ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ゆるされないまま?』ヨハネによる福音書20:19〜31

日曜礼拝 2024年4月7日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。(ペトロの手紙一1:8)

 

讃美歌

讃美歌二編の130番「ひつじをまもる」を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆復活と希望をもたらす、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。2024年度が始まりました。昨年度も最初から最後まで、あなたが導いてくださったことを感謝致します。どうか今、今年度も、私たちが、新しく生きていけるように、一人一人に気づきと変化と回復をもたらしてください。

◆私たちの神様。岐阜地区では、今月から飛騨高山教会で、白砂誠一先生が、新しく牧師として就任しています。どうか今、隠退された大塚信明先生と、新任の白砂誠一先生と、飛騨高山教会の会衆に、あなたの豊かな祝福と、良いスタートが与えられますように。

◆私たちの神様。今日は、礼拝後に、上加納墓地でイースターの墓前礼拝が行われます。どうか今、天において、共に礼拝している方々を覚え、いつの日か再会できる希望を新たにし、残された方々に慰めと希望をもたらしてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書20:19〜31(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編118:13〜25(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

讃美歌21の197番「ああ主のひとみ」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Rebecca MartellによるPixabayからの画像

メッセージ

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」……イエス様が弟子たちに残した言葉は、非常に大胆で、恐ろしい話に聞こえます。もし、何か重大な罪を犯しても、弟子たちが赦せば、その罪は綺麗に赦され、弟子たちが赦さなければ、赦されないまま残ってしまう。
 
ものすごく大きな権限が、神の子から、人間の手に渡されます。良いんでしょうか? もし、弟子たちが赦すべき相手を赦さなかったら、その人は神の赦しを受けられず、永遠の命も受けられず、神の国へ入れずに、滅ぼされてしまうんでしょうか? 弟子たちの私怨や偏見で、誰かが不当に赦されない……なんてことがあったら、どうするんでしょうか?
 
反対に、弟子たちが「赦してもいい」と思った相手が、自らの罪を悔い改めず、傷つけた者を顧みず、悪を犯し続ける人だったら、それでも罪を帳消しにされるんでしょうか? 誰かにとっての悪人が、神の赦しを受けてしまって、永遠の命を与えられて、善人と一緒に神の国へ入ってしまう……なんてことがあっても、いいんでしょうか?
 
よく考えると、恐ろしい宣言ですよね? 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」イエス様を信じて洗礼を受けた、キリストの弟子となった自分自身に、同じことが言われても、「分かりました、任せてください!」と胸を張るのは難しいことです。
 
いやいや先生、私にそんな大それたこと、言わないでください。私自身、人の罪をどうこう言えるような立場じゃありません。私が「赦す」とか「赦さない」とか言い出せば、「お前の罪はどうなのか?」「あなただって、人のこと言えないじゃないか?」と詰め寄る人が出てくるでしょう。私に任せるべきじゃありません。
 
こういうふうに断ろうとする人が大半じゃないかと思います。たぶん、信仰者の多くが気にするのは、自分が「誰を赦すか」ではなく、自分が「赦されるかどうか」です。イエス様は、私を赦してくれるのか? 私に永遠の命をくれるのか? 私を神の国へ迎えてくれるのか?……これらが問題であって、私が、人様の罪を赦すかどうかは別の話です。
 
もし、私が「赦す」と言わなければ、その人は神の赦しも受けられない……と言うならそんな責任負いたくありません。「あなたが赦さなければ、あの人は地獄へ落ちるんだ」とか「あなたが赦さなければ、この人は天国へ入れない」とか言われたら、赦せない自分が人でなしのように感じます。
 
弟子たちには、イエス様の言葉がどのように聞こえたんでしょう? 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」……イエス様を見捨てて逃げたのに、約束を破って、最後までついていかなかったのに、今更、人の罪を「赦す」とか「赦さない」とか言えるでしょうか?
 
