ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『死んだけど眠っている』 ヨハネによる福音書11:1〜15

召天者記念礼拝 2020年11月1日


『死んだけど眠っている』召天者記念礼拝 2020年11月1日

 

案 内

本日から、30分に短縮していた礼拝を45分まで緩和して、礼拝の中で3度、最初の讃美歌と、交読詩編と、メッセージ後の讃美歌の間、会堂の窓を開放し、換気の時間を作ります。どうぞその際、礼拝堂の後ろにいる方、教会員の方は、窓の開閉にご協力ください。

 

また、本日はキリスト教会で「聖徒の日」と定められている記念日です。先に召された方々も、天において一緒に礼拝していることを思い起こすため、皆さんと写真を囲んでいます。やがて来たる神の国で、再会する日を待ちながら、共に神の言葉を味わいましょう。

 

招 詞

主をたたえよ/日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神/主、死から解き放つ神。(詩編68:20〜21)

 

讃美歌

会堂の窓を開放しましょう。マスクをしたままで(旧讃美歌)521番「イェスよ 心に宿りて」の1、4節を歌います。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。(*起立のジェスチャー)

 

お祈り

(*着席のジェスチャー)共に祈りを合わせましょう。

 

◆復活と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まれたことを感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたに心を向けている人を祝福してください。

◆私たちの神様、今日は召天者記念礼拝です。先に召された方々も、天において、地上にいる私たちと一緒に礼拝しています。どうか今、そのことを思い出し、見えない人とのつながりを確かなものとしてください。

◆私たちの神様、あなたは死の隔たりをものともせず、その声を届かせてしまいます。起こせないはずの者を起こし、振り向かないはずの者を振り向かせます。どうか今、あなたのもたらす復活の希望が、一人一人に届きますように。

◆私たちの神様、ここに来ることを願いながら、来られなかった人がいます。コロナのため、治療のため、家庭のため、仕事のため、また学校のためなど、様々な事情を抱えています。どうか今、その人たちに必要な言葉が、あなたから与えられますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書11:1〜15(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

交読文

会堂の窓を開放して、詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編90:1〜15。

(*起立のジェスチャー)

(*新来者が来られたとき)讃美歌21の後ろの方をお開きください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、会衆の方は、一段下がったところと太字のところをお読みください。(新共同訳交読詩編より)

 

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Patty JansenによるPixabayからの画像

メッセージ

居合わせなかった人

2020年5月11日、身内でさえほとんど集まれない葬儀が、華陽教会で行われました。ちょうど新型コロナウイルスが流行し、全国に緊急事態宣言が出され、市内の葬儀会場でも、10人以上集まることを控えるように要請されているときでした。亡くなったのは前日の日曜日、臨終の祈りには、私も間に合いませんでした。

 

大切な人の死に目に会えなかった、お世話になった人の葬儀に行けなかった、隣人がこの世を去る前に居合わせられなかった……今年は特に、そういう人が多かったと思います。亡くなる前に、できることをしてあげたかった。あのときこうすれば、もう少し生きられたかもしれない……そんな無念を覚える人もいるでしょう。

 

一部の家族と数人だけで、その人の葬儀を行ったとき、私も「自粛期間中じゃなければ、家族や教会の人と集まって、みんなで見送ることができたんじゃないか?」……そんな思いを抱えていました。なぜ神様は、みんなが来られるように、みんなで見送れるように、早くコロナを収束させてくれなかったんだろう?

