聖書研究祈祷会 2024年5月8日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の433番「あるがままわれを」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。
◆私たちの神様。今度の日曜日には、母の日を迎えます。母親との関係で悩んでいる子や子どもとの関係で悩んでいる母に、あなたの助けがありますように。また、どちらかを見送った人たちの上にも、あなたの慰めと新しい希望がもたらされますように。
◆私たちの神様。今月の21日、22日には、中部教区総会が行われます。能登半島で起こった地震をはじめ、様々なことが話し合われます。どうか今、一つ一つの事柄に、誠実な協議と決断ができるよう、全ての会衆と教師を導いてください。
◆私たちの神様。今月末の日曜日には、岐阜地区の総会が開かれます。どうか今、各教会の現状とこれからの課題が共有され、一緒に信仰生活を支え合えるよう、この時をどうぞ導いてください。特に、新しく赴任された先生と教師を迎えた会衆が守られますように。
◆一人一人の傍におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録28:1〜10の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
メッセージ
イエス様の教えと業をローマでも伝えるため、宣教者パウロは、囚人という身分になりながらも、船に乗って、カイサリアからシドン、ミラ、クレタ島へと渡ってきました。しかし、「まだ出発しない方がいい」というパウロの警告は無視されてしまい、船はクレタ島を出発し、激しい暴風に遭い、難破してしまいます。
しかし、「だれ一人として命を失う者はない」とパウロが言ったとおり、何とか全員が陸地に上がり、助かることができました。彼らがたどり着いた島は、もともと目指していたフェニクス港ではなく、マルタ島と呼ばれる知らない島でした。「島の住民」と訳されている言葉は、もともとギリシャ語を話さない、フェニキア語を使う人々を指しています。
つまり、パウロたちユダヤ人にとっては、異教の民との混血が進んだ異邦人、異なる信仰の持ち主を象徴するような人々でした。けれども、彼らは難破したパウロたちを親切にもてなし、降る雨と寒さをしのぐために、すぐに焚き火を起こしてくれました。サラッと書いてありますが、276人の遭難者をもてなすのは、大変なことです。
しかも、この船に乗っていたのは、船主や船員たちだけでなく、武器を持ったローマの兵隊と、彼らに連行される囚人たち……いくら弱って傷ついた相手とはいえ、突然、自分たちの島に現れた大勢の外国人は怖かったはずです。どうやら、正義の女神を信仰する島の住民は、その名のとおり、正しいことのために勇気を出せる人たちだったんでしょう。
そんな中、パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出てきて、彼の手に絡み付きました。新共同訳と聖書協会共同訳では「絡みついた」となっていますが、本来は「咬みついた」と訳される言葉です。蝮に咬みつかれたらどうなるか、血清や薬もないこの時代の島では絶望的な展開です。
島の住民たちは、パウロの手に咬みついて、ぶら下がった毒蛇を見て言いました。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」……そして、体がはれ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと思い、恐る恐る様子をうかがっていました。
確かに、囚人として連行されている人物ですし、そのことは服装からも分かったでしょう。乗っている船が難破して、ようやく陸地についた瞬間、蝮に咬まれた状況を見れば、大いなる存在から罰を受けた……とみなされても不思議ではありません。もし、彼が神に愛される正しい人なら、こんな不幸が続くのはなぜですか? と言いたくなります。
実際、旧約聖書に出てくる神の人モーセは、木の杖を手にとって蛇に変えたり、その蛇を手にとって木に戻したりできました。蛇を掴んで咬まれるのは悪人で、咬まれずに扱えたら善人、という考え方は、異邦人でなくてもあり得たでしょう。おそらく、島の住民だけでなく、パウロの仲間たちも、息を呑んだのではないでしょうか?
