ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『軽んじられないように』テモテへの手紙4:6〜16

聖書研究祈祷会 2024年7月31日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の552番「若い日の道を」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけて歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆恵みの源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。先日の日曜日には、済美学院、金城学院、名古屋学院の生徒たちと、新しく出会うことができ、感謝致します。どうか今、初めて来てくれた人、続けて来てくれた人、それぞれに、あなたの祝福が豊かにありますように。

◆私たちの神様。日曜日の午後には、一生懸命準備してきたリードオルガンミニコンサートに、多くの方を招いてくださり、感謝致します。どうか今、新しく出会えた人たちと、奉仕を担ってくださった一人一人に、あなたの慈しみが豊かにありますように。

◆私たちの神様。今週、就任式を迎えた飛騨高山教会に、あなたの恵みがありますように。どうか今、就任された白砂誠一先生と、隠退された大塚信明先生と、新しいスタートを切った会衆、信徒、子どもたちの上に、あなたの導きが豊かにありますように。

◆信仰と希望と愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。テモテへの手紙4:6〜16の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Jo KnopfによるPixabayからの画像

メッセージ

 テモテへの手紙は、名前のとおり、宣教者パウロが自分の弟子テモテへ宛てた個人的な手紙として書かれています。しかし、実際には、パウロの弟子たちが後世の教会で読まれるように、パウロに教えられたこと、みんなで積み重ねてきたことを、パウロからテモテへの手紙という形で、残したものと考えられます。

 ということは、テモテ個人に向けられているメッセージも、一個人だけでなく、現在の教会指導者や、指導者を迎えた会衆にも、向けられている言葉と言えます。確かに、1章から4章にかけて、指導者の在り方や、奉仕者の選び方、それぞれの心構えなど、明らかに、教会全体で共有されることを願って書かれたものになっていました。

 それは、今回読んだ記事も同じで、テモテに向けて語っているように見せながら、同時に、テモテを迎える会衆に向けて、一緒に指導する長老に向けて、教会全体に向かって、語っている言葉になっています。その中でも、指導者と会衆、双方が、ドキッとする言葉がありました。

 「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」……軽んじてはならないし、軽んじられてはならない……ものすごく、砕けた言い方をするなら、「嘗めてはならないし、嘗められてはならない」という話でしょうか?

 何で、ドキッとするかと言えば、自分の責任を、立場の重さを、強く感じさせる言葉だからです。まだ若いからという理由で、軽んじられているようなら、奉仕者の責任を果たせていない、信心の鍛錬ができていない……そのように、責められている気持ちになります。若さを理由に、甘えていてはいけないと、警告されているんだろうか?

 ちなみに、使徒言行録やコリントの信徒への手紙を読んで、テモテがパウロの弟子になってから、パウロが晩年になるまでの年月を考えると、テモテはこの時点で、少なくとも30代になっていたと思われます。それでも、教会では「若者」と見なされていたようです。もちろん、後期高齢化社会ではありませんから、30代が若者とはちょっと意外です。

 どうやら、初代教会も、かなり年をとった人々に指導されていたようです。現在の日本における教会事情と重なるところがありますよね? その中で、自分は「若いから」という理由で、軽んじられないようにできているか? 信じる人々の模範として、きちんと振る舞えているだろうか? と問われるわけです。

 まあ、バッチリ30代の私にとっては、耳が痛い話です。もう7年になりますが、主任担任教師、一発目の教会として赴任してきた新人教師……「まだ若いから」という理由で大目に見てくれないか? と考えたことがなかったとは、正直言えないと思います。最初の総会や役員会でのしどろもどろな自分を振り返ると、やっぱり恥ずかしくなってきます。

 今だって、教会の中では若い方なので、それを理由に甘えたくなる瞬間が、ところどころでやってきます。経験が浅いから、成長途中だから、あまり多大な期待はしないでください、そんなに持ち上げないでください、と言いたくなります。「自分を低くして」「謙虚になる」と言えば聞こえはいいですが、むしろ、色々背負うのが怖いんです。

 もしかしたら、テモテをはじめ、各地の教会へ遣わされる、若い指導者もそうだったのかもしれません。「私はまだまだ未熟です。むしろ、皆さんから学ばせてください」「自分はまだ、先生と呼ばれる段階ではありません。皆さんの力を貸してください」そうやって自分を低くするつもりが、軽んじてはならないものまで軽んじていたのかもしれません。

