ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『これから一人になるけれど』ヨハネによる福音書16:25〜33、ローマの信徒への手紙8:31〜39

日曜礼拝 2024年5月5日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

主をたたえよ。日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神。(詩編68:20〜21)

 

讃美歌

旧讃美歌の81番「めぐみのひかりに」を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆まことの王である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先週の日曜日は、教会総会を開き、無事に全ての議案と役員選挙を終えることができました。どうか今、再任された役員と、全ての奉仕者、そして、新たな目標を立てた会衆に、あなたの支えと導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。今月半ばには、中部教区総会が、月末には、岐阜地区の総会が開かれます。華陽教会のみならず、各地に建てられた教会一つ一つの課題と重荷を一緒に担っていけるように、私たちを遣わしてください。

◆私たちの神様。震災からしばらく経って、今なお、不便な生活を強いられている能登半島の方々に、あなたの助けがありますように。どうか今、必要な知恵と力が、人手と物資が、適切な形で集まってきますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書16:25〜33、ローマの信徒への手紙8:31〜39(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編8:1〜10(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。

 

讃美歌

讃美歌21の481番「救いの主イェスの」を歌いましょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

Leszek StępieńによるPixabayからの画像

メッセージ

 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」……神の子イエス・キリストが、弟子たちに見捨てられる前、言い残した言葉がありました。わたしをひとりきりにする時が来る。わたしを置いていき、自分の家に帰って、閉じこもってしまう時が来る。

 それは、「あなたはわたしを裏切るだろう」「わたしを見捨てて逃げるだろう」「最後までついてくることはできないだろう」という失望に取れる言葉でした。あなたには期待できない、信じられない、まもなく離れてしまうのだ……という非難のようにも思えます。でも、この言葉は明らかに、弟子たちを責めるために言われたものではありません。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」「勇気を出しなさい」これから自分を裏切る人に、自分を見捨てて逃げる人に、吐き捨てる言葉として聞くには、あまりに場違いな言葉です。イエス様は、自分を一人にしてしまう弟子たちへ、希望と励ましを与えるために、最後のメッセージを語りました。

 不思議です。最後まで、自分に味方してくれない、自分を見捨てて離れる人へ「わたしはあなたの味方だよ」とメッセージを残すんです。しかも、一方的に「あなたがわたしを信じなくても、わたしはあなたを信じている」というメッセージじゃありません。「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたから」と仰います。

 本当でしょうか? 弟子たちはイエス様が神のもとから出て来たと信じていたんでしょうか? 本当にそう信じていたなら、どうして敵を恐れ、逃げ出してしまうことになったんでしょう? 本当にそう信じていたなら、どうして「死んでから3日目に復活する」という言葉を信じないで、家に帰って閉じこもってしまったんでしょう?

 さらに、イエス様から「今、世を去って、父のもとに行く」と言われた弟子たちは、不安に思う様子もなく、平然と言い放ちました。「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」……まもなくわたしはこの世を去る、と言われているのに、全然心配していません。

 本当に分かっていたんでしょうか? イエス様がこのあと世を去って、自分たちがついていけない場所へ行く、死という隔たりの向こうへ行くと、分かっていたんでしょうか? 分かっていたなら、もっと慌てる気がします。「先生、わたしたちを置いていかないでください」「この世を去るなんて言わないでください」「そんなことあってはなりません」と。

 実際、他の福音書では、イエス様がこの世を去る……十字架にかけられて、3日目に復活すると聞かされたとき、弟子たちは戸惑い、恐れ、悲しむ様子を見せていました。あるいは、本気にしないで「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と大口を叩く弟子もいました。

 実のところ、「本当にそんなことは起きないだろう」と思っていたかもしれません。この方が、敵の命を取るためでなく、全ての人を救うために、自分の命を献げるなんて、考えられなかったかもしれません。弟子たちが信じていたのは、死を覚悟して、敵を倒そうとする王であって、敵さえ自分の命で救おうとする王ではなかったかもしれません。

