ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『それで元気になりますか?』使徒言行録27:33〜44

聖書研究祈祷会 2024年4月24日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の210番「来る朝ごとに」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけて歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆光と命の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。日曜日には、オリーブ会とヒラソルの会のメンバーで集まり、昨年度の活動を振り返って、これからのことを話し合うことができ、感謝致します。どうか今、「ぶどう園の集い」として新しく始まる活動にも、あなたの導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。来週の日曜日には、定期教会総会が開かれます。教会懇談会で提案されたオルガンミニコンサートや、教会学校のデイキャンプなど、様々なことが話し合われます。どうか今、一つ一つの事柄を誠実に協議し、決断することができますように。

◆私たちの神様。病気や怪我、障害や衰えによって、毎週、教会へ来ることが難しくなっている人や、交通手段が限られている人、調子を崩している人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、解決に必要な知恵と力が、この教会にもたらされますように。

◆信仰と希望と愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録17:33〜44の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Greg MontaniによるPixabayからの画像

メッセージ

 使徒言行録の終わりの方には、宣教者パウロが、ローマへ連行される途中、乗り込んだ船が暴風に遭い、難破してしまった出来事が記されています。この暴風は、幾日もの間、吹き荒れて、船からは太陽も星も見えず、船体がいつ壊れてもおかしくない状態だったと言われています。

 逃げ場のない海の上で、暴風に遭う、嵐に遭うというのは、昔の人々にとって、神から裁きを受けている、神に背いてしまっている、と捉えられる出来事でした。旧約聖書の創世記には、地上に人の悪が増したとき、神様が四十日四十夜雨を降らせて、洪水で世界を一掃したことが記されています。十四日間の暴風も、この出来事を思い出させたでしょう。

 また、ヨナ書にも、神に背いて逃げ出したヨナが、海の上で嵐に遭い、転覆しかけたことが書かれていました。そこに出てくる船乗りたちの反応を見れば、異邦人にとっても、海の上の暴風は、神の怒りを彷彿とさせるものだったと分かります。ローマの兵隊と囚人を連れていく船の上で、暴風に苦しめられた人たちも、神への恐れを抱いたでしょう。

 この状況で期待されるのは、祈るなり、何なりして、激しい暴風を止めることです。ヨナが乗っていた船では、ヨナが海に投げ込まれることで暴風が止み、船員たちは生き残ることができました。また、パウロが信じる、神の子イエス・キリストは、湖の上で暴風に遭っても、風を叱りつけて、嵐を止めることができました。

 しかし、残念ながら、宣教者パウロは、この嵐を鎮めることができません。むしろ、船を失うことは避けられないと話します。そういえば、彼はこの船に乗ってから、風に行く手を阻まれたときも、クレタ島から船出して、暴風に悩まされたときも、「この暴風を止めてください」と神に祈っていませんでした。

 また、船員たちも、この嵐で命を失わないよう、船が転覆しないよう、助けを求めて、神に祈る姿がありません。ヨナ書では、異邦人の乗組員も必死になって、それぞれの信じる神に「助けてくれ」と祈っていましたが、パウロの乗った船では誰一人、救いを求めて神に祈る姿がありませんでした。

 パウロ自身は「船を失っても、命を失う人は一人もいない」と話しているので、神様は必ず自分たちを救ってくれる、という確信があったのかもしれませんが、他の人たちは違います。特に、船長や船主は、命も大事ですが、船も失うわけにいかなかったでしょう。普通は「神様、助けてください」「この暴風を止めてください」と祈るのが自然です。

 けれども、彼らは早々に、助かる望みは全く消え失せた……と考え、食事を取らなくなってしまいます。これは、聖書にしばしば登場する、悔い改めて助けを求め、断食して祈る行為ではありません。彼らが長い間、食事を取っていなかったのは、絶望と船酔いによるものです。

 他に何もできない中、祈ることさえできないほど、神に助けを求めることもできないほど、彼らは追い詰められ、元気を失っていました。しかも、十四日目には、錯乱した一部の船員が、錨を降ろすふりをして、自分たちだけ逃げ出そうと小舟を下ろし始めたので、彼らが漂流しないよう、パウロは兵士たちに綱を切らせて、小舟を放流させてしまいます。

 この小舟は、いわゆる救命ボートです。船が座礁したとき、安全に陸へ上がるためには必要不可欠な道具です。それまで失ってしまった今、助かる見込みはゼロどころか、マイナスにまで下がってしまいました。しかも、船の中には、小舟を失うきっかけとなった、自分たちだけ逃げ出そうとした船員たちも残っています。気まずい空気が漂います。

 そんな中、パウロはみんなに食事をするよう勧めます。ついさっき、船員の裏切りによって小舟を失い、最悪の空気が漂っているのに、「どうぞ何か食べてください」と言うんです。一部の人にではなく、そこにいる一同、全員に……です。さっき、小舟を降ろして逃げ出そうとした船員たちにも、パンを手渡し、「さあ、食べなさい」と言ってきます。

 「生き延びるためには必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」……気まずくて、情けなくて、消え入りたくなる人たちが、生き延びるよう促され、髪の毛一本も失わないと、力強く言われます。そんなこと言っても、自分のしたことは取り返しがつかない。もう逃げ場はなく、足元から力が抜けていく。

 パウロの言葉で、元気になる人がどれだけいたのか、最初に読んだときは疑問でした。そんなこと言ったって、神様は暴風を止めてくれないじゃないですか? ますます窮地に立たされているじゃないですか? 私たちが陸に上がることを、命が助かることを、許していないじゃないですか?

