日曜礼拝 2024年2月4日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、感染症対策のため、礼拝の中で四度、立ち上がって讃美歌を歌う間、会堂の窓を開放し、換気の時間を作ります。どうぞ、教会員の方は、窓の開閉にご協力ください。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」(テモテへの手紙一1:15)
讃美歌
(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、讃美歌二編の189番「丘の上の教会へ」を歌います。諸事情でマスクを着用できない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。差し支えない方は、お立ちください。
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆私たちの癒し主である神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私のために泣かれる主よ。誰にも話せないこと、打ち明けられないこと、理解してもらえないことに、苦しんでいる魂を憐れんでください。どうか今、共に涙を流している、あなたの隣に居させてください。
◆私のために怒られる主よ。情けない失敗や恥ずかしい不注意、取り返しのつかない過ちを犯して、苦しんでいる魂を憐れんでください。どうか今、共にうずくまっている、あなたの肩を貸してください。
◆私のために叫ばれる主よ。湧き上がる怒りや、言葉にならない悔しさ、大きな後悔を抱えて、苦しんでいる魂を憐れんでください。どうか今、共に心を震わせている、あなたの腕を掴ませてください。
◆一人一人を支え起こす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ヨブ記23:1〜10、ヨハネによる福音書5:1〜11(新共同訳より抜粋)
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編32:1〜7(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、讃美歌21の125番「いかに幸いなことだろう」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。差し支えない方はお立ちください。
メッセージ
「背きの罪を赦された人」……たった今歌った賛美歌に、そんな言葉が出てきました。誰のことを、どんな人を、皆さんはイメージするでしょうか? 過ちを犯して、罪の意識にさいなまれ、「お赦しください」「助けてください」と首(こうべ)を垂れる、しょぼんっとした人でしょうか? 賛美歌の歌詞に出てくるのは、そういう感じの人でした。
自分勝手で、我儘で、嘘をついたり、人を傷つけたりして生きてきた。だけど、あるとき、事故に遭って、病気になって、とことん苦しむことになった。そんな中、これまでの人生を振り返り、自分がしてきたことの報いを受けたのかもしれない……と後悔し、「神様私が悪かったです。どうか今までの罪を赦してください」と反省する。
すると、憐れみ深い神様は、その人の罪を赦して、病気を癒し、事故から助け、苦しみから解放してくださる……そんなイメージがあるでしょう。神様に助けてもらえるのは、奇跡を起こしてもらえるのは、悔い改めて、謙虚になり、誠実な謝罪と感謝ができる、心を入れ替えた人、正しくなった人、改心した人だろう、と。
けれども、ヨブ記に出てくる人のように、家族を失う事故に遭い、財産も消え、自分自身も重い病になったけど、神様に罰を受けるような、悪いことなんてしていない、むしろ誠実に生きてきた……という人もいるでしょう。決して、驕りとか、自惚れとかではなく周りから見ても良い人なのに、酷い仕打ちを受けてきた人がいるでしょう。
神様に、思う存分、私の言い分を述べたい……私は悪くない、こんな目に遭う謂れはない! 神様、あなたは、私がどう生きてきたか知っているはずです。これが罰なら、私に見合わないことが分かるはずです。どうか、私の人生を顧みてください。こんな仕打ちはおかしいと認めてください。私は間違っているでしょうか?
