ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ここにとどめておいてほしい』 使徒言行録25:13〜27

聖書研究祈祷会 2024年3月13日


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案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の312番「紅海を渡り」を歌います。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。諸事情でマスクの着用ができない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆叫びと訴えを聞かれる神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと、十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改めつつ、イースターの準備をする、受難節第4週目を迎えました。どうか今、単なる自己批判でも自己否定でもなく、あなたの愛を受けとめる悔い改めができますように。

◆私たちの神様。キリストの復活を記念する日曜日まで、あと3週間となりました。どうか今、病気や怪我や衰えのため、なかなか教会へ来られない人、身内のケアや介助のため家に留まる人たちに、あなたの癒しと励ましが、豊かにもたらされますように。

◆私たちの神様。自分一人の罪だけでなく、自分の属する教会、組織、社会における過ちに、向き合うことができますように。どうか今、改めるべき態度や制度、受けとめるべき言葉や思いを、誠実に見つめることができますように。

◆私たちを新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録25:13〜27の新共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Daniel BoneによるPixabayからの画像

メッセージ

キリスト教が世界宗教となったのは、宣教者パウロをはじめとするイエス様の弟子たちが、ユダヤ人だけでなく、世界中の異邦人にも、神様の言葉と業を伝え、信じて救われるように教えていったからでした。当初は、キリスト教も、ユダヤ教における「ナザレ人の分派」と呼ばれていましたが、いつしか独自の宗教として捉えられるようになりました。
 
けれども、一部のユダヤ人にとって、神の民として選ばれた、自分たちの国イスラエルを滅ぼした大国や、今も支配してくる国々が、自分たちと同じく、救いの対象になっている、というのは、受け入れ難いことでした。長年、神様を信じて礼拝し、掟を守ってきた自分たちと、そうでない人たちが、一緒に救われる世界は嫌だったのかもしれません。
 
少なくとも、神様を信じていなかった、異教の神を礼拝してきた人々は、相応の罰を受け、神様の教えを学び直し、掟を厳格に守るようにならなければ、救われる対象にならない……という考えが、けっこう、根強くありました。もともと熱心なユダヤ教徒であったパウロも、かつてはそうでしたが、復活したキリストの幻と出会って変わりました。
 
神様は、「何をできたか」「どこまでやれたか」で、私を救うかどうか、決めてしまう方ではない。むしろ、なかなか教えを守れない、理解できない、実行できない私のことも見捨てずに、救いに至るまで、どこまでも付き合い続けてくださる。そのことを信じて告白する人たちが、神の民として受け入れられないことはない。
 
そのように、パウロは確信を抱いて宣教し、ユダヤ人でも、異邦人でも、「イエス様を信じて救われなさい」と教えてきました。一方で、パウロが「掟なんて守らなくていい」「律法なんてどうでもいい」と教えているように受け取った人々は「彼は秩序と伝統を破壊している」として、激しく攻撃するようになりました。
 
けれども、実際に、パウロが「掟なんてどうでもいい」と教えていたわけではありません。むしろ、神様の教えをどのように守るか、どのように大事にするか、自分たちユダヤ人のやり方だけを押し付けてはならない……と教えていました。しかし、パウロに反対する人々は、とにかくパウロが自分たちの掟を蔑ろにした、と責める方向で訴えました。
 
そのため、噛み合わない議論が続きます。「パウロは律法を蔑ろにし、他の者にも掟を守らないように教えている」と言う者がいたり、「パウロはユダヤ人以外が入れない神殿へ、異邦人を連れ込んで、その場を汚した」と言う者がいたり、「パウロはあちこちで、群衆を扇動し、騒動を起こしている」と言う者が出てきました。
 
しかし、パウロが実際には何と言ったか、どのように教えたか説明すると、訴えが正しいとは思われず、律法を蔑ろにした事実は認められませんでした。また、神殿に異邦人を連れ込んだという事実もなく、神殿を汚した事実は認められませんでした。さらに、あちこちで騒動が起きているのは、むしろパウロに反対する人たちが煽動したためで、パウロが暴動を起こそうとした事実も認められません。
 
結局、パウロを訴えようとする人たちは、パウロが罪を犯した証拠を何一つ挙げることができませんでした。そこで彼らは、唯一、証拠を出せる宗教的な問題について訴えます。それは、「この男は死者が生き返ったと教えている」「十字架にかかって死んだイエスが、生きていると主張している」という内容です。
 
これだけは、実際にパウロが言ったことで、彼自身も認め、他の人からの証言も、一致していることでした。しかし、ローマの法律では、「死者が生き返ったと信じている」「それを誰かに伝えている」というだけで、死刑に処せられることはありませんでした。何なら、死者の復活については、熱心なユダヤ教徒の中にも信じている人たちがいました。
 
もし、パウロが信じていることを、その信仰を明かしたことを、犯罪として訴えるならやがて来たる神の国で、死者が復活すると信じていた他のユダヤ人たちも、同じ理由で、訴えられねばなりません。そして、死者の復活を信じるユダヤ人の中には、パウロに反対していたファリサイ派の多くも含まれました。
 
つまり、パウロを訴えられる理由が他に見つからないため、自分たちも、追求されたら困る内容でしか、パウロを訴えられなかったんです。実際、カイサリアの総督になったフェストゥスは、はっきり、パウロの無実を口にしています。「彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました」
 