どっちも言えません。そんな権限、自分にふさわしくありません。まず、わたしが赦されるかどうかが問題です。わたしが赦されたなら、他の人のことも「赦せない」なんて言えません。だって、イエス様と一緒に捕まるのが怖くて、殺されるのが嫌で、イエス様のことを「知らない」と三度否定し、呪いの言葉まで吐きました。
 
イエス様の最後を看取ることも、遺体を十字架から下ろすことも、葬りの式さえ、しませんでした。全部放り出して、家の中に逃げ込んで、戸に鍵をかけて閉じこもっていました。「死んでから三日目に復活する」という約束も忘れ、「わたしは主を見ました」という仲間の言葉も信じないで、復活したイエス様を外に締め出し、隠れていました。
 
それなのに、イエス様は戸に鍵をかけていた自分たちの家へ現れ、自分たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われます。それは、見捨てて、逃げて、放り出した自分たちへの、あり得ない赦しの言葉でした。普通なら「なぜ見捨てたのか?」「なぜ逃げ出したのか?」という非難が続くはずでした。
 
しかし、イエス様は、自分を見捨てて、裏切って、信じなかった弟子たちに「平和があるように」と言いました。まだ、謝ってもいない、この後も、はっきり謝罪を述べられない弟子たちに、「平和があるように」と言いました。さらに、イエス様は、他の人たちの罪を赦す権威まで、弟子たちへ委託されます。
 
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」……それは、「赦された者」でなければ、委託されない権威でした。「間違いなく、あなたはわたしに赦された」という、しるしでした。表面的な、その場しのぎの和解ではなく、新しい関係を築く言葉でした。
 
本当は、私が見捨てたことだけは、私が否定したことだけは、赦しておられないんじゃないか? 私の中には、まだイエス様に赦されていない罪が残っているんじゃないか? そのような弟子たちの不安を、イエス様は全力で吹き飛ばします。「自分が赦されるかどうかではなく、自分がだれを赦すかに目を向けなさい。あなたはもう赦されている」
 
ときどき、キリスト教徒の中にも、自分が赦されるために、人を赦そうとする方がいます。他者に対して、自分が赦されるために、相手のことも赦しなさいと勧め、強要してしまう方がいます。しかし、あなたが誰かを赦さなければ、あなたが赦されなくなるわけではありません。あなたはもう、イエス様から赦されています。
 
自分が神様から赦されるために、誰かを赦す必要はないんです。むしろ、赦されているから、救いにあずかっているから、「自分のために」ではなく、本当に「その人のために」赦すという道ができているんです。恐怖心からではなく、心からの和解のために、人を赦す道が作られているんです。
 
その始まりも、その過程も、イエス様が備えてくださいます。今、誰かを赦せない自分がいても、イエス様が必ず、新しい道を作ってくださいます。復活したイエス様と、自分だけ出会えなかったあのトマスも、「わたしだけ赦されていないのではないか?」「わたしの罪は赦されないまま残っているんじゃないか?」と不安を覚えて過ごしました。
 
彼は、他の弟子たちの話を聞いても、イエス様の復活を信じるとは言えず、自分に出会ってくれなかったイエス様を、みんなと一緒に居なかった自分を、「赦せない」日々を過ごしました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と叫びました。
 
しかし、そんなトマスのために、イエス様は再び、戸に鍵のかけてあった家に現れ、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」……トマスに直接声をかけ、新しい命を与えます。
 
あなたはちゃんと赦されている。わたしはあなたを赦している……その宣言を受けて、トマスも自ら「わたしの主、わたしの神よ」と答えられるようになりました。これは、福音書の中で唯一、イエス様を直接「わたしの神」と告白した人の言葉です。トマスは信じない者から信じる者へ、「初めてキリストを神と告白した者」へ変えられたんです。
 
同様に、今、誰かを赦せない者、自分が赦されていると思えない者も、イエス様から、新しい命を与えられます。全ての者が、キリストによって、赦された者とされたように、赦せない者も赦せる者へ、信じない者も信じる者へ変えられます。イエス様が命じたことを、イエス様と一緒に果たしていく者へ変えられます。共に、新しい命を受けましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌4番「わたしの主が取り去られた」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

 

 

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

 

 

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

 

 

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。感染症のリスクを避けるため、パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、福音書は伝えています。復活の主は弟子たちと食事の席に着いたとき、パンを取り、祝福してそれを割き、お渡しになった。すると、弟子たちの目が開かれ、それがイエスだと分かった。

 

主は、絶望した者の目を開き、信仰が揺らぐ者を支え、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。今から後、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」4節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の28番「み栄えあれや」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネによる福音書20:21)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった28名、同時に視聴された10名、計38名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

この後、イースターを記念して、教会から車で15分ほどの場所にある上加納墓地にて、墓前礼拝を行います。一緒に墓苑へ行きたい方で、車に乗せてもらう必要のある方は、配信終了後にお申し出ください。

 

また、来週の日曜日は『それがどなたか分からない』と題して、イザヤ書61:1〜3とヨハネによる福音書21:1〜14のお話をします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。