ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『聖霊を感じられますか?』 ヨハネによる福音書7:37〜39、ガラテヤの信徒への手紙4:6

聖書研究祈祷会 2021年6月16日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、会堂に集まる集会を休止し、配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の348番「神の息よ」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて在宅聖研祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要とする人を導いてください。

◆私たちの神様。先週は、子どもたちの成長に感謝し、あなたの祝福を求める「子ども祝福式」を花の日子どもの日の礼拝として行うことができました。どうか今、直接教会で会えない子どもたちにも、あなたの愛と恵みが豊かに注がれますように。

◆私たちの神様。岐阜県の病床使用率は今もステージ3に留まっていますが、ワクチン接種が少しずつ進んでいることを受け、7月から小規模礼拝と聖書研究祈祷会を再開しますどうか今、再び集まる一人一人の健康と安全が守られますように。

◆私たちの神様。来週から、感染症対策を徹底した上で、礼拝のライブ配信後、配信を見られない方や一人暮らしの方への訪問礼拝を開始します。どうか今、コロナ禍で最も孤立していた人たちに、あなたの希望と喜びが豊かにもたらされますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書7:37〜39、ガラテヤの信徒への手紙4:6(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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メッセージ

聖霊を感じられますか?……タイトルにつけたこの手の問いかけは、私をしばしばドキッとさせます。「洗礼を受けてから聖霊を感じたことがないんです」「どれだけ祈っても聖霊が降りて来ないんです」「先生は聖霊を感じられますか?」「先生は聖霊を受けていますか?」「どうしたら聖霊を受けることができますか?」

 

聖書には、聖霊を受けた人が激しい風や音を感じたり、特別な力が湧いてきたり、預言する状態になったことが書かれています。現代でも、「聖霊を受けた」という人たちから、ビリビリとした衝撃を感じたり、涙が止まらなくなったり、笑いが止まらなくなった話を聞くことがあります。でも、多くの人はそういう体験がありません。

 

正直、「聖霊が来た!」とはっきり分かった体験は、私にもありません。今でも「聖霊を感じる!」という瞬間はそうそう来ません。もしかしたら、あのとき力づけられたのは、あのとき勇気が出てきたのは、聖霊の働きだったのか……と思うことはあっても、誰かに向かって「聖霊に満たされました!」と自信を持って言えたことはありません。

 

以前、三位一体の「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」を「見えない神」「見える神」「感じる神」と表現している神父の話をしたことがあります。聖霊は「感じる神」……でも、どうしたら感じられるのか、聖霊を受けたらどんな感じがするのか、やっぱり私たちには分かりません。

 

そして、ある人が聖霊に満たされたと聞くと、ある人に聖霊が降りてきたと聞くと、未だそういう体験をしていない自分が、いつまでも、信仰的に成熟してない気分になる。自分の信仰が薄いから、自分の祈りが弱いから、聖霊が降りて来ないと思ってしまう。聖霊を感じなければ、不信仰だと考えてしまう。

 

厄介ですよね。聖書には「聖霊を受けなさい」と書かれている。でも、聖霊を受けた確信は、なかなか得られない。他にも、聖霊を受けたら「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」などの実を結ぶと書かれていますが、これらを体現している信徒って、「聖霊を受けた」と言っている人の中でも少ないでしょう。

 

なにせ、聖霊を受けた弟子たちでさえ、「寛容」とは言い難い言葉を残していたり、「柔和」とは言い難い対立をしています。聖霊を受ける前の話ではありません。怒りに満ちた手紙を書く弟子、宣教の途中で喧嘩別れになった仲間、神の霊で満たされたのに間違いを犯してきた王や預言者……

 

逆に、キリスト者ではないけれど、愛と平和の実を結んでいる人も時々います。寛容で、親切で、善意に満ちた誠実な人……周りに「聖霊が降りた」なんて言わないけれど、本人も「聖霊に満たされた」とは思ってないけど、そういう生き方をしている人……聖霊を感じても、その実を結ばない人、聖霊を感じないけど、その実を結んでいる人……世の中すっきりしませんね。

 

私たちは聖霊を受けたいと願うとき、何か特別なエネルギーが入ってくる、降りてくる、注がれる感覚を期待します。感情が溢れ、体が熱くなり、知らない言葉が出てくるような、特別な瞬間、特別な体験を欲します。でも、「聖霊を受けなさい」「聖霊を求めなさい」というキリストの言葉は、普段と違う刺激や感覚を求めなさいという意味ではないんです。

 

むしろ、生き方が変えられていく人格的な神とのつながりを求めなさい……という話です。ガラテヤの信徒への手紙には、聖霊の働きについて、こんな言葉が残されています。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」

 

「アッバ」というのは、子どもがお父さんに向かって、「父ちゃん」と話しかけるような呼びかけです。「父上」とか「お父様」とか、改まった呼び方ではありません。怖いとき、傷ついたとき、腹が立ったとき、思わず「父ちゃん!」と叫んでしまう。嬉しいとき、驚いたとき、喜んだとき、思わず「パパ!」と抱きついてしまう。

 

聖霊を受けると、そんなふうに神様へ向かう心が与えられる……皆さんも振り返ってみましょう。大きな困難を前にして、心底苦しくなったとき、イエス様がゲッセマネで「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」と祈ったように、あなたも神様に向かって「何とかして」と叫ばなかったでしょうか?

