ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『祈りのリテラシー(1)誰かを傷つける祈り』 ルカによる福音書18:9〜14

聖書研究祈祷会 2020年9月23日


『祈りのリテラシー① 誰かを傷つける祈り』聖書研究祈祷会 2020年9月23日

 

 

案 内

華陽教会ではこれまで、『信徒の友』の聖書日課に沿って、水曜日の聖書研究をしていましたが、先日の役員会にて、今週からしばらくの間、『祈りのリテラシー』をテーマに、聖書朗読とメッセージを行うことになりました。引き続き、この時が豊かに用いられるよう、お祈りください。

 

讃美歌

それではただいまより、聖書研究祈祷会を始めます。最初に、讃美歌21の43-3番「主よ、おいでください」を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、久しぶりに教会で会えた人や声を聞くことができた人、病から回復してきた人との再会を感謝致します。どうか今、引き続き、苦しみや困難を抱えている人が癒され、互いのつながりも回復することができますように導いてください。

◆私たちの神様、例年と同じようにはできませんが、今年も幼稚園の運動会が開かれます。一生懸命練習している子どもたち、安全のために様々な対策をしている先生がた、そして保護者の方々に、あなたのお支えと恵みが豊かにありますように。

◆私たちの神様、様々な事件、事故、災害の被害者に、あなたの慈しみがありますように。被害者が差別され、利用され、貶められることのないように、適切な保障と償いが受けられるように、問題が繰り返されることのないように、どうぞ導いてください。

◆私たちの傍におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書18:9〜14(新共同訳より抜粋)

 

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

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congerdesignによるPixabayからの画像

メッセージ

祈り方が分からない

聖書研究祈祷会に初めて参加する人が、最もドキドキする瞬間は、一人一人が順番にお祈りしていくときでしょう。華陽教会では、水曜日の1時半から賛美を歌い、聖書を読んで、メッセージを分かち合った後、一人一人が自分のこと、身内のこと、教会や社会のことを覚えて、一言ずつ祈っていく時間があります。(*今は感染対策のため省略しています)

 

もちろん、初めてで緊張する人や祈り方が分からない人、事情があって、今は祈りを口に出せない……という人は、隣の人へパスして、無理に祈らなくていいようになっています。しかし、しばらく礼拝や聖書研究祈祷会に参加して「もうそろそろ、自分も祈りたい」「祈れるようになりたい」と思ったとき、なかなか一歩が踏み出せないかもしれません。

 

あるいは、前はよく祈っていたけれど、あるとき、牧師や教会の人から「そんな祈り方じゃダメ」と注意され、怒られてしまった、という経験のある方もいるでしょう。また良くないお祈りをしてしまうかもしれない、誰かに注意されてしまうかもしれない、お祈りで信仰的な評価が決まるかもしれない……そんなふうに恐れて、祈れなくなってしまう。

 

実は、祈り方を一から習った人なんて、ほとんどいないですよね? みんな周りの人の真似をして、何となく祈るようになって、あるとき突然、「そんな祈りはいけません」とか「そのお祈りはまずいです」と言われてしまう。これってなかなか不幸です。礼拝の司式や集会の始まりで、お祈りをお願いしたとき、多くの人が渋ってしまうのも納得です。

 

だって、どう祈ったらいいかなんて、まともに聞いていませんから。牧師も教えていませんから。「初めての人はこれを参考にしてね」と小さな紙切れ一枚渡されても、それから自由にみんなの前で祈れるわけじゃありません。色んな方の話を聞いて、ちょっと私も反省しつつ、皆さんともう一度、祈るってどういう行為なのか一緒に学びたいと思います。

 

誰かをさらしている祈り

最初に、今日読んだ聖書箇所を見てみましょう。有名なファリサイ派の人と徴税人の祈りです。前者はイエス様から批判された祈り、後者はイエス様から認められた祈り……もうこれだけでドキドキしますよね? 私の祈りはどっちだろう? 私もファリサイ派の祈りと言われちゃったらどうしよう?

 

まず、ファリサイ派の人はこう祈ります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」……いくら「心の中で祈った」と言われても、このお祈りは失礼ですよね?

 

隣にいる人と自分を比べて「自分はこの人みたいにならなくて良かったです」という祈り。あからさまに色んな人を見下す祈り。こんな祈り、さすがに口には出せません。明らかに周りの人が不快になります。たとえそこに、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者がいなくても、隣に徴税人がいなくても、傷つく人が出てきます。

 

なぜなら、かつて奪ってしまった人、身内が不正を犯した人、友人が徴税人な人も、見えないだけでいるからです。そして、自分もそのようになりかねない、自分も奪う者、不正な者、徴税人のようになる日が来るかもしれない。自分だって、愚かで、弱くて、情けない人間なんだ……ということを棚に上げている祈り。

 

「いやいや先生、さすがにここまであからさまな人はいないでしょう? こんな祈り、教会で聞いたことないですよ」と言う人もいるでしょう。確かに、ファリサイ派の人が心の中で祈ったほど、あからさまに周りを貶める祈りはなかなか聞きません。しかし、あまり言いふらされたくない内容を、祈りの中で無遠慮に出され、悩まされる人もいます。

 