ところが、パウロは自分の手に咬みついた蛇を振り落とし、火の中に入れ、何の害も受けずにいました。住民たちは、いつまで経っても、彼に異変が起こらないため、考えを変え、「この人は神様だ」と言い始めます。さっきまで「人殺し」と言われていたのに、今度は「神様だ」と言われ始める……目が回りそうな展開です。
実は、パウロが「神様だ」と言われるようになったのは、これで二度目です。前回は、14章8節以下で、足の不自由な男を癒したとき、リストラに住んでいた人々から「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言われていました。その時は、パウロ自身がこのことを否定し、自分も同じ人間だと訴えていました。
ところが、今回は、パウロが島の住民に「わたしは神ではありません」と否定するシーンがありません。それどころか、本当の神様について、イエス・キリストの教えと業について、島の人たちに伝える様子もありません。にもかかわらず、島の住民たちは、リストラの住民たちがしたように、パウロに犠牲をささげたり、崇め始めたりしませんでした。
なぜでしょうか? 彼らは信心深く見えます。目の前に、人間の姿をとった神様が現れたとなれば、すぐさま祭壇を築き、焚き火から火を取って、焼き尽くす献げ物を供えようとしそうです。正しいことのために、276人の外国人を、すぐさまもてなすような人たちですから、それくらいの行動力はあるはずです。
きっと、誰かが、パウロは神ではないことを伝えたんです。本当の神が誰であるかを教えたんです。パウロが自分で言わなくても、パウロについて、パウロが信じる神様について、証しした人がいたんです。考えられるのは、彼と一緒に命を守られた船員たち、兵士たち、囚人たちです。
彼らの中から、島の住民に、パウロがどういう存在で、自分たちがなぜ助かったか、聞いてきたこと、体験したことを、伝えた人がいたんです。そして、以前の自分と同じように、パウロの信じる神を知らない、救い主イエス・キリストを知らない住民に、自分と出会ってくれた神様を、イエス様を、伝えていったんです。
パウロの言うことを聞かないで、クレタ島を出発した兵士たちや船員たちは、信じないまま、受け入れないままの存在にはされませんでした。彼らがはっきりと「パウロの言うことを信じた」「信仰を告白した」という記述は出てきませんが、各々変化が生まれていきます。兵士と囚人と船員が、檻のない島で一緒に過ごし、互いに焚き火で暖まります。
共に、島の住民のもてなしを受け、逃亡したり、逃亡を防ぐため殺したりすることなくパウロの傍についています。島の人々も、彼らをもてなしながら色々聞いていったでしょう。どこから来たのか? 何があったのか? どうして、あの暴風で、船が打ち上げられたのに、全員無事で済んだのか?
問われた者たちは、キリストに遣わされた弟子たちのように答えます。どのようにしてパウロと出会い、パウロからイエス様について教えられ、それを信じなかった自分たちがなお励まされ、助けられ、変えられてきたことを……いつの間にか、自分たちもイエス様を信じないでは、いられなくなっていることを。
こうして、蛇に咬まれてなお生きているパウロの姿と、パウロと一緒に守られた船員たち、囚人たち、兵隊たちの姿を見て、島の住民たちも、神様と、イエス様と出会っていくことになりました。彼らも、パウロを「人殺し」と思ったまま、「神様だ」と思ったままにはされません。パウロがなぜ、遣わされたのか知る者になっていきます。
さらに、このシーンはちょうど、イエス様と、イエス様の弟子たちの間で起こった出来事をなぞるように、物語が進んでいきます。初めは、イエス様がどんな存在か分からないで、漁師をしていたシモン・ペトロが、弟子として歩み始めた後、熱を出した姑を癒してもらったことがありました。
ここでも、8節以下で、パウロたちをもてなしてくれた島の長官プブリウスが、熱病に苦しんでいる父親を癒してもらうシーンが出てきます。これは単に、パウロが奇跡を起こした報告ではありません。この島の住民も、キリストの弟子の一人にされたという象徴的な出来事を伝えています。
最初はパウロが誰か分かっていなかった人々も、彼のことを「人殺しなのか神なのか」と的外れな考えを抱いていた人も、そのままにはされなかったんです。パウロやペトロが分からないまま、間違ったままにされなかったように、一人一人に出会っていく、一人一人を新しくする、イエス様との出会いが、こうして伝えられているんです。
あなたにも、この方は自分との出会いをもたらしてくださいます。日々、聖霊を送ってあなたを新しくしてくださいます。そして、あなたと出会う人、あなたを知る人たちに対しても、新たな生き方をもたらします。その恵みを共に受けとめ、共に味わい、共に伝えていきましょう。賛美と感謝と祈りをささげ、希望を分かち合いましょう。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(福岡県北九州市の若松浜ノ町教会)のために、岐阜地区のために、中部教区のために、日本基督教団のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆福岡県北九州市の若松浜ノ町教会のために祈ります。3月に退任された牧師の上に、あなたの労いと祝福がありますように。後任の牧師が無事に見つかり、会衆一人一人の信仰生活が支えられ、新たな出会いが導かれますように。
◆岐阜地区のために祈ります。田瀬、付知、坂下、蘇原、中濃、飛騨高山、各務原教会の上に、済美高校、中部学院大学の上に、附属幼稚園、桐ヶ丘幼稚園、光の子保育園の上に、あなたの恵みとお支えが、これからも豊かにありますように。
◆中部教区のために祈ります。富山・石川・福井・岐阜・愛知・三重に属する諸教会、伝道所の上に、あなたの慈しみがありますように。各地区にある幼稚園、保育園、学校、高齢者施設の上に、あなたの助けが豊かにありますように。
◆日本基督教団のために祈ります。全国の教会と関係施設、会衆と教師、児童や生徒の上に、あなたの導きがありますように。それぞれの課題や問題に向き合う力と、周りの助け、必要な変化が豊かにもたらされますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌12番「信じたくても」(©️柳本和良)を歌います。
主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。なお、来週の水曜日は、『会わずにはいられない』と題して、使徒言行録28:11〜20のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。