ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『無意味な詮索』テモテへの手紙一1:1〜11

聖書研究祈祷会 2024年6月5日


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案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の342番「神の霊よ、今くだり」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけて歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆力の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。ここ最近の集中豪雨や台風によって、被害を受けた地域や家庭に、あなたの憐れみがありますように。どうか今、困っているところ、傷ついているところに、必要な助けがもたらされますように。

◆私たちの神様。1月の震災から、復旧に向けて歩んでいる能登半島の人たちに、あなたの慈しみがありますように。特に、無理をしている人、燃え尽きてしまった人、それぞれに、安息と励ましがもたらされますように。

◆私たちの神様。来週には、花の日こどもの日の日曜日を迎えます。華陽教会の教会学校では、パンと水を分け合って、神の祝福を分かち合う「愛餐式」も行います。どうか今、これから出会う全ての子どもたちに、あなたの祝福が豊かにありますように。

◆一人一人を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。テモテへの手紙一1:1〜11の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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bohedによるPixabayからの画像

メッセージ

 華陽教会では、今年度「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、より多くの人にこの教会を知ってもらい、地域の人が立ち寄りやすい場所になることを目指しています。その一環として、聖書研究祈祷会でも、「牧会書簡」と呼ばれる手紙を読みながら、華陽教会の牧会について、見直していきたいと思っています。

 「牧会」というのは「プロテスタント教会で、牧師が信徒を導くこと」を指していますが、もう少し広い意味でいうと、「牧師と信徒、信徒と信徒が共同して、互いを支え、みんなを導くこと」を指しています。それは、群れを導く羊飼いが、先頭に立つだけでなく、群れからはぐれて孤立しないよう、様々な配慮をするのと似ています。

 怪我を負ったり、体調を崩したり、獣に狙われている羊はないか? お腹を減らし、迷子になって、倒れかけている羊はないか? あるいは、羊飼いのふりをして、羊を攫いに来た野盗たちに、騙されかけている羊はないか? そういうことに配慮して、群れ全体を支えることを「牧会」と言います。

 そして、地域に建てられた教会は、その地域全体の「牧会者」でもあります。怪我を負い、悩みを抱え、途方に暮れている羊たちが、「あそこに助けを求めよう」と身を寄せられる羊飼い……羊たちが迷わないよう、今どこにいるか教えてくれる牧会者……そのようにこの教会も、近づき難い場所ではなく、安心して来られる場所になりたいと願っています。

 実は、こういった牧会について、詳しく言及しているのが、これから読んでいく「牧会書簡」です。テモテへの手紙一とテモテへの手紙二、そしてテトスへの手紙がそう呼ばれています。この3つでは、教会の組織や信徒の導き方について、大きな関心が払われており、宣教者パウロから、各地へ派遣された教会指導者への手紙という形を取っています。

 ただし、これらはパウロの死後、2世紀ごろに書かれたと考えられており、パウロの弟子たちが、パウロから聞いたこと、教えられたことを消化して、教会で起きている様々な問題に対処するため、彼の名を借りて記したものと言われています。おそらく、手紙を受け取った人たちも、パウロ本人が直接書いたものではないと分かっていたでしょう。

 当時の社会では、優れた先人の弟子たちが、その名を借りて文書を執筆することは珍しいことではなく、その先人に敬意を表する行為でもありました。かなり乱暴なたとえですが、優れた作品に対して、リスペクトを持った作家たちが、二次創作を残していくのを考えたら、分かりやすいかもしれません。

 そして、テモテへの手紙は、パウロから、パウロの協力者であったテモテに宛てた手紙として、冒頭に挨拶が出てきます。テモテは使徒言行録16章に出てきたパウロの弟子でユダヤ人の母親とギリシア人の父親から生まれたリストラ出身の人でした。使徒言行録によれば、異邦人の間では、評判の良い人だったようです。

 ただし、その地方に住むユダヤ人からは、父親が異邦人のギリシア人であったことから厳しい目に晒されているようでした。「異邦人に割礼(男性の包皮を切り取って、神の民に加えられたことを表す儀式)を施す必要はありません」と強く訴えていたあのパウロが、テモテを連れていくために、みんなの前で、割礼を受けさせる決断をしたほどです。

 確かに、ギリシア人と言えば、私たちでも「ギリシャ神話」がパッと頭に浮かぶようにテモテの血筋はユダヤ人にとって「異教の人」というイメージが、なかなか拭えないものだったでしょう。少し過激な言い方をすると、本当の神ではない「作り話」を信じている外国人から生まれた者……という印象を持たれたことになります。

 ところが、そんなイメージをもたれる青年が、エフェソの教会で「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」指導する者として選ばれます。日本語の古文を、アメリカ人の先生が教えに来るような、教えられる側からすると、「この人が先生なんだ……」と驚くような人物が派遣されるわけです。