 

実は、私の親戚、私の身内も、この期間に数人亡くなりましたが、葬儀に行くことはできませんでした。コロナの収束が間に合わなかった。全国の教会で、多くの信仰者が神に祈り、イエス様に願っていたのに……「どうか主よ、早くこの状況から助けてください。あなたの愛している者が病気なんです。いつ亡くなってもおかしくないんです」

 

しかし、それらの祈りもむなしく、今も完全に収束する気配は見えません。中には、コロナの影響で通院が難しくなった人、治療が遅れてしまった人もいるでしょう。「神様、早く治してください」「どうかすぐ癒してください」……そうやって必死に願ったのに、間に合わず、親しい人が亡くなった、満足に見送れなかった人がいる。

 

先ほど読んだ聖書に出てきた、マルタとマリアもその一人でした。2人には病気の兄弟ラザロがいました。深刻な病だったんでしょう。イエス様に使いをやってこう言います。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」……もうこれだけで「すぐ来てください」「今すぐに!」という気持ちが伝わってきます。

 

しかし、この知らせが届いたとき、既にラザロは亡くなっていました。どうやら彼を癒すには、もう遅かったみたいです。何なら2日前に葬儀も終わり、ラザロは墓の中でした。にもかかわらず、さらに2日経ってから、イエス様はこう言い始めます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」

 

分かり切っていることですが、亡くなった人、永眠した人は起こせません。弟子たちは戸惑いながらこう返します。「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」……あくまで眠っているならば……ちょっと皮肉な言い方にも聞こえます。しかし、イエス様はハッキリ言いました。

 

「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」……どういうことでしょう? 愛している人が亡くなった。その人を癒すのが間に合わなかった。それなのに、自分がそこに居合わせなかったことを「よかった」と口にするメンタル……ちょっと理解ができません。

 

すぐ来てくれない方

愛している人が死にかけていれば、普通急いで駆けつけるのに、イエス様はそうしない。自分を呼んだ家族を慰めるため、少しでも急ごうとする、そんな気配が見られない。むしろ、病気と聞いてから2日間、ラザロが死んでから4日間、イエス様は来なかった。

 

使いをやって、イエス様を呼んでいた2人は、きっと恨めしかったでしょう。すぐ来てほしいのに来てくれない。癒してほしいのに現れない。体が冷たくなる前なら、蘇生できるかもしれないのに、イエス様は訪れない。重い墓石が閉ざされれば、もはや何の期待もできません。

 

実は、このときだけじゃありません。他の福音書で、ヤイロの娘が死にかけているときも、同様にグズグズした結果、イエス様は間に合わなかった。12歳の少女が死にそうだというのに、助けに行く途中、「わたしの服に触れたのは誰か?」と急に騒ぎ始めたから。

 

そんなの後でいいでしょう? 早く死にそうな少女のもとへ駆けつけて!……多くの人がそう思った。だけど結局、少女は亡くなってしまいました。悲しい知らせが入ります。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」

 

それなのに、イエス様は焦りもしないで言うんです。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」……そうして、明らかに手遅れの少女を起こしに行く。あの時と同じように、イエス様はまた言います。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」

 

先生、もう手遅れです。今さら彼のところへ行っても間に合いません。ラザロが病気だと聞いたとき、なぜすぐ行かなかったんですか? 現場に着いてからも、ラザロの家族や友人たちは、こう言わずにはいられません。

 

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」……本当になぜでしょう? どうして今になって、誰も「来てほしい」と言わなくなってから現れるんでしょう? なぜあのとき、イエス様は居てくれなかったんでしょう?

 

その理由をイエス様はこう話しています。あなたがたが信じるようになるためである。また、周りにいる群衆のためである……いったい弟子たちに、群衆に、何を信じさせたいのか? もちろん、奇跡を見せて、自分が神の子と信じさせるためでしょう。その割に、ラザロが亡くなった直後、人が最も集まっているときには訪れません。

 

むしろ、葬儀が終わり、墓に埋葬されてから、ようやくラザロの家を訪れて、再びおかしなことを口走る。「あなたの兄弟は復活する」……いやいや先生、4日も経っていますから、もう匂います。さすがにあなたが手を置いても、彼が癒されることはありません。もう手遅れなんです。

 

そう、来てほしいときに来てくれなければ、癒してほしいときに癒されなければ、もう手遅れ、もう終わり、もう会えることはありません。ここから神に願っても、この現状は覆らない、呼びかけたって返事はない。私の祈りは聞かれなかった。私も彼も、そんなに愛されていなかった……。

 

