ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『結ばれてほしいけど』サムエル記上1:19〜28、ヨハネの手紙一2:22〜29

日曜礼拝 2024年6月9日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。(ハバクク書2:1)

 

讃美歌

旧讃美歌の81番「めぐみのひかりに」を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆全ての者を成長させる神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日は、花の日こどもの日の礼拝です。子どもたちの誕生と成長の喜びを分かち合うため、みんなで花を飾って、あなたの祝福を受け取ります。どうか今、全ての子どもたちに、あなたの恵みと慈しみが、豊かに注がれますように。

◆私たちの神様。今日は、礼拝の中で、子ども祝福式を行います。どうか今、教会学校や芽含幼稚園の子どもたち、会衆の子どもたち、地域の子どもたち、そして、配信を見て、祈りを合わせる全ての家庭の子どもたちに、あなたの愛が、豊かに響きますように。

◆私たちの神様。被災した家族、事故にあった家族、貧困に苦しむ家族、戦争に巻き込まれた家族に、あなたの憐れみがありますように。どうか今、傷つき、困っている子どもたちに、あなたの癒しと回復が、豊かにもたらされますように。

◆子どもたちを支えてくださる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。サムエル記上1:19〜28、ヨハネの手紙一2:22〜29(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編16:7〜11(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の189番「ちいさいこどもの」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

svklimkinによるPixabayからの画像

メッセージ

 子どもたちに教会へ来てほしい、洗礼を受けてほしい、同じ信仰を持ってほしいと願ったことのある人は、教会を見渡せば、いくらでもいるでしょう。私の親も、「教会へ行きなさい」「洗礼を受けなさい」と強制したことは、一度もありませんでしたが、来てほしいんだな、受けてほしいんだな、という思いは、ヒシヒシと伝わりながら育ちました。

 そりゃそうです。神様を信じて救われた、支えられてきた人なら、我が子にも、信じて救われてほしい、この支えを知ってほしいと、願って当然だからです。共に信仰を与えられ、永遠の命を受けて、神の国、天の国へ迎えられるよう、うちの子も教会に結ばれますように……そう願わない人はいないでしょう。

 でも、信仰を押し付けてしまったら、かえって暴力になってしまう。本人の選択によってではなく、家族の支配によって、無理やり教会へ来させたら、異邦人に割礼を強要し、「偽教師」と呼ばれたキリスト者と、変わらない過ちに陥るでしょう。イエス様が弟子たちに命じた洗礼は、力や恐怖によってではなく、愛によって導くものだからです。

 そう、教会に結ばれてほしいけど、なかなかストレートにいかないのが、親の悩みかもしれません。反対に、子どもの方が洗礼を受け、親を教会へ誘いたいけど、最初から拒絶されてしまう、どう誘ったらいいか分からない……という人たちもいるでしょう。焦らずゆっくり向き合おうと思っても、聖書から、胸を刺すような言葉が聞こえてきます。

 「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」……救い主イエス・キリストも、父なる神の存在も認めない、教会へ来ない我が子のことを思い出す。そうなったのは、自分のせいかもしれないのに、その子が「反キリスト」と言われたら、辛くて仕方ありません。

 「御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」そう命じられているけれど、キリストの体である教会に、留まっていない子どもたち、イエス様を神の子と告白してない我が子のことは「仲間じゃない」と言われるんだろうか? 「反キリスト」と言われるほど、憎まれているんだろうか?

