宗教改革記念礼拝 2025年10月26日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
私たちの主、また神よ/あなたこそ/栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ/万物はあなたの御心によって存在し/また造られたからです。(ヨハネの黙示録4:11)
讃美歌
旧讃美歌503番「はるのあした」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆聖霊の送り主である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。今日は、10月31日の宗教改革記念日を覚えて、みんなで祈りを合わせる礼拝を行っています。どうか今、かつて分裂してしまった全ての教会が、和解と一致を目指して歩むことができますように。
◆私たちの神様。この教会が持っている課題、私たち一人一人が抱えている課題に気づかせ、共に、改革し続ける群れとして、私たちを導いてください。どうか今、変えるべきものを変える勇気と、変えてはならないものを守る分別をもたらしてください。
◆私たちの神様。来週は、地上の礼拝と天上の礼拝が、あなたによって一つにされていることを覚え、召天者記念礼拝を行います。どうか今、召された人を見送った全ての人に、あなたの慰めが豊かにあって、共に、天の国で再開する希望を与えてください。
◆全ての者を新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。創世記2:15〜25の新共同訳を朗読します。会衆席にある旧約聖書3頁です。
同じく、創世記2:15〜25の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の旧約聖書2頁です。お持ちでない方は新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編19:1〜7、新共同訳交読詩編の24頁です。
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『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の314番「神の国の命の木よ」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

メッセージ
今日は、10月31日の宗教改革記念日を覚えて、一足先に、宗教改革508年目の記念礼拝を行っています。宗教改革と言えば、贖宥状(いわゆる免罪符)の販売や、聖職者の地位の売買などで腐敗した教会の運営を問い直し、抜本的な改革が目指された出来事です。同時に、そういった問題につながってしまう聖書の捉え方についても、見直す作業が行われてきました。
その一つが、救いは人間の努力や功績によってではなく、ただ、キリストを信じる信仰によってもたらされるという「信仰のみ」の原理に現れています。皆さんも、高校の世界史か倫理の授業で、「聖書のみ」「信仰のみ」「全信徒祭司制(いわゆる万人祭司)」という宗教改革の三大原理を耳にしたことがあるでしょう。
この「救いは信仰によってのみもたらされる」という宗教改革の原理は、キリスト教の「罪」の理解と深く関係しています。ちょうど、先ほど読まれた聖書箇所、創世記2章17節で、神様から「食べると死ぬ」と言われた木の実をアダムとエバが食べた話が、まさに人類最初の「罪」と関係している話でもありました。今日は、キリスト教で言う「罪」について、宗教改革の歴史と聖書の言葉から、一緒に振り返りたいと思います。
キリスト教でいう「罪」とは、単に犯罪を犯すことではなく、神様から離れて自分自身を絶対視したり、神様から与えられた良心に反する行動をしたり、正しいと信じて的外れな行為をしたり、心の中で悪いことを考えたり……というふうに、あらゆる「悪」「正しくない状態」が含まれます。
また、キリスト教の罪は「善の欠如」とも言い表され、意図的に悪いことをしていなくても、悪い状態を放置したり、苦しんでいる人を助けないことなども「罪」に数えられたりします。そして、罪のない、贖われる必要のない人間は一人もいないと考えられ、人間が生まれた頃から持っている罪のことを「原罪」と呼んでいます。
古典的な理解では、「原罪」は、どんなに善い人でも、生まれたばかりの赤ちゃんであっても持っており、最初の人間アダムとエバが神の言いつけに背いて善悪の知識の実を食べたことで、彼らの子孫全体に「罪」が及んだと考えられています。
ただし、最近では、「原罪」の教えをそこまで強調しない教会もあります。また、カトリックやプロテスタントなどの西方教会と違い、正教会をはじめとする東方教会では、今日に至るまで「原罪」について厳密な定義を行うことや、教理として教えることを避けてきています。