「Aさんに昨日こんなことがありました」「BさんがCさんに、こんなことをされました」「Dさんが一昨日、事故を起こしてしまいました」「Eさんのこんな悩みを解決してください」……みんなに知らせていいか本人に確認できないまま、お祈りの中で言ってしまい、誰かを傷つけてしまう。私もそういう失敗をしてしまうことがあります。

 

各教会では日曜日の礼拝後、報告やアナウンスで、教会員の消息や病状などを会衆に伝えることがあります。そのほとんどは「この教会の中でなら、皆さんに伝えていいですよ」と本人が了承しているものです。また、祈祷会の中で出てくる個人の消息も「祈祷会の中でなら共有していい」というつもりの人がほとんどで、外に出されると「そんなつもりじゃなかった」という人が出てきます。

 

個々人のことを祈るときには、「自分も祈っている人と同じ状況になり得るんだ」ということをよくよく覚えて、「ここでは、あの人のことを祈っても大丈夫だな」「ここでは、あの人のことを言っても傷つける結果にならないな」と確認しながら、祈りを合わせることが大切です。

 

回復を求めない祈り

さて、少し脱線しましたが、ファリサイ派の祈りに注目したとき、中にはこう考えた人もいるかもしれません。確かに人を傷つける、貶めるような祈りは良くないけれど、盗みや不正や姦通など、悪事を告発する祈りも大切じゃないか? 旧約に出てくる人たちだって、神様に向かって不正を訴える祈りをいっぱいしてきたじゃないか? 

 

そのとおりだと思います。お祈りって、ひたすら感謝することでも、綺麗事を並べることでもありません。理不尽なこと、不条理なことを神に訴え、裁きと回復を求める鋭い祈りも、れっきとしたキリスト者の使命です。ただし、気をつけなければならないのは、それらの告発・訴えが、過ちを正し、傷ついた人の癒しを求める内容から離れたときです。

 

ファリサイ派の人の祈りには、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者という悪事に身を委ねた人たちが出てきます。しかし、これらの人が正されること、正しく裁かれることを求める言葉は出てきません。また、奪い取られ、不正に苦しみ、姦通の被害者となった人が癒される期待も出てきません。

 

この祈りは、自分が嫌悪する相手、見下している人たちをさらし、攻撃する方向へのみ向いています。もちろん、悪事を犯した人のために祈れない、という人もいるでしょう。彼らのせいで傷ついて、今なお自分は苦しんでいるのに、その人のために祈るなんてとてもできない……私はそれでいいと思っています。

 

むしろ、そのときこそ、彼らに貶められた自分のため、傷つけられた被害者のため、癒しと回復を祈ればいいと思います。問題は、悪事が正されることも、傷つけられた自分や被害者が癒されることも求めないで、相手が非難されるよう、相手が攻撃されるよう、たださらすだけの祈りです。

 

一方、イエス様が認めた徴税人の方は、どう祈ったんでしょうか? 「神様、罪人のわたしを憐んでください」……たった一言の祈りです。それも、罪を犯した自分を憐んでくれという、罪を犯された側からしたら、至極身勝手な願いです。けれども、一見批判されそうなこの祈りを、イエス様は義とされる帰り道に至るものとおっしゃいます。

 

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」……最後に締めくくられるこの言葉は、私たちが誰かのために祈るとき、また自分のために祈るとき、そこに「回復」を求める心があるかどうかを問うてきます。

 

「正しい祈り」なんて、特にあるわけじゃありません。ただ、祈りが誰かを貶める、誰かを非難するだけの道具に成り下がるとき、私たちは神の国へ帰る道を見失います。どんなに稚拙でも、たった一言でも、「神様、私を助けてください」「この人を正してください」という願いがあるのなら、イエス様はその人を義と認められます。

 

『祈りのリテラシー』第一回目は、「誰かを傷つける祈り」について話しました。次回は、イエス様が教えた「祈りの基本」「主の祈り」について、一緒に学びたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(広島県広島市の広島西部教会)のために、沖縄の住人と教会のために、在日大韓基督教会とフィリピン合同教会のために、香港の教会と若者のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆広島県広島市の広島西部教会のために祈ります。教会に関わる全ての人の健康と平安が守られ、めぐみ幼稚園の働きが豊かにされ、牧師の教誨師・保護司の働きが守られ、広島ハンドベルリンガーズの働きが祝福されますように。

◆沖縄の住人と教会のために祈ります。戦中・戦後から続く問題に悩まされている人に、あなたの慰めがありますように。一人一人の声が大事にされ、最も誠実な形で問題が解決されますように。そして、対立から和解へと共に至ることができますように。

◆在日大韓基督教会とフィリピン合同教会のために祈ります。岐阜教会と大垣教会、美濃加茂グループと安城グループの教会に、それぞれあなたの祝福とお支えがありますように。信徒一人一人の日常と信仰生活が守られますように。

◆香港の教会と若者のために祈ります。平和的な抗議活動が実を結ぶように、破壊的な行為から守られるように、対立している仲間同士が理解を深め合えるように、一人一人と教会の間を導いてください。また、日本も同様に助けてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。それでは、また日曜日まで、皆さん一人一人に主の平和がありますように。