ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『捜しても見つからない』ヨハネによる福音書7:32〜39

日曜礼拝 2024年5月12日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(詩編124:8)

 

讃美歌

旧讃美歌の81番「めぐみのひかりに」を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆慈しみ深い私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの母なる神様。今年も母の日を迎えました。この時期に、両親との関係で悩んでいる子や、子どもとの関係で悩んでいる親、どちらかを見送った人たちの上に、あなたの慰めがありますように。どうか今、全ての人に、暖かい励ましがもたらされますように。

◆私たちの父なる神様。ウクライナとロシア、パレスチナとイスラエルをはじめ、あちこちで起きている戦争が、一日も早く止められますように。どうか今、子どもたちや市民の犠牲がこれ以上増えないように、助けてください。

◆私たちの友なる神様。岐阜地区の働き、中部教区の働き、日本基督教団の働きが、今年度、誠実に導かれますように。どうか今、一人一人の声が大切にされ、困っているところと助け合いながら、宣教の業を進めていくことができますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書7:32〜39(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編46:1〜12(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

讃美歌21の404番「あまつましみず」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

PatによるPixabayからの画像

メッセージ

 神の子イエス・キリストを捜したことはあるでしょうか? この世で救い主を見つけたことはあるでしょうか? たいていの人は首を横に振るでしょう。聖書に書いてある救い主は、十字架にかかって死んだあと、3日目に甦り、その40日後に天へ昇っていかれたから、もう地上にはおられない、捜しても見つからない……そう思うかもしれません。

 実際、ヨハネによる福音書には、イエス様ご自身が、人々に向かってこう言ったことが書かれています。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

 この言葉には、二つの意味がありました。一つ目の意味は、まもなく、自分は十字架にかかって殺されるが、遺体を葬った後、墓を捜しても見つけることはできない……死んだまま、動かないままの自分は見つからない……復活した自分が会いに来るまで、誰も、私がどこにいるのか、知ることはできない、という意味です。

 実際、イエス様が十字架にかかって死んだ後、墓を見に行ったマグダラのマリアや弟子たちは、誰一人、墓の中にイエス様を見つけることはできませんでした。墓の外に立っているイエス様に出会っても、最初はそこにいるのが誰なのか気づきませんでした。イエス様から近づかれ、イエス様から呼びかけられて、初めて、この方がどこにいるのか気がつきます。

 もう一つの意味は、自分が帰るのは、この世の国や土地ではなく、自分を遣わした神の国、天の国だから、地上を捜すあなたたちは、見つけることができない……自分がこの世で生まれた場所や、訪れそうな場所を捜しても、見つけることはできない……誰も、私が行く場所を、目で見ることはできない、という意味です。

 実際、復活したイエス様が、40日後に天へ昇っていったとき、山の上まで来た弟子たちは、誰も、その後をついていくことができませんでした。ただ、天を見上げることしかできませんでした。来たる日に、イエス様から迎えられ、イエス様から招かれて、初めて、この方がいる場所へ帰ることができます。

 もちろん、まだイエス様が十字架にかかって死ぬことや、3日目に復活して、天に昇ることを知らない人たちは、何を言っているのか分からなくて、思わず疑問が漏れてきます。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」

 確かに、イエス様は地上にいるとき、色んなところへ行っていました。関わりを持てば汚れてしまうと思われていた異邦人のところにも、神から罰を受けていると思われた病人のところにも、律法を守れなかった罪人のところにも行っていました。異教の民との混血が進んだ地域にも、地元を支配する役人にも会いに行きました。

 きっと救われるはずがない、罪が重すぎて滅ぼされる……そう思われていた人たちに、救いを語りに行く様子は、イエス様ならあり得そうに感じます。ところが、人々の予想に反して、イエス様が教えに行こうとしたのは、離散しているユダヤ人やギリシア人といった範囲に収まりませんでした。

 パルティア、メディア、エラムにいる者、メソポタミア、ユダヤ、カパドキアにいる者、ポントス、アジア、フリギアにいる者、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方、そして、ローマから来た者や、クレタ、アラビアから来た者に至るまで、あらゆる者のところへ、救いを語りに行こうとします。

 それが、イエス様が聖霊を送って、弟子たちがあらゆる国の言葉で話し始めたペンテコステの出来事です。来週、5月19日に、ちょうどその日を記念する日曜日を迎えますが、イエス様が行こうとする場所、救いをもたらそうとする場所は、いつだって、人々の予想のつかないところでした。

