ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『期待していないのに』 ヨハネによる福音書1:35〜51

2020年1月19日 礼拝メッセージ

 

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【弟子入りした人】

 教会に来ている人たちが、どうして洗礼を受けたのか? 講壇で話をしている私が、どうして牧師になったのか?……気になる人もいますよね。

 

 神様を信じて洗礼を受けた人、信仰を告白した人、自分の生き方を神様にささげようと決心した人のことを、教会ではクリスチャン、キリスト者、証し人というふうに呼んでいます。

 

 ようするに、イエス様の教えを信じて、イエス様の生き方にならって、神様のことを伝えていく、キリストの弟子という意味です。

 

 私はキリストの弟子としてここにいます。もちろん、それぞれの教会で信仰を告白した人も、キリストの弟子として教会を支え、隣人に仕え、神様を宣べ伝える人たちです。

 

 そう、私たちはイエス様に弟子入りした人です。2000年前に誕生し、十字架につけられ、復活したと言われながら、天に昇って見えなくなった、非常に怪しげな師匠に従う弟子たちです。

 

 「何でそんなところに弟子入りしたの?」って、当然色んな人から聞かれるでしょう。どうして教会へ行くの? なぜクリスチャンになったの? 何で牧師になったの?

 

 上手く答えられた人、あるいは、きちんと答えてもらえた人って、いったいどれだけいるでしょう? 私は今まで先輩の牧師たちに「あなたはどうして牧師になったんですか?」と事あるごとに聞いてきました。

 

 でも、「気がついたらこうなっていた」「いやぁ〜何でだろう……」と上手く答えられない人、はぐらかしてくる人が大半でした。自分はどうかと聞かれたら、私もそうです。

 

 何で牧師になったのか、何で洗礼を受けたのか、なぜキリストの弟子になったのか、上手く答えられません。「神の導き」という便利な言葉を使ってしまえば、それまでです。

 

 でも、今日はもう少し赤裸々に話しましょう。今まではぐらかしてきたことも語りましょう。

 

 私がどれだけ牧師にふさわしくないか、どれだけクリスチャンとして欠けているか、そんな私がキリストの弟子にされるまで、いったい何があったのか……不都合な事実、あまり話したくない過去も含めて告白します。

 

【どうして牧師に?】

 私が洗礼を受けたのは、中学一年生のとき。もう17年前になります。洗礼を受けたきっかけは、双子の弟が「洗礼を受けたい」と父に言い出したからでした。

 

 多くの人がご存知のとおり、私の父は牧師です。母も同じ神学部で父と出会ったクリスチャン。お腹にいるときから教会で育てられてきました。

 

 神様の存在は「当たり前」と言えば当たり前でしたが、納得いかないこともけっこうありました。日曜日、どうして遊ぶのを我慢して礼拝に出なきゃならないのか?

 

 貴重なお小遣いを、なぜ教会学校の礼拝と主日礼拝の献金で毎週出さなきゃいけないのか? クリスチャンの集まりなのに、どうしてこれだけ揉め事や諍いが起きるのか?

 

 正直、実家を離れて大人になったら、教会から一旦離れようと思っていました。教会で働く父がうつ病になり、母も苦労する様子を見て、いよいよその思いは強くなっていました。

 

 ところが、そんなときに弟が「洗礼を受けたい」と言いだすわけです。「おいおい、今受けちゃったら逃げられないじゃん……」心の中でそう呟きました。

 

 弟は昔から、「大きくなったら牧師になりたい」と言っていました。対する私は、「牧師になんてなるものか」と思っていました。

 

 それどころか、本当は洗礼を受けるのも嫌だったんです。告白すると、そのままのらりくらりと躱して大学まで行き、自然に教会から離れる予定でした。それが私の計画でした。

 

 けれども、弟が洗礼を受けるとなれば、家族の中で信徒じゃないのは私だけ。しかも、牧師の息子の片割れが「洗礼を受けたい」と言いだせば、当然、「兄貴の方は?」となるでしょう。

 