 

どれだけ祈っても、何も起こらないことに憤慨して、「父ちゃん、どうして答えてくれないの?」と怒らなかったでしょうか? 「聖霊を送ってよ」「私に振り向いてよ」「何か答えてよ」と叫ばなかったでしょうか? その心が与えられているのは、既にあなたが聖霊を受けている証なんです。

 

神様と人格的に向き合うようになる。自分の痛み、悲しみ、喜び、発見に気づいてもらおうと「アッバ、父よ」と呼びかけるようになる。それが、聖霊を感じるという出来事の一つです。あなたが神様に向かって、「何とかしてよ」「話を聞いてよ」と祈るとき、「本当にごめん」「本当にありがとう」と祈るとき、たとえ、風や音を感じなくても、特別な力が出て来なくても、聖霊は確かに、あなたの中へ注がれています。

 

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」……かつて、イエス様は人々が受ける聖霊について、このように話をしていました。川となって流れ出る水は、「どうにかして」「話を聞いて」と叫ぶあなたの船を、神様のもとへ運びます。次々と出てくる訴えや嘆きを、神様のもとへ向かわせます。

 

人との接触を避けていた女性が、イエス様と話して、イエス様に願いを打ち明けたように。居ても立ってもいられなくなって、他の人にもイエス様にあった喜びを伝えたように。その日、水がぶどう酒に変わらなくても、岩から水が出て来なくても、見えない水があなたの中から溢れ出し、自分を、みんなを、神様との食卓に向かわせます。

 

もし、聖霊を受けるために「神様、どうにかして」「何とか答えて」「父よ……パパ……父ちゃん……聞いてる?」というふうに叫んでいるなら、そういう心が与えられているなら、まさに今、あなたが聖霊を感じるときです。見えない方、聞こえない方、触れられないこの方に、人格的な呼びかけをするとき、あなたは聖霊を受けているんです。

 

たいていは気づきません。復活したイエス様の声を聞いても、顔を見ても、なかなか気づかなかった女性たちや弟子たちのように、私たちは「友よ」「我が子よ」「母よ」と呼びかけるイエス様の送る聖霊に気づきません。気づかないけど、後からハッと気づかされます。あのとき出会っていたのはイエス様だったのか。あのとき呼びかけてくれたのは聖霊だったのか、あのとき助けてくれたのは神様だったのか……。

 

聖霊を感じられなくて、悩み困っている方は、どうぞ安心してください。あなたが神を求める心は、嘆き、祈り、ぶつかる心は、とても健全な心です。キリストの送る聖霊によって、信仰の成熟へ至る過程です。あなたの中から溢れ出る、神への言葉、神への訴え、神への呼びかけが、あなただけから来たものでないことを知ってください。

 

そして、聖霊を受けたかどうか人を評価する誘惑からも守られますように。聖霊の多様な働きかけが、人間の目で隠されないように祈りましょう。あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(大阪府枚方市の磐上教会)のために、病気の人のために、怪我を負った人のために、体調を壊した人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆大阪府枚方市の磐上教会のために祈ります。コロナ禍の中、教会員の心身の健康が守られますように。そして、まだ教会に来たことのない近隣の人たちと礼拝にあずかることができますように。

◆病気の人のために祈ります。新型コロナをはじめ、がん、心筋梗塞、認知症など、様々な病気を抱えている人に、あなたの癒しがありますように。鬱や統合失調症、希死念慮に苦しむ人たちにも、あなたの回復がもたらされますように。

◆怪我を負った人のために祈ります。事故や事件で傷を負い、体を壊し、自由に動けなくなった人へ、あなたの助けがありますように。治療とリハビリを経て、過去に戻るのではなく、新しい自分になって、人生を楽しむことができますように。

◆体調を壊した人のために祈ります。疲れやストレスのため、環境の変化や孤独のため、頭痛や腹痛や倦怠感など、支障が出ている人たちに、あなたの憐れみがありますように。十分な休息と安全がもたらされ、心身を癒すことができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「閉じこもる私たちに」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、ライブ配信の奉仕者2名、配信参加者の4名、計6名が出席されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会の再開は、7月2日からの予定です。本日、教会員への連絡網と文書を発送し、ホームページで告知します。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。