ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『鍵をかけていたのに』 ホセア書6:1〜3、ヨハネによる福音書20:19〜29

礼拝メッセージ 2018年4月8日

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【少年とサンタの話】

 ある冬の晩、幼い少年が部屋の中に閉じこもって、じっと耳を澄ませていました。かなり季節外れな話ですが、12月24日、クリスマス・イブのことです。彼はサンタクロースが来るのを待ち構えて、直接プレゼントを受け取ろうと、夜中まで起きていたのです。しかし、少年はたいへん臆病でした。もし、夜中に泥棒がやってきたらどうしよう? サンタクロースでなくて、幽霊が出てきたらどうしよう? 

 

 いつもなら、とっくに寝ている真夜中の時間、少年はつい怖くなって、部屋に鍵をかけてしまいます。これでは、サンタクロースが家に来ても、少年の部屋には入ることができません。鍵は少年と、彼の家族しか持っていなかったからです。少年は分かっていました。サンタの足音が聞こえてきたら、すぐに鍵を外して、中に入れてあげなければならないことを。でももし、その足音がサンタじゃなかったら? 違う何かの足音だったら? 本当に部屋に入れてもいいのだろうか……。

 

 しばらくして、少年の耳に誰かの足音が聞こえてきました。期待と不安が入り混じった気持ちが一気に押し寄せてきます。少年は鍵のかかった扉の前まで行きました。しかし結局……扉の外にいるのが誰か分からず、開ける勇気が出てきません。そして、鍵を開けようかどうか悩んでいるうちに、彼は疲れ切って、そのままドアの前で眠り込んでしまったのです。

 

 朝起きると、いつの間にか少年はベッドにいました。彼は失望します。昨日の夜、部屋の戸に鍵をかけたまま眠り込んでしまった……サンタを自分の部屋に入れてあげることができなかった……きっと困ったサンタは、そのままプレゼントを持って帰ってしまったに違いない。しかし、扉の前で眠り込んでしまったのに、自分はいつ、どうやってベッドに入っていたのだろう? 

 

 少年はふと、扉の方を見て驚きます。なんとそこには、大きく膨らんだサンタの袋、自分へのプレゼントが置いてあったのです。鍵をかけていたのに、入れるはずがなかったのに、サンタは自分のところへ来てくれた……少年は驚き、喜んでプレゼントを開けたのでした。

 

【弟子たちとイエスの話】

 さて、私たちが今日聞いた話は、聖書に書いてあったエピソードは、こんな可愛げのある話ではありませんでした。ある家で鍵をかけて集まっていたのは、少年ではなく、大の大人の男たち……元漁師を含む、ごつごつした男性たちが十人以上集まって、何かを恐れ、小さく閉じこもっています。そう、彼らはユダヤ人を恐れて隠れていました。

 

 自分たちの師であるイエス様を捕え、十字架に張り付けて殺してしまった人々……イエス様の仲間であった自分たちも、彼らに捕えられ、殺されてしまうかもしれない。確かに、恐ろしいことでした。サンタを待っていた少年が、泥棒や幽霊を怖がって鍵をかけてしまうより、ずっと現実的で根拠のある恐れからの行動です。

 

 しかし、先週の日曜日にイースターを迎えた私たちは知っています。この前の週に、イエス様は死から甦って、マグダラのマリアに現れていたことを。マリアがすぐに走って行って弟子たちに、「わたしは主を見ました」と告げたことを。けれども、彼らはマリアの言葉に無反応でした。20章で、マリアと一緒に墓の様子を見に行ったペトロともう一人の弟子も、墓が空っぽになっていると知っていたのに、彼女の言葉に何の反応も返しません。

 

 マリアの言葉を戯言だと思ったのでしょうか? 悲しみのあまり幻覚を見たとでも思っていたのでしょうか? いずれにせよ、弟子たちはイエス様の復活を信じず、リーダーのいない状況で途方に暮れ、縮こまっていたのです。ところが、マリアの報告から一週間後、同じ日曜日に、突然イエス様が弟子たちの前に姿を現します。

 

 戸には鍵がかけてあったのに……気がつくと、イエス様は部屋の真ん中に立っていました。呆然とする弟子たちに、イエス様はこう言います。「あなたがたに平和があるように」……本来なら、復活したイエス様に出会った弟子たちが、すぐに喜ぶことはできないはずでした。なぜなら、彼らはイエス様が捕まったとき、すぐに見捨てて逃げてしまったからです。

 