 もちろん、そんな極端な話じゃありません。そもそも、子どもたちって素直なことより反抗することの方が多いですよね? 小さい頃は、礼拝の間じっと静かにしていることもできません。我慢できなくなってふざけたり、「外へ行きたい」と泣き出したり、一緒に座っている大人たちに、私もたくさん迷惑をかけました。

 きっと、イエス様のもとへ連れてこられた子どもたちも、ふざけて服を引っ張ったり、目の前を走り回ったり、伸ばされた手を払ったり、すごかっただろうなと思うんです。今みたいに、幼稚園も学校もありません。聖書の勉強が嫌いだった子もいたでしょう。知らないおじさんに手を置かれたら、泣き出す子だっていたでしょう。

 せっかく、我が子を祝福してもらおうと、イエス様のもとへ連れてきたのに、「嫌だ!」「怖い!」「帰りたい!」と駄々をこねる子どもだって、相当いたと思うんです。弟子たちはそんな様子を見て、子どもを連れてきた人々を叱ってしまいます。けれど、イエス様は自分を認めない子も、拒絶する子も、「反キリスト」と言わないで、こう言いました。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された……たぶん、よだれをつけられたり、手を払われたりしながらも……さらに、イエス様はこうも言っています。

 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」……いったいいつ、子どもたちは神の国を受け入れたんでしょう? イエス様のもとへ連れて来られた子どもたちが、イエス様の教えを大人しく聞いた話も、イエス様を神の子と信じて告白した話も、聖書の中には出てきません。

 「子供のように神の国を受け入れる」も何も、子どもたちが、神の国を受け入れた具体的なエピソードは、一つも書かれていないんです。分かっているのは、「人々が子供たちを連れて来た」ことと、イエス様が「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」ことだけです。子どもたちの心情や反応は書かれません。良い子だったかも分かりません。

 むしろ、子どもたちの反応として考えられるのは、キョトンとしていたり、ふざけていたり、泣いたり、笑ったりしていることでした。信仰が何かも分からない子たちが、人々に連れられて、イエス様に抱き上げられます。最初は「イヤイヤ」して、泣き喚いていた子たちが、根気よく、手を置いて祝福するイエス様に、だんだん興味を持ち始めます。

 幼稚園で、2歳以下の子どもに会うと、最初はすぐにソッポを向かれることが多いです。神学生の頃は、目が合っただけで泣き出した子もいて、ものすごく焦らされました。でも、毎週顔を合わせているうちに、近づいたり離れたりしているうちに、子どもの方から、タッチしてくれるようになってきます。ゆっくり受け入れて、近づいてきてくれます。

 最初に読んだサムエル記には、エルカナとハンナの子どもが、一生を神に仕える者として、神殿に預けられる話が出てきました。その後歌った賛美歌「ちいさいこどものサムエルは」では、少し成長したサムエルが、神様の呼ぶ声を何度も聞いたエピソードが語られます。

 実は、少年サムエルが神様の声を聞いたとき、すぐにそれが、神様の声だと分かったわけではありませんでした。小さい頃から神殿で育てられているのに、「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」とはっきり聖書に書かれていました。

 もしかしたら、この時のサムエルは、本当に神様がいると信じていなかったのかもしれません。心のどこかで疑って、神様の声を聞きたいとも思えなかったのかもしれません。神殿に預けられた彼は、毎年、母親が縫った上着を届けられていましたが、一年に一度しか、両親と会える機会がありませんでした。

 どうして、お母さんと一緒に暮らせないのか? なぜ自分だけ、神殿に置いていかれたのか? 神様がいるなら、自分を家族のもとに返してくれないのはなぜなのか? まだ幼い少年が、すぐに神様を認められなかったとしても、不自然ではありません。しかし、神様は、自分を知らない、信じていないサムエルに、何度も声をかけました。

 「サムエルよ、サムエルよ」……神様が自分を呼んでいると分からない、認められないサムエルは、自分を引き取った祭司エリが呼んでいるんだと思い込み、何度も「お呼びになったので参りました」と寝ているエリを起こします。エリは「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言いますが、3度目になって、これは神様の仕業だと気づきました。

 「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」エリからそう言われ、ようやくサムエルは、神様の声だと分かり、認めます。素直に、まっすぐに、神様を受け入れられなくても、近づいたり、離れたりしていても、神様は、自分を受け入れるまで、子どもたちに、私たちに、出会い続けてくれるんです。