そして、西方教会の「原罪」の理解にも幅があり、古代から現代に至るまで、様々な解釈が存在しました。最も有名なのはアウグスティヌスの捉え方で、彼は「アダムから遺伝した罪が人類全体に受け継がれてしまうようになった」と主張しました。皆さんも「原罪」と聞いたら何となく、最初の人類アダムとエバから、現代の私たちに至るまで、遺伝し続けている罪のこと……というイメージがあるでしょう。
ただし、この考え方は、原罪の理解としては非常に古いもので、キリスト教系の破壊的カルトは、こういった古いタイプの「罪の遺伝的解釈」を取り入れているところが目立ちます。代表例を挙げるなら「自分たちの先祖の罪が、自分たちに遺伝して、この世の不幸を招いており、教祖の言うことを聞いて罪を浄化しなければ、あの世へ行っても地獄に堕ちる」などの捉え方です。
しかし、現代では、多くのキリスト教会で「先祖の罪が遺伝する」という原罪理解は取らなくなってきています。どちらかというと、「アダムとエバが神の言いつけに背いて以降、この世に罪が蔓延し、人類は誕生したその瞬間から罪を避けられない世界に生きている」という理解です。
たとえるなら、先祖が作った公害によって大気が汚染された世界に生まれてくる人間は、汚染の影響を受けずに生きることはできない、というようなものです。排気ガスの出る車を使わずに、二酸化炭素を出す電気製品を使わずに、生活することがほぼ不可能なように構造的に罪を犯さずにはいられない世界ができている、と言ってもいいかもしれません。その世界で、罪に汚染されないように生きようとしても、自分の努力だけでは罪を避け切ることができないように、誰もがキリストの贖いを必要とします。
そして、このような「罪からの救い」を考えるとき、避けては通れないのが、「人間はどのようにして救われるのか?」という問題です。よく、神の愛を「無償の愛」というけれど、人間は神の一方的な恵みによって救われるのか? それとも、人間の側の努力が必要とされるのか? と気になったことがある人も多いでしょう。
先に結論を言ってしまうと「私たちは、神の一方的な恵みによって救われる」というのが、キリスト教の一般的な見解で、宗教改革以降、より重視されてきた考え方です。けれども、人間の側が何の条件も課されずに、救われるなんて信じ難い……と納得しない人たちもたくさんいました。
たとえば、5世紀のはじめ頃には、ペラギウスという人が、人間の道徳的責任の必要性を強調し、救いは善い行いによって獲得されるという「功績による救い」を訴えました。良いことをしないで救われるなんて変だよね?……とうふうに、一見、納得しやすい教えに感じます。
しかし、「人間は自分で自分の救いを獲得できる」(自分で自分の罪を償いきれる/自分で自分の罪を精算できる)と傲ってしまう楽観的な側面や「ここまでしないと救われない」決めつけて人々を裁いてしまう「律法主義」に陥りやすい側面が、課題として出てきます。有名な使徒教父であるアウグスティヌスはこれに反対し、救いの源は神のみにあって、救いの過程を始めるのは人間ではないという「恵みによる救い」を教えました。
ようするに、人間が自分の救いについて主導権を取れるという考え方は間違っていると批判したわけです。つまり、「がんばって献金しなければ救われない」とか「がんばって奉仕しないと救われない」といった教えは、キリスト教としては間違った教えということになります。しかし、救いは善い行いによって獲得されるのか、神の一方的な恵みによってもたらされるのか、という議論はその後も続き、16世紀の宗教改革で再燃することになりました。
当時の人々の間では、死んだあと天国へ行くために、各々の罪に応じて罰を受け、清めの苦しみを受ける期間「煉獄」が存在すると信じられていました。そして、善行を積み、奉仕や献金を行うことで、その期間や苦しみが軽減され、努力すれば、煉獄で罰を受けずに天国へ行けると思われていました。
やがて、その考えは「贖宥状を買うこと(献金や寄進など良い行いをすること)で、罪が赦され、天国へ行ける」と短絡的に受けとめられるようになり、教会もそれを利用して積極的に献金集めをしていました。言わば、アウグスティヌスが否定したはずの「功績による救い」という考え方が、形を変えて現れてしまったわけです。
そこで、宗教改革者マルティン・ルターは、救いは人間のあらゆる功績とは関係なく、神の恵みによって、信仰を通して個人にもたらされるという「信仰義認」を主張しました。「義認」というのは、救いに値する正しさを持っていない者が、神から正しい者として受け入れられることを意味します。
ルターは、人間が自分の意志や力によって、救いにふさわしい「正しい者」になることはできないと強調し、あくまで、神の恵みによって「正しい者」とされ、救われるというふうに力説したわけです。
今日読んだ、創世記2章でも、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神様の言葉がありましたが、アダムとエバは、この約束を守ることができませんでした。
3章で、2人は蛇から「食べても決して死ぬことはない」「その実を食べると、神のように賢くなる」と言われて食べてしまいます。確かに、2人は善悪の知識の実を食べても、死ぬことはありませんでした。「食べると死ぬ」と言われていたのに、何ともなかった話を聞いて、神様は嘘をついたのか、疑問に思った人もいると思います。
