ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『本当のやもめ?』テモテへの手紙5:1〜16

聖書研究祈祷会 2024年8月7日

www.youtube.com

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の372番「幾千万の母たちの」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆平和をもたらす神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。先日の日曜日には、平和聖日を迎えて、教会に集まった人たちと、主の食卓を囲むことができました。どうか今、直接、礼拝へ来ることができなかった人たちにも、あなたの力がもたらされ、新しく生きていくことができますように。

◆私たちの神様。再来週の日曜日は、牧師の夏期休暇のため、隠退教師の鈴木重正牧師がメッセージをしてくださいます。どうか今、鈴木先生とご家族の上に、教会を守る奉仕者の上に、そして会衆一人一人の上に、あなたの導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。肺や心臓、喉や手足に、困難を覚えている人や、身内が熱を出し、治療の最中にある人へ、あなたの助けがありますように。どうか今、それぞれに必要なケアとサポートがもたらされ、癒しと回復を得ることができますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。テモテへの手紙5:1〜16の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

www.bible.or.jp

Ben KerckxによるPixabayからの画像

メッセージ

 「教会は家族のようでありなさい」……そのようなメッセージが、度々、牧会書簡から聞こえてきます。キリスト教会は、初期の頃から、同じ信仰を持つ者同士「兄弟」「姉妹」と呼んできました。それは、信仰者がキリストに連なる家族であることを思い出させ、互いに愛し合うためのキーワードにもなっていました。

 ところが、現在、家族を取り巻く問題は、かなり複雑になっています。暴力を振るい、人格を否定してくる親を持つ子ども……反対に、子どもから罵倒され、暴力を振るわれている親……望んでいない結婚を、周りに強いられる女性……そういった人たちが、テモテへの手紙一5章を読んだとき、どんな感情を抱くのか、正直、怖くて聞けません。

 「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」……このように勧められて、素直に従おうと思えるのは、父親との関係が、ある程度良かった人でしょう。少なくとも、父親から愛されている自覚のある、父親に愛情を抱ける人でしょう。でも、父親に愛情を抱けない人、父親に愛された記憶のない人は、どうしたらいいか分かりません。

 「若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」……この勧めも、素直に受け入れられるのは、兄弟と、母親と、まともな関係が築けている一部の人に留まるでしょう。兄弟との関係が最悪な人、母親から虐待を受けていた人、姉妹に裏切られてきた人は、なかなか飲み込むことができません。

 「やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです」……一般論としては、そうだと思います。ある程度、社会保障制度が充実した現在でも、夫を亡くした母親を、一人にしたまま放置することは、褒められた話ではありません。

 公的な社会保障制度の欠けていた、古代社会では尚更です。やもめになった、未亡人になった母親を、子どもたちが世話しなければ、まともに生活することは、ほぼ不可能な環境でした。当然、自分の親が食べるに困り、着るのに困り、住むにも困った状況でいるのを、子どもたちが放置することは、人として欠けた行為になるでしょう。

 けれども、親と関係を切りたい子どもの中には、関わることで、自分の人生を破壊されてきた人もいます。子どもの頃から、人格を否定され、歪んだ支配を受け続け、大人になって、やっと解放されたところで、今度はその世話を頼まれる……お金を無心され、家事を押し付けられ、それが当然のように振る舞われる。

 いわゆる「宗教二世」の相談窓口では、そんな子どもたちの悲痛な叫びが繰り返し届けられています。親と縁を切りたい。でも、家族だから扶養の義務がある。誰かに相談しても、「あなたの親なんだから」という理由で、問答無用で助けるように促される。このままじゃ、心が、魂が、壊れてしまう。

 特に、鋭く突き刺さるのは、8節に出てくる言葉です。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」……もし、この言葉を振りかざして、人生をぐちゃぐちゃにされてきた子どもたちへ、両親の世話を強要するなら、その人に対する人格否定へ、加担することになるでしょう。

 相手を「兄弟」「姉妹」と思って接していくということは、その人が抱える家族の問題も他人事にしないということです。私の家族の問題じゃない、あなたの家族の問題です……と、その人の立場を、背景を、顧みないなら、結局、こちらの方が、相手を兄弟姉妹と思えていない、大事にしていないことになります。

 私がこの人の兄弟で、この人の親が私の親なら、どんな言葉をかけるだろう? どんな向き合い方をするだろう? 兄弟の人生が壊されないように、親の生活を保障するには、どんな方法があるだろう? そうやって、一緒に調べていくことが、周りに頼っていくことが、本当の兄弟姉妹になっていく……ということじゃないかと思います。

 一方で、援助を受けるやもめの方も、厳しい言葉が出てきました。「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」新共同訳ではこうなっていますが、原文通りに近い、聖書協会共同訳では「本当にやもめである人をやもめとして大事にしなさい」となっています。「本当のやもめでない」と見なされた人は、教会で援助を受けられなかったみたいです。

 新共同訳が意訳したように「身寄りのないやもめ」こそが、教会で援助を受けられる「本当のやもめ」であり、身寄りがある場合は、原則、援助を受けられませんでした。しかし、親によっては、子どもから暴力を振るわれたり、過剰に自由を奪われたりして、身寄りのない方がマシだったかも……と思う人たちが出てきます。

 身寄りはあるけれど、あそこで世話を受けることになれば、二度と教会に来させてもらえません……訪問も許してもらえません……そういう状況に悩むことは、教会にいれば、必ず出てくる問題でしょう。「身寄りのないやもめ」の定義も、律法主義のように、一様に当てはめればいいものではなく、状況によって、捉え直す必要があるでしょう。