 なにせ、聖書に記されるこれらの場所は、既にその時代、滅んでいたり、明らかに無茶な距離だったり、教えに行けるわけがなかった場所でもありました。しかし、時を越え、場所を越え、あらゆる隔たりを越えて、イエス様は聖霊を送り、救いを受け取るよう教えに行くんです。

 確かに、イエス様が「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言った言葉は本当です。同時に、イエス様の方から、わたしたちのいる所へ来てくれること、聖霊を送ってくださることが、改めて告知されていました。イエス様は、自分の命が狙われていることを知りながら、祭りの最後の日に叫びます。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」……この言葉は、イエス様が自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について語ったものであると書かれています。

 信じた人が受ける“霊”と言えば、聖霊を指していると、教会に通ってしばらく経つ人は思うでしょう。でも、自分の中に、生きた水が流れ出ていると感じる人は、少ないかもしれません。聖餐式で杯を受け取っても、愛餐式で水を受け取っても、相変わらず、弱ったままの自分がいる。力が溢れ出てくれない。そういう人もいるかもしれません。

 自分の中に、イエス様が送ってくださる聖霊を捜しても、見つからない。感じることができない。ペンテコステが近づいてくると、こういう感覚にしばしば苦しめられる信徒もいると思います。しかし、生きた水の流れは、キリストの送ってくださる“霊”は、確かに、あなたの中にも流れているんです。

 思い出してください。イエス様が“霊”を受けたときは、どんなときだったか……ヨハネによる福音書19章34節には、息を引き取ったイエス様が、兵士の一人に、槍で突かれた場面が出てきます。そのとき、槍で刺されたイエス様のわき腹から、すぐ血と水とが流れ出てきました。

 十字架にかかって亡くなったイエス様の体から、水が流れ出てきます。「その人の内から」水が流れ出てきます。頭を垂れて、息を引き取って、力を失ったように見える、イエス様の内側から、生きた水が流れ出ます。このときこそ、イエス様が神様の栄光を受け、“霊”が降った瞬間でした。

 おそらく、その場に居た人たちは、誰も、イエス様の遺体から出てきた水を「生きた水」とは思わなかったでしょう。死んだ人から出てきた水です。血と一緒に出てきた水です。刺された場所から、水が流れてきたイエス様に、力強さや生命力を感じた人は、いなかったと思います。

 しかしそのとき、イエス様は神様から“霊”を受けていました。3日目に復活し、再び弟子たちへ会いに行く力をもらっていました。そして、あなたの中にもやって来ます。あの日、“霊”を受けたイエス様が、力を失い、死んでいるようにしか見えなかったように、今日、“霊”を受けているあなたも、自分から流れ出ているものが、「生きた水」には見えていないかもしれません。

 しかし、紛れもなくあなたには、その血と一緒に、生きた水が流れています。イエス様が時を越え、場所を越え、あらゆる隔たりを越えて、あなたの中に入ってきます。自分の中に捜しても、イエス様が、聖霊が、見つからないとき……弟子たちも、自分からは、捜しても見つけられなかったことを思い出してください。

 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない」……それは決して、あなたのそばにイエス様がいないからではありません。あなたが聖霊を受けていないからではありません。むしろ、見つけることができないとき、既に、イエス様はあなたのもとに来ているんです。あなたを救いに来ているんです。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」……さあ、あなたも受け取りなさい。

 

讃美歌

オンライン賛美歌3番「閉じこもる私たちに」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖句と主題

御着席ください。新年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。

 

年間聖句

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」

 

年間主題

華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章18節を今年度の年間聖句にしています。

 

今週は、再任された役員、新しく就任された監事、奉仕者一人一人のために祈り、芽含幼稚園に新しく来た子どもたちや先生を覚えて、共にとりなしていきましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

変化と回復をもたらす私たちの神様、あなたから受ける言葉によって、私たちは新しく生かされます。今から後、私自身の生き方が変えられていくしるしとして、ここにささげた供え物を受け入れてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネによる福音書7:38)

 

祝 福

平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソの信徒への手紙6:23〜24)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった17名、同時に視聴された4名、計21名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週のペンテコステ礼拝は、『聞けるはずないのに』と題して、エゼキエル書37:1〜6と使徒言行録2:1〜11のお話をします。神の祝福を分かち合う「愛餐式」も行います。普段、一緒に聖餐を受けることのできない信徒の家族や友人も、よかったらお誘いください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。