 結ばれてほしいけど、なかなか結ばれない……そんな誰かのことを、思い出している人たちへ、聖書は新しい言葉を語ります。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」

 そう、神様は初めから、繰り返し、私たちに呼びかけています。イエス様は繰り返し、私たちを抱き上げます。三度、自分を知らないと言われても、復活した自分に気づかなくても、自分だと分かるまで、「わたしの主、わたしの神よ」と答えられるまで、呼びかけ、出会い、抱きしめてくださいます。

 だから、安心して、神の祝福を受けてください。子どもたちに祝福を宣言してください。サムエルの成長を、弟子たちの成長を、思い出してください。キリストに結ばれる日は、必ずやってきます。語り続ける声が聞こえてきます。新しいことが始まっています。今や、それは芽生えています。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌6番「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

こども祝福式[i]

本日は、花の日こどもの日の礼拝として、子ども祝福式を行います。教会に集まった会衆と配信をご覧になっている各家庭の大人から、ご自分と関わりのある子どもたちに向けて、神様の祝福を一緒に告げていただければと思います。

 

(牧師に直接、手を置いて祈ってほしいご家族は、子どもを連れて前へお越しください。今座っている場所で、そのまま祝福を受けていただいても大丈夫です。)

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書10:13〜16(新共同訳より抜粋)

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 

祈 祷

共に祈りを合わせましょう。(*希望者がいる場合は、手を置いて祈る)

 

私たちに命を与えてくださる神様。今日まで、子どもたち一人一人の成長を導いてくださり、感謝致します。家族から、周りから、たくさんの愛を受けてきた子どもたちも、十分な愛を受けられなかった子どもたちも、あなたの祝福を待っています。

 

自分に自信が持てない子も、家族と上手くいかない子も、友達がなかなかできない子も、あなたは必要とされています。どうか今、悩んでいる子、苦しんでいる子に、あなたの助けがもたらされ、安心して眠り、十分に食べ、必要な教育を受けて、この世へと出ていけるよう、周りの大人を用いてください。

 

そして、子どもたちに、上手く接することができない人、思うように、愛を伝えられない人も、あなたの助けによって、新しい関係を築くことができますように。子どもたちに、新しい発見、新しい出会い、新しい変化がもたらされ、幸せな人生が送れますように。

 

一人一人を招かれる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

祝 福

どうぞ、教会に集まっている方、配信を見ている方は、ここにいる子どもたちと、ご自分に関わりのある子どものために、神様の祝福を宣言しましょう。ご家族や差し支えない相手であれば、頭や肩に手を置いて、祝福の言葉を告げましょう。

 

「神さまの祝福が豊かにありますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン」

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

私たちの神様。ここにささげた献金を、あなたの心に適う形で用いることができますように。教会の働きと私たち一人一人の良心をこれからも導いてください。そして、あなたの栄光が、ますます豊かに現され、神の国の平和が告げ知らされますように。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。(A)のところは牧師が、(B)のところは会衆が、(全員)のところは一同で歌います。差し支えない方はお立ちください。

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。(ヨハネの手紙一2:24)

 

祝 福

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(讃美歌21の93-7-6:創世記28:15より)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった18名、同時に視聴された6名、計24名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

また、今日は有志の方々が、礼拝堂に飾るお花を持ち寄ってくださいました。よかったらこの後、集まった花を分けたいと思うので、お家にいる方やお見舞いに行きたい方、友人や知人のために、お持ち帰りいただければと思います。

 

なお、来週の日曜日は、礼拝後、ハレルヤランチを挟んで、「ぶどう園の集い」と「ヒラソルの会」が開かれます。昼食を食べて行きたい方、その後の学びや分かち合いに参加したい方は、どなたでも出席できます。よかったらぜひ、ご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

 

[i] 以下、「こども祝福式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅱ)』日本キリスト教団出版局、2009、2015を参照し、手を加えたものを載せています。