 これはもう躱せません。洗礼を希望する弟に喜んでいる両親の前で、「あなたは?」と覗き込んでくるみんなの前で、「いや僕はちょっと……」と言いだす勇気はありませんでした。

 

 もう一つ、非常に現金な話をすれば、お小遣いの問題がありました。華陽教会もそうですが、私が洗礼を受けた教会も、毎週の礼拝献金とは別に、月ごとに自分で定めた分をささげる月定献金がありました。

 

 中学生になったところでしたし、これからクリスチャンとして教会を支えていくために、その分お小遣いも増やされるだろうと思いました。

 

 でも、洗礼を受けなかったら、ちょっとややこしいことになりそうです。弟と私でお小遣いの量が変わるのか?

 

  う〜ん、それは何か嫌だ……何とも俗っぽい話ですが、当時の私はそんな理由で、しぶしぶ「僕も洗礼を受けたい」と言い出したわけです。聞く人が聞けば、そうとうけしからん話でしょう。

 

 イエス様に従った報いに何をもらえるか、どんな地位を得られるか、いつも気にしていた弟子たちの姿を笑えません。

 

 洗礼を受けると言い出した私に、どれだけ信仰心があったのか、今でも疑問です。私は「キリストの弟子になりたい」とは思っていませんでした。信仰を持って生きることに、何かを期待していたわけじゃありませんでした。

 

 ただ、弟に連れられるようにして洗礼を受け、半ば道連れのように、教会生活を始めたんです。

 

【連れて行かれた者】

 連れて行かれ、引いて行かれ、道連れにされた者……そう、イエス様の最初の弟子たちも、みんながみんな、自分からイエス様の元へ行って、自分から従っていったわけじゃありません。

 

 今日呼んだ聖書箇所に登場する弟子たちで、最も有名な人物と言えばペトロでしょう。弟子たちの中心的存在……けれども彼は、自分からイエス様に従ったわけじゃなく、彼の兄弟アンデレに連れて行かれて、イエス様と出会った人間です。

 

 ヨハネによる福音書をよく見てみたら、最初にイエス様に従ったのは彼の兄弟アンデレで、ペトロはその後、アンデレに連れて行かれてイエス様と出会います。

 

 そこで彼は、イエス様から「ケファ(岩)」という呼び名を与えられますが、何の応答もしていません。イエス様のことを「メシア(油注がれた者)」いわゆる救い主だと主張しているアンデレにも、同意の言葉を返しません。

 

 実は、ルカによる福音書でも、ペトロはイエス様に出会った当初、この方に何の期待もしていません。イエス様から、夜通し魚が獲れなかった湖で「網を降ろしなさい」と言われたとき、「まさか採れるわけないだろう」と思っていました。

 

 けれども、イエス様の言ったとおり網を降ろすと大量の魚がかかり、彼は怖くなって「主よ、わたしから離れてください」と言い出します。

 

 ヨハネによる福音書で後から出てきたナタナエルも、自分からイエス様に従った人間じゃありません。

 

 彼も、先にイエス様と出会ったフィリポから「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言われ、疑いをもって呟きます。

 

 「ナザレから何か良いものが出るだろうか」……あんな田舎から救い主が出るものか、訛りもひどくて、教養もなくて、貧しい人たちばかりじゃないか。

 

 けれども、「来て、見なさい」と言うフィリポに促され、彼はしぶしぶイエス様と出会います。すると、イエス様はナタナエルがどんな人間かを言い当てるんです。

 

 「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」

 

 嘘偽りなく生きようとする、聖書の教えを忠実に守ろうとする、日頃の姿勢を言い当てられ、彼はびっくりするんです。私はこの人に何の期待もしていなかったのに、私が一番知ってほしいことを言い当てた。

 

 マタイによる福音書やマルコによる福音書でも、弟子たちは自分からイエス様へ会いに行ったわけではなく、イエス様の方から「わたしに従いなさい」と言われて、ついていった者たちです。

 

 実は、それに対し「はい、弟子になります!」と答えた人は出てきません。正直、何でこの人たちがあっさりついていったのか分からない不思議な話になっています。

 