 ペトロに至っては、自分もイエスの仲間かと疑われ、「違う」と3度も答えていました。面と向かってイエス様の顔を見られる人なんて、誰もいなかったのです。ところが、イエス様は彼らが顔を伏せる前に、自分から挨拶をします。「あなたがたに平和があるように」……「なぜ、あの時私を見捨てたのか?」でもなく、「なぜ、マリアの言葉を信じなかったのか?」でもなく、「平和があるように」と声をかける。それが、イエス様の弟子たちに見せた態度でした。

 

 さらに、十字架に釘打たれ、わき腹を槍で突かれたあのイエス様が、本当に甦ったのだと分かるように、イエス様は自分の手と脇腹をお見せになります。イエスの名を騙る偽物などではありません。紛れもなく、自分たちのために十字架にかかったイエス様が、怒りや憎しみではなく、愛と憐れみを持って帰って来てくれた……そのことを知ったから、彼らはすぐに喜ぶことができたのです。

 

【信じない者を遣わす】

 しかも、話はそれだけで終わりません。イエス様は続けてこう言います。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」……全世界に、イエス様の語ってきたこと、やってきたことを伝えさせ、全ての人が神様を信じるよう導く……その使命をあなたがたに与えると言うのです。

 

 ちょっと待ってください。イエス様が遣わそうとしているのは、自分を見捨てて逃げた弟子たちです。さっきまで、マリアの話を聞いても信じず、部屋に閉じこもっていた弟子たち。その彼らを、イエス様は「遣わす」と言います。正気でしょうか? 彼らはちゃんと、イエス様の期待に答えられるのでしょうか? 迫害を恐れず、人々のもとへ出ていけるのでしょうか?

 

 続きを読んでみれば、安易にそれは期待できません。彼らは八日の後、また家の中に居ます。それも、戸には再び鍵をかけて……弟子たちはまだ恐れていたのです。自分たちを捕まえにくるユダヤ人を。死の力にさえ勝利したイエス様の復活を見ても、やはりまだ人々の力が、自分たちを傷つけ滅ぼそうとする力が怖かったのです。

 

 そして、よく考えてみましょう。自分たちが閉じこもって、部屋の戸に鍵をかけるという意味を。イエス様はもう甦っている……この前みたいに、また自分たちへ会いにきてくれるかもしれない。そんな中、戸に鍵をかけている……確かに、イエス様は前回、鍵のかかった扉をものともせずに弟子たちの前へ現れました。しかし、「復活したイエス様が、また自分たちのところへ会いに来るかもしれない」と分かった上で、鍵をかけているのです。

 

 弟子たちは、復活したイエス様と会ってからも、すぐに勇気100倍、汚名を返上する立派な英雄になったわけではありません。むしろ、未だ恐れに囚われて身動きができず、情けない姿を見せてしまう、ダメダメな弟子だったのです。そして、もう一人、不安な人物がいました。それは、他の弟子たちが復活したイエス様と再会したとき、ただ一人そこに居なかった人物……ディディモと呼ばれるトマスです。

 

【一人だけ拗ねるトマス】

 ディディモ、というのは「双子」という意味のギリシャ語です。私も双子の一人ですが、トマスという名前自体が、アラム語で「双子」を意味する言葉に似ていました。そこで、仲間たちからも「ディディモ」というふうに呼ばれていたのでしょう。彼は、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、こう返します。

 

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」……疑り深いトマス、誰よりも頑固だった弟子……そんなふうに言われることの多い彼ですが、果たして本当にそうでしょうか? 他の弟子たちもトマスと同様、皆復活したイエス様を見るまで信じていません。その上、彼は今孤独です。なぜ、自分だけがいないときに、イエス様が現れたと言うのか? なぜ、私にだけは姿を現してくれないのか?

 

 トマスは特別疑り深かったわけでも、頑固だったわけでもありません。同じ立場なら、他の弟子たちだって「そんなの信じられない」と言ったに違いありません。むしろ、彼を見ているとある疑問が出てきます。他の弟子たちがユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけ、家の中に閉じこもっていたとき、トマスはいったいどこにいたのか? みんなが恐れに支配され、身動きできなかったとき、トマスはなぜ外に出ていたのか?