 実際、イエス様の母親であるマリアは、文字通り、身寄りのないやもめではありませんでした。早い段階で、夫ヨセフに関する記述が出てこなくなるため、既に、夫に先立たれていた可能性はありますが、イエス様の兄弟たちが生きていました。にもかかわらず、イエス様は十字架上で、弟子のヨハネに、母マリアの世話を託します。

 単に、身寄りがあるかないかで、本当にやもめである人か、世話を受けてもいい人か、杓子定規に決められたわけでないことは、想像に難くありません。現代でも、家族全員が信仰を持っていることは珍しいように、初代教会でも、信仰を持った家族が、信仰を拒絶した家族から、縁を切られ、追い出されてしまったケースがあったでしょう。

 おそらく、身寄りはあるけれど、家族は頼れないというやもめたちが、一定数いたはずです。その者たちも、一様に、身寄りがあるかないかで、教会の世話を受けられるか受けられないかが決められてしまったとは思えません。むしろ、家族の世話に無頓着な信者に対し、まずは自分の家族を顧みているか、振り返らせる言葉として受けとめるべきです。

 とはいえ、9節以下には、よりドキッとさせられる規定が出てきます。「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、良い行いによって認められている人でなければなりません」……これでは、良い行いをしてきたと認められなかった未亡人は、援助を受けられないことになります。

 また、やもめの条件には「子供を育て上げたとか、旅人をもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善行に励んだ者でなければなりません」とも続きます。一見、子どもを持てなかった女性は、援助を受けられる、本当のやもめとして認められない……というふうに読めてしまいます。

 ただし、ここで言う「子供を育て上げた」という言葉は、自分自身の子どもを育てることではなく、むしろ、一般的に子どもの面倒を見ること、特に、両親を亡くした子どもたちの世話をすることを指しています。子どもが苦手な人にとっては、ハードルが高く感じるかもしれませんが、面倒を見るというのは、何も、直接子どもたちと触れ合うだけではありません。

 一昔前、色んな教区の婦人会でも、子どもたちの布おむつを縫ったり、学校で使う雑巾を縫ったりして、地域の子どもたちへ貢献していたことがありました。教会におけるやもめの人たちは、単に、世話を受ける対象ではなく、様々な形で、頼られる存在でもあったことを思い出させます。

 かつて、古代社会で、最も非生産的な、役に立たない存在として見なされていた人たちを、教会は「善い行い」の担い手として、頼れる存在として迎え、そのことを本人たちにも自覚するよう促していました。やもめの登録は、援助を受けたいという利己的な動機から濫用されるものではなく、「良い行い」の担い手として、神の民に迎えられたことを示すものでもありました。

 どちらと言うと、修道女のような制度に近かったかもしれません。現に、年若いやもめなど、再婚の可能性がある女性は、やもめとして登録することができないことになっていました。再婚すれば、「前にした約束を破ったという非難を受けることになる」と書かれていますから、「残りの生涯を神様にささげ、キリストに仕えて暮らします」というような、何らかの誓約があったのかもしれません。

 そして11節から挙げられる、若いやもめが陥りやすい状態は、実際のところ、やもめに限った話ではありません。「若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者の悪口の機会を一切与えないことです」という指示も、女性の役割を固定化する、時代錯誤的なものを感じますが、これも、そのまま、現代に適用することが正しいわけではありません。

 3章では、監督の職や奉仕者の務めに就くことで、ステータスを得ようとする人たちへ警告の言葉が語られていました。5章でも、やもめの登録を受けることで、特典を得ようとする人たちへ、その期待がずれていることを告げています。むしろ、やもめの登録を受けた人たちが、単に、教会の財源を切り崩している者ではなく、楽をしている者ではなく、対等な姉妹として迎えた者たちであることを伝えています。

 互いに愛し合うため、兄弟姉妹として、家族として支え合うため、教会がどのように、人と人との関係を築いていくか、現在も問われ続けています。安易に、聖書に書かれていることを、そのまま適用するのではなく、一つ一つの記述が、どのような背景で、何を求めて記されたのか、神様に問いかけながら、誠実な関係を築いていきたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている鹿児島県鹿屋(かのや)市の鹿屋伝道所のために、平和のために、自由のために、回復のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆鹿児島県鹿屋市の鹿屋伝道所のために祈ります。朝の礼拝と夕方の礼拝が、これからも豊かにされていきますように。近くにある自衛隊の基地が、戦争に使われることのないように、災害や人道支援のために用いられますように。

◆平和のために祈ります。各地で起きている戦争が、一刻も早くなくなって、これ以上、犠牲になる人が増えませんように。停戦に向けて、諸国の国々も協力することができるように、私たちの間を取り持ってください。

◆自由のために祈ります。人権を蔑ろにされ、自由を奪われている人たちに、あなたの助けがありますように。思想信条、出身やルーツ、性的指向や性自認を理由に、差別や迫害を受けている人たちに、理解と解放がもたらされますように。

◆回復のために祈ります。事故や事件、災害や暴力によって、深く傷つけられた人たちにあなたの癒しがありますように。生活の基盤が整えられ、心身のケアがもたらされ、仲間と希望が与えられるよう、導いてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌25番「住む家のないわたしたちに」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。

 

よかったらぜひ、ご参加ください。なお、来週の水曜日は、『長老と会衆』と題して、テモテへの手紙一5:17〜25のお話しをします。その次の週は、牧師の夏期休暇のため、お休みです。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。