ところが、そう思っている人たちに、イエス様は答えます。「信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」……あのとき来てくれなかったから、あのとき癒してくれなかったから、この人はもう救われない、私の祈りは聞かれない……そうやってうなだれている人のもとへ、イエス様は、まだ終わっていないと語ります。

 

「さあ、彼のところへ行こう」……あのとき私に会えなかった、あのとき私に癒されなかった、この人は見捨てられてはいない。死んでから4日経ち、腐敗した匂いが漂ってきても、みんなが近づかなくなっても、イエス様はかまわずやって来る。誰も信じなくなったことを実現しに。

 

起きない者を起こす

墓の前に到着すると、イエス様は大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」……死ぬ前でさえ、病人の彼は、その言葉に従えませんでした。誰かに呼ばれても起きること、出てくることはできなかった。

 

しかし、彼の体が冷たくなり、誰一人起こすことも、呼びかけることもしなくなったとき、イエス様の「出て来なさい」という呼びかけは、答えるはずのない、従えるはずのない彼を起こし、みんなの前へ出て行かせます。もはや、その人が帰って来ることを期待できなくなった人のところへ、回復された兄弟の姿を見せるんです。

 

私たちが「来てほしい」「癒してほしい」と思ったときに、回復されなかったあの姉妹、兄弟たちが、みんなのもとに帰って来る。その日が来ると信じなさい。病院から出て来て家に帰ること、外に出て礼拝へ来ることもできなかったあの人が、イエス様に呼ばれて、起こされる日がやってくると。

 

ラザロの復活について聞いた人は、イエス様と同じ時代に居合わせた、彼とその姉妹を羨む人が多いでしょう。でも、イエス様がこの出来事を起こされたのは、まさにあなたのためなんです。「来てほしい」と願ったときに、イエス様が居合わせなかったあなたこそ、良い知らせを受け取るように言われている。

 

「あなたの兄弟は復活する」……幸運なマルタとマリアは、兄弟ラザロを生き返らせてもらえましたが、その彼は、やがてもう一度死んでいきます。生き返っても、また別れることになる。しかし、イエス様がもたらす命は、その場しのぎの、一時的な希望じゃありません。将来、再び家族を亡くす2人に対し、イエス様は言いました。

 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」……そう、死んだのではない、眠っているのだ。私が今日、墓の前で彼の手を取って起こすように、もはや永遠の眠りは来ない。終わりの日に、神の国が来たる日に、私が手を取って起こすから。あなたの兄弟、あなたの姉妹、あなたの命は、そこから二度と朽ち果てない。

 

本来、二度と目を覚さないはずの者に、イエス様は永遠の命を与えます。「起きなさい」「出て来なさい」と言われる日に、あなたもあなたの兄弟も、目を覚まして起こされます。この方に起こせない人はいないんです。誰もこの方を止められません。「もう来なくていいんです……」そう打ちひしがれている人の家へ、イエス様はかまわずやって来る。あなたの絶望を取り去るために。

 

だから、思い出しましょう。いつかまた、共に起こされるあの人を、あの人が見えない神と歩んだ日々を、私たちが、彼らに教えられた道を、今、思い起こしましょう。

 

讃美歌

会堂の窓を開放しましょう。マスクをしたままで、(讃美歌21)385番「花彩る春を」の1、4節を歌います。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。(*起立のジェスチャー)

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。

 

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

紹 介

本日、初めて来られた方で、ご了承いただいた方のみ、案内した方と一緒にお立ちください。ようこそいらっしゃいました、神様の平和が皆さんと共にありますように(拍手)。配信に乗らないように、お名前は後ほど紹介させていただきます。

 

とりなし

本日、ここに招かれた人たちで、とりなしの務めを果たしましょう。お手元にあるとりなしの祈りの用紙をご覧ください(持っていない方がおられたら、近くの方と一緒にご覧ください)。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです(*起立のジェスチャー)……主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『離れているけれど』(©柳本和良)を歌います。マスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

(*起立のジェスチャー)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。(ヘブライ人への手紙13:20〜21)