 

 自分も捕まってしまうかもしれないという危険を顧みず、彼が外に出ていた理由……一つ思いつくのは、28節で「わたしは主を見ました」とマグダラのマリアが語った言葉を聞いて、トマスもイエス様の墓を見に行った、という可能性です。そうだとすれば、彼は弟子たちの中で唯一、復活の証言を聞いて、何らかの行動を起こした人物ということになります。

 

 だからこそ、25節のような強い言葉が出てきたのかもしれません。非常に生々しい表現ですが、トマスの切実な望みが表れた言葉です。十字架に釘づけられた両手の跡が、この目にはっきりと見えるほど近くで、槍で刺し貫かれたわき腹に、指を入れることができるほど近くで、俺はイエス様に会いたいんだ……そんな叫びが、私には聞こえてくるのです。

 

 彼は一週間、「わたしたちは主を見た」という仲間の中で過ごしました。非常に居づらかったと思います。自分だけ、イエス様に出会ったという喜びを共有できない。もしかしたら、自分のことをイエス様は嫌っているから会ってくれないのだろうか? そんな疑いも出てきていたかもしれません。しかし、彼は家の中にいました。もう外には出て行きません。実は誰よりも、復活したイエス様と会うために、じっと耐えていた弟子は彼だったのかもしれません。

 

【見ないのに信じるのは】

 八日の後、そんなトマスの前にイエス様は表れます。あの時と同じ、戸に鍵のかかった家の中で、突然真ん中に立って現れる……最初に弟子たちを呼びかける言葉も同じです。「あなたがたに平和があるように」……さらに、イエス様ははっきりとトマスに向かっておっしゃいます。

 

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」……トマスが呟いた言葉を、イエス様は再会する前から知っていました。誰よりもイエス様を近くで見たくて、誰よりもイエス様に触れたくて、思わず口から出てきたトマスの願い……それをイエス様は「さあ、やってみなさい」と言うのです。

 

 先日の日曜日、私たちは復活したイエス様と最初に再会したマグダラのマリアが、まだ触れることを許されていなかったのを聞きました。しかし、今回は違います。イエス様はトマスに向かって、「触れろ」とおっしゃいます。「信じない者ではなく、信じる者になれ」「あなたが望んでいる者となれ」そう命じるのです。

 

 もはや、トマスはイエス様の手の釘跡に、自分の指を入れる必要はありません。イエス様のわき腹に、自分の手を入れる必要もありません。自分の望みを、「本当にあなたに会いたかったんだ」という願いを、イエス様は分かっていてくれた。そう気づいたからです。彼は指を伸ばす代わりにこう言います。

 

「わたしの主、わたしの神よ」……イエス様のことを直接「神」と言い表す告白は、新約聖書の中で10回しか出てきません。その数少ない告白をした一人が、疑り深く、頑固な人物とされてきた、あのトマスだったのです。続く29節の言葉は、イエス様がトマスに向かって語った言葉とされていますが、実際にはどの弟子に向かっても語られている言葉と言えます。

 

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は、幸いである」……弟子たちの中で、イエス様を見ないで信じた者は誰一人いませんでした。これから先、復活したイエス様を見ないのに信じる人がいるなんて、弟子たちは最初、分からなかったのではないでしょうか。なにせ、彼らは復活したイエス様に出会ってからも、戸に鍵をかけて閉じこもっていたのですから。

 

 しかし、この時から2000以上年経った今、どうでしょうか? イエス様を見ないのに信じる人が、どれだけいるでしょうか? マグダラのマリアと11人の弟子たちから始まった、イエス様の復活を信じる者……それが今、ここにも、あそこにも、別の教会にも、世界中のあちこちにいるのです。弟子たちでさえ、見ないと信じられなかった。それなのに、見ないのに信じる者がいる……「幸いだ」としか、言いようがないでしょう。まさに、そのとおりなのです。

 

 私たちは、かつて弟子たちが経験したように、常に様々な恐れに悩まされており、それらにイエス様を信じること、神様を信じることを邪魔されます。せっかく、死に勝利されたイエス様が会いに来ようとしているのに、私たちは心の戸に鍵をかけてしまうのです。しかし、イエス様はそんなことを、ものともされません。

 

 鍵をかけていたのに……今日のタイトルにも挙げた呟きが、ここにいる何人かの心にも漏れたことがあるでしょう。教会に来ようなんて思っていなかったのに……イエス様を信じるつもりなんてなかったのに……それなのに、イエス様は私の中に、気がついたら入っていた。拒絶してきた私のことを責めることなく、「平和があるように」と呼びかけてくださった……。

 

 思い出しましょう。見ないのに信じる人は幸いです。心に鍵をかけていたのに、気がつくとイエス様が入ってきていた人……その人は幸いです。そして、「幸いです」と言われる人は、これからさらに増えていくのです。なぜなら、イエス様は既に皆さんに向かってこうおっしゃられているのですから。

 

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。