 それなのに、イエス様は彼らに対し、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたから」父ご自身も、神ご自身も、あなたがたを愛していると言いました。どう見ても、弟子たちは分かっていないのに……この後どうなるか、どうすればいいのか、分かっていないのに。

 さらに、弟子たちが「今、分かりました」「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と答えると、イエス様はこう言います。「今ようやく、信じるようになったのか」……そして、冒頭で話したように、彼らが自分をひとりきりにしてしまうこと、自分を見捨てて、散り散りになって逃げていくことを語ります。

 ほら、分かっていなかったじゃないですか? 「今ようやく」というなら、この時まで彼らは信じられていなかった、ということですよね? さらに、この後もイエス様を見捨て、敵を恐れて逃げ出すのなら、やっぱり、イエス様が神のもとから来た方だと、恐れずについていけば言い方だと、分かっていなかったということですよね?

 にもかかわらず、イエス様は最初から、弟子たちが自分を愛し、自分のことを信じているから、父なる神もあなたがたを愛していると語ります。自分を信じ切れずに逃亡するのに、ひとりきりにして離れていくのに、彼らのために希望と励ましを語ります。あなたたちはわたしを一人にするけど、わたしのことを愛している。わたしのことを信じている。

 わたしはひとりきりにされるけど、父なる神が、共に居てくださる。わたしをひとりにしない神が、あなたたちのことも愛している。だから、元気を出しなさい。あなたたちに苦難があっても、それは、神様があなたたちを捨てたからではない。あなたたちに不幸があっても、それは、あなたがひとりにされたからではない。

 わたしがあなたと共にいる。わたしは既に世に勝っている。イエス様は、自分を見捨てて離れる弟子へ、そのようにおっしゃいました。それは、理解できていない者、信じ切れていない者さえ、自分から引き離されることはない、という宣言でした。たとえ、わたしを捨てて、信仰を失ったように思えても、わたしはあなたと共にいる……と。

 ローマの信徒への手紙には、こんな言葉がありました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」この言葉は真実です。だれも、イエス様の愛から引き離すことはできません。実際、弟子たちは、イエス様を捨ててしまったにもかかわらず、イエス様とつながり続けることができました。離れたままにされませんでした。

 イエス様の方から、死を超えて、復活して、会いに来てくださったからです。自分が復活したことを信じられない弟子たちに、自ら姿を現してくださったからです。信じない者には信じられるまで、理解できない者には理解できるまで、付き合い続けてくださるからです。この方自身が、あなたへの期待を、信頼を捨てません。

 「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」……そのとおりになりました。そのとおりになるまで、神様は私たちに出会い続け、呼びかけ続け、誰にも引き離されないよう、守り続けます。閉じこもる一人一人の前に現れ、新たな力をもたらします。

 神様は、あなたに失望されません。あなたと一緒に喜べる日を、誰よりも信じて、招き続けます。私たちが期待さえできない変化を、この方は実現させてしまいます。どうか、不安を抱え、恐れを抱き、自信を失っている一人一人に、良い知らせが届きますように。神のもとから来られた聖霊が、豊かに注がれますように。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌3番「閉じこもる私たちに」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、必ず自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願い致します。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、福音書は伝えています。復活の主は弟子たちと食事の席に着いたとき、パンを取り、祝福してそれを割き、お渡しになった。すると、弟子たちの目が開かれ、それがイエスだと分かった。

 

主は、絶望した者の目を開き、信仰が揺らぐ者を支え、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、この場にいる人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16:33)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された 名、計 名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

なお、5月は26日に飛騨高山で地区総会が、19日に芽含幼稚園の理事会が入るため、第三日曜日に行っている「ぶどう園の集い(旧オリーブ会)」と「ヒラソルの会」をお休みにし、6月の第三日曜日から開始したいと思います。

 

また、第三金曜日に行っている「キリスト教ABC講座」と「聖書の学びと祈りの会」も、牧師の出張と重なっているため、第2金曜日に移動し、5月10日(金)に開かれます。お間違いのないよう、ご注意ください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。