 普通、誰かの弟子になる、誰かに弟子入りすると聞けば、「師匠、私を弟子にしてください!」と駆け込んでくるイメージでしょう。しかし、イエス様の弟子たちは、みんな自分からイエス様に従ったわけじゃありません。

 

 最初は期待していなかった、弟子になるつもりのなかった人たちが、イエス様の方から呼びかけられ、別の誰かに連れられて、想像もしなかった人生を歩む者へとなっていきます。 

 

【復活したときも】

 「期待していない」と言えば、イエス様が復活するときもそうでした。弟子たちは再三、イエス様が死んだあと三日後に復活すると言われていたにもかかわらず、誰もそのことを期待してはいませんでした。みんな、墓に入ったイエス様は、もう現れるはずがないと思っていました。

 

 エマオの途上で、死んだはずのイエス様と出会った2人の弟子も、本人と気づかず、同じ宿屋に泊まりました。

 

 最初の弟子たちが、イエス様の泊まるところを聞いて、その場所へ自分たちも泊まったように……彼らは会えるなんて期待していなかったイエス様と出会い、後から「わたしたちは主を見た」と気づきます。

 

 また、最初に復活したイエス様と遭遇したマグダラのマリアも、他の人たちへこう言います。「わたしは主を見ました」……これに対して、反応した弟子は一人もいません。全員沈黙しています。

 

 「わたしたちはメシアに出会った」というアンデレに、何の反応も返さなかったペトロのことを思い出します。

 

 また、そのあと弟子たちも、戸に鍵をかけた家の中で、復活したイエス様と出会います。けれども、トマスだけがそこにいませんでした。

 

 後から「わたしたちは主を見た」と言われたトマスも、疑いの目で呟きます。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」

 

 その後、自分の前にも現れたイエス様に対し、トマスはこう告白しました。「わたしの主、わたしの神よ」

 

 「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていたナタナエルが、自分のことを言い当てられ、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」とイエス様に答えたことが思い出されます。

 

 そう、弟子たちとイエス様の最初の出会いは、弟子たちと復活したイエス様の出会いと重なってきます。

 

 自分から従うことのできなかった、信じることのできなかった者たちが、信じて従う者にされていく、新しい生き方ができるようになっていく、そんな出来事を聖書は繰り返し書いている。

 

 私自身も、洗礼を受けたときは何も分かっていませんでした。信仰生活の喜びなんて、特に期待していませんでした。

 

 しかし、脳梗塞の後遺症で、毎週震えながら、みんなの手を借りて、礼拝堂の一番前までやってくるおばあちゃんが、「私は本当に幸せだよ」という姿を見て、その言葉を嘘と思えなかったのが、信仰生活に喜びを感じ始めたときでした。

 

 彼女の体は治らなかったし、震えは止まりませんでした。日を追うごとに、どんどん動きはゆっくりになっていきました。

 

 それなのに、やせ我慢でも見栄でもなく、「神様に生かされて幸せだ」というメッセージを私に語り続けたんです。たぶん、本人はそんな意図なかったと思いますが。

 

 弟に引っ張られて洗礼を受けた私は、みんなの手を借りて礼拝堂へやってくるおばあちゃんに連れられて、イエス様の道を歩き始めました。

 

 小説家の道を歩みたかったのに、やっぱり牧師になろうと決心したのは、常に神様から離れようとする私自身を、誰かが繋ぎ止め、語りかけ、呼びかけてくれたからでした。

 

 これまで、私が多くの人にとりなされ、多くの人の証を受けてきたように、今度は自分も誰かをとりなし、誰かに証ししていこう……それが、今の私であり、私と同じくキリストの弟子となった信仰者の皆さんです。

 

 おそらく、これからもかつて私が信仰生活に何の期待も持てなかったように、「何でキリストに弟子入りするの?」と疑問を持つ人が出てくるでしょう。

 

 そのときこそ、私たちは彼や彼女の手を取って、こう言うんです。「来て、見なさい」……あなたのことを知っている主に、あなたを新しくする主に、今、出会えますように。