ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『なかなか解放されません』 使徒言行録24:24~25:12

聖書研究祈祷会 2024年3月6日


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案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の292番「勝利をたたえて」を歌います。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。諸事情でマスクの着用ができない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆慈しみ深い神様。今日もこうして、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。キリストの受けられた苦しみと十字架の死を思い起こし、自らの罪を悔い改めつつ、イースターの準備をする、受難節第3週目を迎えました。どうか今、私たちが見つめるべきもの、改めなければならないものと、向き合う力を与えてください。

◆私たちの神様。入院していた方や、体を壊していた身内、体調を崩していた方が、少しずつ回復し、また顔を合わせられるようになったことを感謝致します。どうか今、引き続き、治療を行っている人、療養している人たちに、あなたの癒しがありますように。

◆私たちの神様。今年度も終わりに近づき、2024年度に向けて、準備をしていく季節になりました。どうか今、華陽教会で、新しく行おうとしていること、改めようとしていることが、一つ一つ、整えていけますように、私たちを導いてください。

◆全ての者をとりなされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録24:24~25:12の新共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Ichigo121212によるPixabayからの画像

メッセージ

ユダヤ人から訴えられた宣教者パウロは、最高法院へ何度も出廷しながらも、なかなか解放されません。ユダヤ人の掟である律法を犯したという訴えも、ユダヤ人が大切にする神殿を汚したという訴えも、ローマ帝国の法を犯して皇帝に背いたという訴えも、何一つ証拠が挙げられなかったにもかかわらず、不起訴になりませんでした。
 
その理由は単純で、パウロの裁判を担当したカイサリアの総督フェリクスと、フェリクスの後任フェストゥスが、2人ともユダヤ人に気に入られようとしたためです。ユダヤ人を支配しているローマ帝国の役人が、ローマの市民権を持つパウロの方ではなく、ユダヤ人の方に「気に入られようとした」というのは、何だか不思議な話です。
 
確かに、自分たちの占領する土地で、異なる民族に暴れられたり、謀反を起こされたりしないよう、ある程度、住民から好意を得る必要はあったでしょう。しかし、同じユダヤ人でも、ローマ帝国の市民権を持っている人間と、そうでない人間なら、支配者から見て優先すべき相手は、明らかに前者となるはずです。
 
なぜなら、多額の金でローマの市民権を手に入れても、市民権を持っていない大衆の方が優先されるなら、ローマ帝国に進んで仕えようとする市民たちに、不満が溜まってしまいます。また、ローマ帝国で出世や名声を得たいなら、ユダヤ人に忖度するより、帝国の市民に忖度する方が、自然だったとも思います。
 
一方、フェリクスについては、「パウロから金をもらおうとする下心もあった」と24章26節に記されていますが、収賄は皇帝の勅令で禁じられた行為でもありました。パウロから金をもらって、起訴を取り下げたとしても、不満に思ったユダヤ人から、勅令に違反したのではないかと告発される、大きなリスクがありました。
 
よく考えると、フェリクスとフェストゥスが、ユダヤ人のために、パウロの起訴を取り下げようとしないことは、権力者として普通のことではありません。これはかえって、皇帝や皇帝の臣下から、目をつけられかねない話です。そしてこれが、新約聖書ではなく、旧約聖書の話なら、2人の態度は、むしろ「信仰的」にも見えたでしょう。
 
本来、ユダヤ人を支配しているはずの権力者が、ユダヤ人の願いを聞いて、彼らのために気を遣って行動する……それは、エステル記に出てくるペルシャの王や、ダニエル記に出てくるバビロニアの王を思わせます。実際、フェリクスも、ペルシャの王がユダヤ人の王妃を娶ったように、ユダヤ人のドルシラを妻に迎えた人物でした。
 
よく見ると、パウロを訴えた大祭司や長老たちがフェリクスを褒め称える言葉も、ユダヤ人を助けたペルシャの王や、バビロニアの王に向けられた言葉と重なっています。どうやらカイサリアの総督を務めたこの2人は、単純に、宣教を妨害する、神に背いた人物として描かれているわけではなさそうです。
 
むしろ、パウロが皇帝に上訴しなければ、おそらく、釈放されただろうと26章27章にも言及されています。パウロ自身も、あと少し粘れば、このまま解放される見通しが、立っていたんじゃないかと思います。なにせ、裁判の内容は明らかに、パウロに有利な展開で、ユダヤ人たちの訴えは、ことごとく立証できていませんでした。
 
フェストゥスもパウロの無罪を認めています。それなのにパウロは「このまま解放してください」と訴えるのではなく、より裁判に時間のかかる、拘束される時間が長くなる、上訴という道を選びます。たぶん、皇帝に上訴さえしなければ、証拠不十分で不起訴が決まったはずの法廷で、わざわざ「皇帝のもとへ出頭します」と申し出るんです。
 