しかし、宗教改革500周年を記念して作られた聖書協会共同訳の聖書では、「取って食べると必ず死ぬことになる」と訳されているように、この言葉は、「その実は食べられない毒がある」というような意味ではなく、「食べたら死刑だ、分かっているな?」というニュアンスを含んだものになっています。
けっこうあからさまに、「食べるなよ」「絶対に食べるなよ?」「食べたら死ぬことになるからな?」と釘を刺されていたんです。にもかかわらず、アダムとエバは、蛇の言葉を聞いて木の実に手をつけ、神様との約束を破ってしまいました。この後に待っているのは、約束を守らなかったことによる死刑のはずでした。
けれども、「食べたら死ぬ」と宣言した木の実を食べた2人に対し、神様は食べ物を得るとき苦労すること、子どもを産むときの痛みが増すことを告げますが、死刑は宣告されません。よく見ると、2人がこの後、「約束を破ってすみませんでした」「ごめんなさい」と神様に謝るシーンは出てきません。
人間が神様に謝って、献げ物をするようになるのは、まだ先の話でした。神様が、2人をゆるしたのは、アダムとエバが悔い改めたから、謝ったからではありません。何世代か先まで謝れない人間に対し、それでも生きていってほしい、滅びないでほしいと、手を伸ばし続ける神様の姿がそこにあります。
宗教改革500周年を記念する今日、改めて、憐れみ深い神様の恵みを思い起こし、信じない者、従えない者が、信じる者となるように、従う者となるように、どこまでも付き合い続ける方に、賛美と祈りをささげましょう。栄光が、世々限りなく、あなたにありますように。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌27番「あなたはわたしの避け所」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。華陽教会では現在も文語の使徒信条を使っていますが、今回は、宗教改革を記念して、口語の使徒信条を告白したいと思います。『讃美歌21』の93-4Bか、オンライン賛美歌の後方3頁に載っている口語訳をご覧ください。使徒信条。

紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。華陽教会では、普段は文語訳を使っていますが、今回は、宗教改革を記念して、オンライン賛美歌4頁右側の『日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳』を祈りましょう。差し支えない方はお立ちください。

聖句と主題
御着席ください。今年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」
年間主題
華陽教会では、「信仰継承を考える」というテーマで、マルコによる福音書10:14を今年度の年間聖句にしています。
今週は、この後行われる教会研修会を通して、キリスト教の終末観を振り返り、子どもたちに対して誠実で、健全な信仰継承ができるように、言葉を整えていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
主なる神さま。あなたがくださるたくさんの恵みの中から、感謝の献げ物をします。私の生き方と共に用いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」4節を歌いましょう。
讃美歌
讃美歌21の24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。(差し支えない方は、お立ちください)
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。(讃美歌21の93-6-6)
祝 福
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(讃美歌21の93-7-6 創世記28:15より)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された 名、計 名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜礼拝は、召天者記念礼拝です。『負いきれない罪』と題して、創世記4:1〜12のお話をする予定です。この日は、私たちが地上で神様を礼拝するとき、天に召された方々も、天において共に礼拝していることを思い起こし、亡くなった方々の写真を飾ります。
礼拝後には、車で10分ほどの上加納墓地にて、短い墓前礼拝を行います。どなたでも参加できるので、共に、亡くなった人を思い起こして、天の国で再び会える希望を分かち合いたいと思います。
なお、本日はこの後、ハレルヤランチを挟んで「キリスト教の終末観」というテーマで、教会研修会が開かれます。いわゆる「宗教二世」問題や、悪質な宗教勧誘を防ぐために、避けては通れないテーマなので、時間のある方はぜひ、ご参加ください。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。