 けれども、ここで初めて、船の中で、神への祈りがささげられます。「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」それは、イエス様が十字架にかけられる前の夜、自分を見捨てる弟子たちのために、パンを分けられた仕草と一緒でした。

 また、イエス様が復活した後、自分を見捨てた弟子たちと再会し、彼らのために、再びパンを分けたときとも同じ仕草でした。パウロから、イエス様の話を聞いていた百人隊長や彼の部下たちは、パウロの言うことを聞かずに、神の意志を無視して、船を出した自分たちも、イエス様は赦し、命を与えてくださると、気がついていったのかもしれません。

 船の上で、最初にささげられた祈りは、罪の告発でも、自己否定でもなく、これから命を救ってくださる神様への信頼と感謝の祈りでした。自分の選択や行いを恥じ、希望を失っていた船員たちは、この祈りを聞いて元気を出し、パンを受け取って、力をつけます。そして、今までならあり得ない選択をする者へ変えられていきます。

 朝になると、船は浅瀬にぶつかって、乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、ついに、船尾が激しい波で壊れ出しました。もう船を捨てて、泳いで陸地を目指すしかありません。しかし、囚人たちが乗っているため、彼らを野放しにする恐れがあります。護送中の囚人を取り逃してしまった兵士や隊長は、下手すれば処刑されてしまいます。

 普通なら、囚人たちを野放しにしないよう、ここで殺してしまうのが、ローマ帝国の百人隊長や兵士たちの取りうる判断です。けれども、百人隊長はパウロを助けたいと思い、これを阻止して、囚人か、そうでないかを問わず、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや他の乗組員につかまって泳ぐように命じました。

 そんなことをすれば、途中で囚人に殺されてしまう乗組員もいるかもしれません。疑心暗鬼になって、互いに海へ落とそうとする者が出ても不思議ではありません。しかし、パウロからパンを受け取った彼らは誰一人、裏切ることも、見捨てることもなく、全員が無事に上陸することになりました。

 イエス・キリストの話を通して、パウロと百人隊長の間で芽生えた信頼関係は、一緒にパンを分けた兵隊たちと囚人たちとの間にも、乗組員全体にも広がります。こうして、267人の船員たちは、全員、命を失うことなく、逃げ出して離れ離れになることなく、陸地へ上がることができました。

 「助けてください」「救ってください」そう願うことさえできなくなった人たちにも、悔い改めや罪の告白をできないでいた人たちにも、神様は、新しい命を与えようと、パンを分け、祈りをささげ、とりなす者を遣わします。あなたもまた、その人が遣わされた所にいる者であり、あなた自身も新たに遣わされていく一人です。

 どうか、私たちが祈れないとき、私たちのためにとりなし、隣人が祈れないとき、隣人のためにとりなすよう、導いてくださる救い主が、ますます豊かに、褒め称えられますように。神様の栄光が、ますます豊かに、現されますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(福岡県宮若市の宮田教会)のために、教会の会衆のために、会衆の家族のために、会衆の友人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆福岡県宮若市の宮田教会のために祈ります。奏楽者の健康が守られ、新しい歌を主に向かって歌い、良き隣人として、歌いつつ歩む信仰を育むことができますように。日曜日の礼拝と聖書研究祈祷会が、これからも守られますように。

◆教会の会衆のために祈ります。礼拝に来られる一人一人に、あなたの恵みが豊かにありますように。それぞれの祈りが聞かれ、助けと回復が与えられますように。また、しばらく教会へ来ることができない人にも、あなたのお守りがありますように。

◆会衆の家族のために祈ります。華陽教会の信徒や求道者、初めて来られた方々のご家族に、あなたの祝福がありますように。それぞれの健康や体調、関係性に、癒しと導きがありますように。

◆会衆の友人のために祈ります。教会に連なる人たちの大切な友人に、あなたの慈しみがありますように。立場や信仰が異なる人とも、誠実な関係が築かれて、共に、愛と平和の道を歩むことができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌16番「苦難のはざまから」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。なお、来週5月1日(水)の聖書研究祈祷会は、牧師休暇のためお休みです。次回の聖書研究祈祷会は、5月12日(水)13:30〜14:30に行います。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。