これじゃあ解放されるまで、さらに時間がかかってしまいます。2年も監禁されていたのに、自由に宣教できなかったのに、パウロは外へ出ることよりも、囚われたまま、総督や領主、皇帝に証言することを求めます。まるで、それこそが自分に与えられた本来の使命、「宣教」であるとでも言うように……いえ、実際そうなんです。
 
彼は、カイサリアで監禁されている間、2年にわたって、フェリクスと、その妻であるユダヤ人のドルシラにキリスト・イエスへの信仰について語っていました。裁判に勝つための自己弁護のためではなく、自分の心象が悪くなりかねない、正義や、節制や、裁きについても語っていました。
 
フェリクスの後任フェストゥスにも、死んでしまったと言われるイエス様が、今も生きていると語りました。「この男は頭がおかしい」「証言の信憑性が怪しまれる」と判断されかねないのに、気にする様子もなく、イエス様の教えと業を語りました。続けてユダヤの領主にも、ローマの皇帝にも、キリスト・イエスについて証言しようとしていきます。
 
この法廷が、この監獄が、私の遣わされた教会だ……ここに囚われていることが、ここで証言することが、私の宣教であり、神様から与えられた使命である……そのように、パウロは理解していたのかもしれません。確かに、ローマ人への証しは、彼が法廷で証言することによって、監獄で呼び出されることによって、進められていきました。
 
獄中で記した手紙によって、同労者へのことづてによって、教会の教えも、共同体の在り方も、信仰者への教育も、整えられていきました。自由を奪われ、なかなか解放されないように見えたパウロは、むしろ、最も広く、深く、宣教の使命を進めていた、キリストの証人になっていました。
 
それは、皆さんも同じです。教会の宣教は、教会へ行けないときにも、集まれないときにも展開されます。あなたが家から出られないとき、病院から、施設から、部屋から自由に出られないとき、宣教の業に加われなくなったと、どうか思わないでください。あなたを見にくる人、ケアする人、介護する人は、あなたが遣わされた相手です。
 
あなたとの触れ合い、あなたとのやりとりが、そのまま、その人への宣教に用いられます。パウロが、フェリクスや、ドルシラや、フェストゥスと話すとき、そのやりとりが、キリスト・イエスへの信仰の業に用いられたように、あなたがそこにいることも、宣教の業に用いられ、見えない教会が建てられています。
 
たとえ、どこにも行けなくても、どこかから出られなくなっていても、あなたが宣教の使命から、解放されることはありません。役に立たない者として、弟子の資格がない者として、切り捨てられることはありません。むしろ、あなたのいる所が、神様の遣わした場所として、新しく変えられていくんです。
 
今までのように、教会へ行けなくなって、奉仕ができなくなって、人と関われなくなって、自分の信仰が死んでいく、伝道の役に立てなくなっていくと、肩を落としている方はどうか前を見てください。あなたの信仰は死にません。伝道の道からも外れません。そこは紛れもなく、キリストと共に歩む道です。あなたはキリストの証人です。
 
目を上げて、立ち上がって、心を新しくして、希望と喜びを受け取りなさい。あなたを頼り、あなたを支え、あなたと共に行く方に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている、千葉県香取市の小見川教会のために、卒園する子どものために、地域の子どものために、教会学校の子どものために祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆千葉県香取市の小見川教会のために祈ります。2020年から、新会堂で礼拝を始めたこの教会に、あなたの祝福がありますように。地域にある教会として、祈りと伝道の業を具体的に行うことができますように。

◆卒園する子どものために祈ります。小学校に入学する前、ドキドキしている子どもたちに、あなたのお守りとお支えがありますように。色々な不安と期待を抱く保護者の方々にも、あなたの励ましと助けがありますように。

◆地域の子どものために祈ります。この町にいる全ての子どもに、あなたの祝福がありますように。友達や家族、先生や顧問との関係に悩んでいる人や、障害や健康のことで悩んでいる人、進学や将来について悩んでいる人に、あなたの導きが豊かにありますように。

◆教会学校の子どものために祈ります。土曜日にピアノのレッスンで顔を出してくれる子どもたちや、日曜日になかなか会えない子どもたちへ、あなたの恵みがありますように。これからの教会が、子どもたちにとって落ち着く場所、来やすい場所になりますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌5番「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

また、イースターを迎えるまで、聖書研究祈祷会後の14:30から15:00ごろまで、受洗勉強会も開いています。洗礼を希望する方、まだ予定はないけど学びに興味のある方、洗礼を受けているけど、もう一度学んで見たい方など、気軽にご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。