 自分には、積み重ねられたものなんて「無い」かのように、教師として、しっかりと立てる力が「無い」かのように振る舞いながら、私のために、見えない力を積み重ね、支えてきた方の手を、振り払っていたのかもしれません。「わたしの軛を負いなさい」というイエス様に、「わたしは軛を負えません」と拒絶していた自分がいます。

 手紙の著者は、テモテをはじめ、様々なスケールで指導者として立てられた者に、「教えなさい」「命じなさい」という言葉を繰り返し残しています。これは、私にとって、あまり好きな言葉ではありません。「教える立場」「命じる立場」に自分を置く、ということが、何だか上から目線のような、神に成り代わる者のような、不吉な感じがするからです。

 しかし、反面、自分が「教える」「命じる」ことに対する私自身の嫌悪感には、「信頼の無さ」が隠れています。正しく教えられない者が、教える者となるように、正しく命じられない者が、命じる者となるように、過ちを正し、方向を正し、付き合い続けてくださる方が、私と共におられることへの、信頼の無さ。

 パウロは弟子たちに言いました。「あなたの内なる恵みの賜物を軽んじてはなりません」そう、軽んじてはなりません。どんなに経験が浅くても、どんなに頭が回らなくても、私の内に、言葉と力と気づきをもたらす神様が、私を内から動かします。語れなかった者が語れるように、祈れなかった者が祈れるように、私たちを新しく立てられます。

 さらに、パウロは弟子たちに思い出させます。「その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」そう、ただの人である私たちが、神様の言葉を教える者、神様の教えを命じる者とされたとき、送り出してくれた手がありました。それは、自分と同じように、神様に立てられ、支えられてきた人の手です。

 牧師の按手を受けたとき、伝道師をしていた教会の先生が、私の頭に手を置いてくれました。私がどんなに拙くて、どんなに足りない者か知っている人が、「行きなさい」「わたしもあなたを遣わす」と送り出してくれました。私がどんな失敗をし、どんな課題を抱えているか、見てきた教会の人たちが、「行ってらっしゃい」と送り出してくれました。

 それは、ここで私を迎えてくれた、華陽教会の皆さんも同じです。初めて、主任担任教師として、代表役員として遣わされたとき、「この先生、大丈夫かな?」と不安を露わにされてもおかしくないはずでした。まだ若くて、経験も浅くて、社会に出たこともない人間に、「先生」と色々聞くことは、抵抗があってもいいはずでした。

 しかし、私は華陽教会に来てから、「若いから」という理由で、軽んじられた経験が一つも思い出せません。初めての総会、初めての葬儀、初めてのコロナ禍で、私が右往左往していたときも、「先生、どうしましょう?」「教えてください」と心から信頼して、頼ってくださいました。私が迷うときも、あきれないで、一緒に考えてくださいました。

 たぶん、私が牧師になれたのは、私が牧師でいられたのは、皆さんが、私を牧師にしたからです。もし、私の言葉や行動が「信じる人々の模範」になり得ているとしたら、それは皆さんが、私にはたらく神様を信頼し、受け入れてくれたからです。皆さんが、私を「教える者」「命じる者」の使命から、イエス・キリストの軛から、離れないよう、繋ぎ止めてくれたからです。

 だから、皆さんは私の模範です。いつか、私が隠退教師になるときの、若い指導者を迎えるときの、信徒と会衆の模範です。キリスト・イエスの立派な奉仕者の皆さんへ、神様の祝福が豊かにありますように。互いに、新たにされ続け、これからも支え合っていけますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている鹿児島県奄美市の名瀬教会のために、若者のために、中年者のために、年長者のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆鹿児島県奄美市の名瀬教会のために祈ります。奄美の伝道協力がいっそう深まりますように。平和を求め、被災地・被災教会のために、祈りを合わせる人たちの願いが、実現されますように。

◆若者のために祈ります。進路や就職、人間関係で悩む若者に、あなたの慰めと気づきがありますように。新しいことに挑戦している人や、初心に返って励む人に、豊かな励ましと支えがありますように。

◆中年者のために祈ります。心を病んだり、体の調子を崩した人に、あなたの癒しがありますように。みんなから頼られ、なかなか弱音を吐けない人、自分自身の頼るところがない人に、あなたの助けがありますように。

◆年長者のために祈ります。心身の衰えや障害によって、自信を失くしている人に、あなたの憐れみがありますように。一人になることが多い人に、新しいつながりや隣人がもたらされますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌2番「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。なお、来週の水曜日は、『本当のやもめ?』と題して、テモテへの手紙5:1〜16のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。