彼だけでなく、最初にパウロを捕えた千人隊長クラウディウス・リシアも、取り調べの後、こう言っていました。「彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないということが分かりました」……ここまで来たら、もはやパウロが言うことは一つだけです。
 
「私が無実だと分かったなら、もう解放してください」「ここから出して、自由に宣教させてください」……ところが、パウロは自分の解放を求めずに「私は皇帝に上訴します」と言い出します。さらに、フェストゥスには、「皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしい」と願い出たようです。
 
先週も、この件について話しましたが、普通はローマ帝国の役人たちに捕えられ、閉じ込められている状況は、歓迎できるものではありません。度々、取り調べを受けるのも、法廷に連れ出されていくのも、勘弁してくれと思うのが自然です。こんなことではなく、伝道がしたいんだ……宣教者なら、誰でも思うことでしょう。
 
しかし、パウロはこの場所が、取り調べをするローマ人が、自分の遣わされた宣教先だと堅く信じ、彼らの間に留まります。この法廷が、この監獄が、私に与えられた教会だと留まることを決心します。彼は法廷で弁明することで、ローマの人々に信仰を証しし、イエス様の教えと業を伝えていきます。
 
けれども、いくらパウロが宣教のために、そこへ留まろうとしても、本来そこに留まることはできないはずのことでした。なぜなら、告発された罪状が立証されず、「死罪に相当するようなことは何もしていない」ということが判明した人間を、さらに、裁判へかけたり、投獄しておいたりすることは、基本的にできないからです。
 
確かに、皇帝に上訴すれば、裁判を受ける権利はありますが、既に無実が認められているのに、皇帝へ上訴するのは無駄でしかありません。「そんな必要ないよね」「君の無実は認められたから、さっさとここから出ていきなさい」そのように言われるのが普通です。だって、無実の人間を皇帝のいる法廷に寄越されても、迷惑でしかありません。
 
実際、フェストゥスは「この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません」「囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わない」と自ら白状しています。それなら最初から、上訴を受け入れる必要はないんです。ユダヤ人たちの告発は却下され、パウロの上訴も棄却されて終わりです。
 
にもかかわらず、なぜか、フェストゥスはパウロの要望を通すために、皇帝へ上訴するための罪状を書こうと努力します。町の主だった人々や、アグリッパ王まで協力して、パウロを皇帝に引き渡すための文書が作成されていきます。あり得ませんよね?……こんな面倒くさいこと、こんな利益にならないこと、どうして彼らはやったんでしょう?
 
宗教の問題……それも、異端とされる分派の問題……けれど、犯罪には当たらない論争についての問題……こんなのに、司法が積極的に関わることはなかなかありません。というか、関わりたくないでしょう。もう自分たちで勝手にしてくれ……こっちは介入しないから、そっちで解決してくれ……と放り出すのが普通でしょう。
 
下手すれば、「棄却すべき案件をどうして皇帝に押し付けるのか?」と厳しく責められかねない行為です。それなのに、パウロを取り巻くローマ人は、「皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしい」というパウロの願いを聞くために、主だった人たちを招集し、開廷し、話を聞こうと動きます。
 
パウロが囚われ、閉じ込められていた場所が、神様に遣わされた場所として、見えない教会として、新しく変えられていったのは、パウロだけに、その導きが働いたからではありません。彼ら、ローマ人の間にも、不思議な導きが働いて、パウロの話を聞く時間、信仰の証を聞く場所が、備えられていったんです。
 
新しい教会はどこにあるのか? 自分が遣わされる場所はどこにあるのか? 私たちの間におられる救い主、イエス・キリストの呼びかけに、耳を澄ませながら、改めて見つめ直していきましょう。「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように」(テサロニケの信徒への手紙二3:16a)アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている、千葉県松戸市の小金教会のために、被災地のために、医療従事者のために、怪我人や病人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆千葉県松戸市の小金教会のために祈ります。今年度から着任した新人牧師と信徒の上にあなたの導きが豊かにありますように。教会が積み重ねてきた思いと交流が大切にされ、誠実な伝道が広がっていきますように。

◆被災地のために祈ります。地震、大雪、台風、豪雨、洪水、噴火、旱魃など、様々な自然災害によって、疲弊している人たちに、あなたの助けがありますように。必要な支援とコミュニケーションが広がって、日常の回復が進みますように。

◆医療従事者のために祈ります。各地で増えている様々な感染症や、その他の病気、怪我への対応に追われる人たちに、あなたの支えがありますように。医療従事者だけでなく、その家族や身内の心身も守られますように。

◆怪我人や病人のために祈ります。突然の変化や、長期にわたる病状で、苦しんでいる人たちに、あなたの癒しがありますように。苦痛や疲労が解消され、希望や平安がもたらされ、新しく生きていく力を一緒に持つことができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌18番「あの方が独り子を」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

また、イースターを迎えるまで、聖書研究祈祷会後の14:30から15:00ごろまで、受洗勉強会も開いています。洗礼を希望する方、まだ予定はないけど学びに興味のある方、洗礼を受けているけど、もう一度学んで見たい方など、気軽にご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。