」……目の前にいない、愛する人との約束が、子どもたちに新しい関係をもたらします。

 

栄光を受けたイエス様も、人々の目に見えなくなる前、大事なことを言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」……何度も背いてきた私に、何度も失敗したあなたに、イエス様は変わらず期待して、愛をもって命じます。「わたしはあなたを遣わす」と……だから、光の子として歩みなさい。

 


『そんなの栄光じゃない!』ヨハネによる福音書12:27〜36