ヨブの叫びに、共感できる人も多いんじゃないでしょうか? 赦してくださいと願う前に、まず、自分の言い分を述べたい。そもそも、何が悪かったのか、何で罰を受けたのか分からない。もし、私が気づいていなかった罪があるなら言ってください、教えてください。神様の方が間違っていると感じたまま、謝らせないでください。
そういうふうに、神様へ思いをぶつけることも、決して間違っていないんです。ヨブ記をはじめ、哀歌や詩編など、神様へ不服を訴える祈りが、多くの書物に残っています。そして、イエス・キリストの3回目の奇跡が描かれる、ヨハネによる福音書5章では、罪の告白も謝罪もなく、罪の赦しを願うこともなく、ただ不満を述べた男が癒されます。
その人は、38年間、病気で苦しんでいる男でした。何の病気かは記されませんが、まともに体を動かせない病気か障害だったのでしょう。彼は、「ベトザタ」と呼ばれる池の近くに横たわって、水が揺れ動くのを待っていました。彼の他にも、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、周りに大勢横たわっていました。
なぜなら、この池は、主の使い、天使がときどき降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされる……と言われていたからです。そこへ通りかかったイエス様は、男が長い間病気であるのを知って、こう聞かれます。
「良くなりたいか?」……変な質問ですよね。良くなりたいから、池のそばにいるんです。治りたいから、ここにいるんです。というか、体が自由に動かないのに、良くなりたくないわけがありません。おそらく、この男に、こんな質問をしてきた人はいなかったでしょう。むしろ、男に投げかけられてきたのは、こんな質問だったでしょう。
「なぜ、こうなったのか?」「どんな罪を犯したのか?」「ちゃんと神様に悔い改め、赦しを願ったのか?」……家族を失い、財産も消え、病に侵されたヨブに対し、お見舞いに来た友人が、次々と浴びせた言葉がそうでした。「どんなことをしたのか?」「きっと悪いことをしたはずだ」「早く謝って、罪を赦してもらいなさい」
けれども、イエス様がこの男に聞いたのは、彼の言い分です。「良くなりたいか?」最初から彼の願いを、どうしてほしいかを問われます。男は答えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
自分を放置し続けてきた周りの者への不満です。何で、助けてくれないのか? 私が苦しんでいるのを、みんな知っているはずなのに……考えてみれば、38年間、病気で苦しみ、長い間、池のそばで横たわっていた彼のことを知らない人は少なかったはずです。だって、他の人が家族や友人の手を借りて、池に入れてもらえる中、彼はずっと一人です。
「あの人、まだ池のそばにいるよ」「まだ治してもらえてないみたい」……けれども、彼の苦しみを知る人たちは、手を貸そうとはしてくれません。自分が池に入って癒やされた後、「あなたも長い間、池のそばで待っていたよね」と助けてくれる人は現れません。なぜでしょうか?
正直、嫌われていたんじゃないかと思います。男はずっと、不満を持っていました。自分が池へ入る前に、誰かが先に入れてもらう度、叫んでいたかもしれません。「何でそいつが!」「俺が先だ!」「どうして待ってくれないんだ!」……先に、池へ入って癒やされた者も、次は彼のために手を貸そうとは思えなかったのかもしれません。
もしかしたら、3人の友人に「反省しろ」「何か罪を犯したはずだ」と言われ続けてきたヨブが、そのまま、自分の言い分を聞いてもらえないままだったら、この男と同じようにみんなから避けられ、嫌われ、相手にされなくなっていたんじゃないかと思います。私は悪くない! それなのに、みんな私を悪いと言う! 私の罪を探そうとする!