 さて、テモテへの手紙では、挨拶に続いて冒頭から「異なる教えについての警告」が語られていました。偽りの教えを戒めるために、どのような指導者が選ばれ、指導者はどのような責任を負うべきか、細かく述べられていきます。ただし、肝心の「偽りの教え」「異なる教え」がどのようなものかは、あまり具体的に語られません。

 大きなヒントと思われる「作り話や切りのない系図」という言葉は、「神話や切りのない系図」とも訳せるため、神々の系図が延々と伝えられる、ギリシャ神話そのものをイメージするかもしれません。しかし、ここで言う「作り話」や「系図」は、ユダヤ教のあり方を念頭においたものと思われるので、旧約聖書の解釈に関係している可能性が高いです。

 これらは「無意味な詮索」や「無益な議論」「空論」に迷い込ませてしまうと言われているので、今でいう「陰謀論」に近かったかもしれません。現代でも「キリストの生まれ変わり」や「現代の使徒/預言者」を自称して、その正当性を聖書の系図や記述から、無理やりこじつけている人がいますが、初代教会でも似たようなことがあったのでしょう。

 実は、聖書というのは、少しコツを掴めば、旧約からでも、新約からでも、それっぽい記述を抜き出して並べ、「この幻は、昨年の地震のことを指している」「このたとえは、あの国の大統領を意味している」「ここの預言は、○年に生まれた私について言っている」ともっともらしく言えてしまう、取り扱い注意な書物なんです。

 一方で、多くの人からすると、上手くいかない世の中で、今何が起きているのか? これから何が起きるのか? 上手くいくためにどうすればいいのか? シンプルに答えをくれる指導者は、非常に魅力的に映ります。複雑な聖書の記述から「これはこういう意味で私たちはこうすればいい」と教えてくれる存在は、便利ですよね?

 そう、私たちは、あらゆる問題が何のせいで起き、解決のためにどうすればいいか、多くの要素が重なっている現実を無視して、「全ては○○のせい」「○○すれば全て解決」という教えに、従いたくなる誘惑があります。その一つが、古代から現代に至るまで根を張っている「律法主義」や「原理主義」です。

 「上手くいかないのは、掟を字義どおり守らないから」「掟を忠実に守れば、病も、貧困も関係性も、全て解決する」……そうして、病に苦しむ人の先祖に、どんな罪人が存在したか? 不幸が絶えない人の家に、どんな因縁が存在したか? 家系を遡って示し、救われるためにこれをしなさい、あれをしなさいと言い始めれば、もう立派な霊感商法です。

 パウロからエフェソの町へ派遣されたテモテも、父方は異教の神を崇めていた異邦人の家系です。「彼を指導者に迎えれば、この教会は汚れてしまう」「先祖の罪に触れてしまう」そう主張して、自分のようなユダヤ人の指導者を迎えなければダメだ! と語った教師もいたかもしれません。「彼を追い出すことこそ、教会が繁栄する道だ」と。

 もしかしたら、そういうふうに、分かりやすい解決策や、問題の原因を語った方が、悩んでいる人、苦しんでいる人を集めやすいかもしれません。あそこに行けば、病が治る、未来が分かる、物事が上手く進んでいくと、宣伝しやすいかもしれません。でもそれは、偽りの教えで、健全な牧会ではないんです。

 迷った羊を集めるために、狼が出たと脅したり、牧草に火を放ったりして、羊たちを、不安と恐怖に迷い込ませてはいけないんです。律法を、聖書の掟を、正しく用いるということは、自分たちの正統性を主張するために使うのではなく、自分たちの過ちを、共に悔い改めるため、共に歩み直すため、神の掟に照らされるということなんです。

 今日から読み始めた牧会書簡……この後も、現代の私たちと重なることや、今では問題視せざるを得ない様々な言葉が出てきます。その一つ一つを丁寧に読み進めながら、この地域における牧会を、教会全体で考えていければと思います。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」……アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(長崎県佐世保市の佐世保教会)のために、災害に遭った人のために、事故に遭った人のために、病気になった人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆長崎県佐世保市の佐世保教会のために祈ります。持続可能な教会のあり方について、模索している人たちに、知恵と力がもたらされますように。毎月行われている話し合いに、実りがもたらされますように。

◆災害に遭った人のために祈ります。地震、台風、豪雨、積雪、噴火、虫害、旱魃など、各地で起こった災害のために苦しんでいる人たちへ、復旧と復興がもたらされますように。それぞれ必要な助けと物資が届きますように。

◆事故に遭った人のために祈ります。様々な事故に巻き込まれ、怪我や障害を負った人、心に傷を負った人に、癒しと励ましがありますように。生活の地盤が整えられ、新たな希望がもたらされますように。

◆病気になった人のために祈ります。突然の病や長期にわたる症状によって、痛みを覚えている人に、あなたの慰めがありますように。適切なケアと治療がもたらされ、十分な休息とリハビリの環境が与えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。なお、来週の水曜日は、『私が手本にされちゃうの?』と題して、テモテへの手紙一1:12〜20のお話しをします。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。