男は長い間放置され、どんなに叫んでも、どんなに訴えても、自分の言い分を聞いてもらえず、余裕も消えていきました。「助けてくれ」「池の中に入れてくれ」と周りにお願いすることもできなくなり、どうせ、私の頼みを聞いてくれる人はいないのだ……と、不満ばかり漏らすようになりました。
イエス様と出会ったときも、彼の態度に反省や謙遜は見出せません。それ以前の問題です。長期間、誰にも言い分を聞いてもらえなかったゆえに、これ以上、自分を否定されること、自分が非難されることに耐えられなくなっていました。だから、男は助けてくれない周りを非難し、イエス様に助けられたあとも、恩を仇で返します。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」……イエス様にそう言われて、すぐに良くなったこの男は、その日のうちにユダヤ人たちと出会って、こう責められます。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」……すると、彼は自分は悪くないと、ユダヤ人たちに弁明します。
「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」……さらに、後からイエス様と再会し、名前を知ると、わざわざユダヤ人たちに「自分をいやしたのはイエスだ」と知らせて、罪をなすりつけてしまいます。イエス様に「もう罪を犯してはいけない」と言われていたにもかかわらず。
そう、イエス様に癒やされた男は、決して、心を入れ替えた人でも、正しくなった人でも、改心した人でもありませんでした。むしろ、癒やされたのに、恩人を敵へ売り渡す、歪んだ自己保身を続けてしまう人でした。この後、予想されるのは、恩を仇で返してしまったこの男が、自らの罪の報いを受けて、「もっと悪いこと」が起こることです。
けれども、聖書には、この男が後から罪の報いを受けたとは記されません。むしろ、彼に警告してくれたイエス様の方が、自ら、神を御自分の父と呼び、ユダヤ人たちの怒りを買って、男の代わりに責めを受けます。癒やされた男に降りかかるはずの「もっと悪いこと」を引き受けて、十字架へつけられていきます。
いかに幸いなことだろう。背きの罪を赦された人……礼拝の中で交読した詩編にも、メッセージの前に歌った賛美歌にも出てきたこの言葉……改めて振り返ると、心からそのとおりだと思います。神様が遣わした救い主イエス・キリストから、背きの罪を赦された人たちは、みんな一杯一杯でした。
自分自身を省みることも、謝罪することも、感謝することもままならず、これ以上傷つくのを恐れて、恩を仇で返すほど、歪められた人たちでした。私たちも度々、同じ状況に陥ります。癒やされてなお、助けられてなお、イエス様を盾にして、自分を守ってしまいます。けれども、この方は本当に、私たちがどう生きてきたかを知っています。
どれだけ傷つき、どれだけ耐えて、どれだけ歪められたか知った上で、私たちを癒し、助け、友人で居続けてくださいます。名前も聞かず、感謝も述べずに立ち去っても、再び出会いに来て、新しい生き方を示し続けてくださいます。本当の癒しは、私たちが知るべき奇跡は、この方が、どこまでも私たちを放置せず、出会い続けてくださることです。
罪を犯したまま、悪いことが起こるかもしれないまま、私たちを放置しない、真の友人が、今日も会いに来てくれます。私たちの言い分を聞いて、「起き上がりなさい」「あなたは良くなったのだ」と罪の赦しを宣言します。あなたも起きて、床を担いで歩きなさい。この方を、もう一度探しに行きなさい。喜べ、神に従う人。歌えよ、心の正しい人。
讃美歌
(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌1番「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌います。差し支えない方は、お立ちください。
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
聖 餐[1]
御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。感染症のリスクを避けるため、パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。
讃美歌
最初に、マスクをしたままで讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(*ご着席いただいたままで大丈夫です)
主の食卓への招き
兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」
また、福音書は伝えています。主は十字架につけられる夜、残される人々のために杯を取り、彼らと共に飲んで教えました。神の国で、あなたがたと共に、新たに飲むその日が来ると。この食事は、やがて来たる神の国で招かれる、主の食卓の先取りです。
主は、救いを信じて待ち望む者に、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない方、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。
感謝と聖別の祈り
世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。
主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。
私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。
陪 餐
ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。
まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)
オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。
(パンを手に取る)
これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」
「アーメン」
食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。
(杯を手に取る)
これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。
杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。
「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」
「アーメン」
飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。
陪餐後の感謝
共に、感謝の祈りをささげましょう。
愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。
あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
(会堂の窓を開放しましょう)マスクをお付けいただき、(着席のまま)讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
全ての祝福の源である神様、今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
マスクをお付けいただき、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。差し支えない方は、お立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(ヨハネによる福音書5:8)
祝 福
平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソの信徒への手紙6:23〜24)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった19名、同時に視聴された7名、計26名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
礼拝後、2階集会室で昼食を挟んで教会懇談会を開きます。コロナ禍の間、しっかり話せなかった教会への要望や質問、総会に取り上げてほしいことなど、お茶を飲みながら自由に話せるときを作るので、お時間ある方はぜひ、ご参加ください。
来週の日曜日は、『パンをくださいと言えなくて』と題してヨハネによる福音書6:1〜15からお話しします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。
[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。