ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『それを私に任せます?』 エゼキエル書34:1〜16、ヨハネによる福音書21:15〜19

礼拝メッセージ 2018年4月15日

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【食事の席】

 聖書を読んでいると、イエス様が弟子たちと共に食事をした風景が繰り返し出てきます。ある時は弟子の家に赴いて、ある時は信者の家に招かれて、またある時は敵対していた律法学者の家にまで入って行って、イエス様はみんなと食事をされます。嫌われ者と食事をすることもありました。罪人と呼ばれる人たちと同じ席に着いて、ひそかに非難されることもありました。イエス様が食事をされた場面では、たいていその後、何か議論や事件が起きました。

 

 イエス様が十字架につけられて殺される前夜もそうでした。最後の食事のとき、イエス様は「わたしがぶどう酒にパン切れを浸して与える者が、わたしを裏切る」と言いました。弟子たちはざわめきました。しかし、そこまで言われておきながら、彼らは自分たちの中の誰が裏切るのか分かりませんでした。

 

 その場でペトロはイエス様に「あなたのためなら命を捨てます」と言い切りました。しかし、イエス様は「いや、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告しました。

 

 そして実際、食事の後、イエス様は弟子の一人であったユダに裏切られ、敵の手に引き渡されてしまいます。「あなたのためなら命を捨てます」と言い切ったペトロをはじめ、他の弟子たちも皆イエス様を見捨てて逃げてしまいます。食事の席……それは弟子たちにとって、必ずしも温かい、和気あいあいとした記憶だけが残っている場所ではありません。むしろ次の瞬間、予想のつかない議論や事件が巻き起こる、緊張の場面でもありました。

 

【一度目の問い】

 先ほど皆さんが聞いた聖書の話も、まさに緊張のひと言から始まります。復活したイエス様が、弟子たちと食事を済ませた後、最初に語られたひと言「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」……時と場所もわきまえないで、なんていうことを聞くのでしょうか? 他の弟子たちも周りにいる場面です。当然、みんなイエス様のことを愛しています。その中で、ペトロに向かって名指しで「この人たち以上に……」と尋ねられる。

 

 どう答えても気まずくなることこの上ない質問です。周りもギクッとしたでしょう。ペトロが弟子たちの中で、特にイエス様のことを慕っていたのは周知の事実です。彼は度々、弟子たちを代表してイエス様に質問し、イエス様に教えを乞い、イエス様が誰であるかを告白しました。向こう見ずなところもありましたが、十二人の中でも一目置かれていたことは確かです。皆ペトロを見守って、どう返事をするか聞いています。

 

 ペトロはイエス様の問いに対し、それほど時間を空けずにこう答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」……非常に上手い答えでした。他の弟子たちを見下すような言い方にならないよう、また自分が出しゃばるような言い方にならによう、彼は十分に配慮していました。

 

 おそらく、イエス様からこのような質問が飛んでくることを、ペトロは予想、覚悟していたのでしょう。「あなたのためなら命を捨てる」と言ったのに、実際には自分の命惜しさにイエス様を見捨てて逃げてしまった……その自分が、「今も私を愛しているか?」と聞かれるのは避けられない、そう思っていたのかもしれません。

 

 彼の言葉は、ある意味模範解答でした。「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」……何も考えずに、反射的に答えた言葉とは思えません。これは非常に勇気のいる返事です。私が皆さんの誰かに向かって、「私のことを愛していますか?」と聞いたら、おそらくほとんどの人は、こんな答え方をしないでしょう。

 

 お世辞にせよ、本心にせよ、「はい先生、私はあなたを愛しています」そういう答え方をするはずです。「私があなたを愛しているのは、あなたが知っているでしょう?」なんて返事は、どんなに素晴らしい相手であっても、赴任して一ヶ月に満たない牧師相手に答えられるものではありません。なにせ、「そうだったのですか? あなたはわたしのことを愛していたのですか? 全然分かりませんでした」なんて言われた日には、もう次の週から教会に来られなくなるほど傷つくからです。

 

 ペトロがイエス様に答えた言葉、それは相当信頼関係の深い相手、相当砕けた関係でなければ言えません。まるで夫婦や恋人のようなやりとり……そうなのです、ここでのイエス様とペトロのやりとりは、まるで付き合っている人同士のような親密なやりとりでした。同時に、どちらかが大失敗をして、失った信頼を取り戻そうとしているような、緊迫した場面にも見えてきます。そして、あながちそれは外れているとも言えません。

 

「わたしのこと愛している?」「それは君がよく分かっているじゃないか」……ケンカした直後に交わされる、夫婦のようなやりとりがここでも繰り広げられています。ペトロの返事に対して、もちろんイエス様は「正解だ」なんて言われません。そうは問屋が卸しません。代わりにこう言われます。「わたしの子羊を飼いなさい」

 

 何か追求の手が来るのかと思いきや、意外な言葉が返ってきました。いきなり何を言っているんだ? と思われるかもしれません。あまりに唐突な言葉です。「わたしの子羊」とは何のことでしょうか? いつもイエス様の側にいた弟子たちには分かっていました。「羊」とは自分たちのことで、「羊を飼う者」とはイエス様のことだ、と。イエス様は自分たちとの関係をたとえて、何度もそう話してくれた。

 

 しかし今、ペトロは困惑せざるを得ません。羊であるはずの自分に対して、羊飼いであるイエス様が、「わたしの子羊を飼いなさい」とおっしゃられる……羊が羊を飼うなんてできるはずがないのに、羊がいきなり羊飼いになれるはずがないのに、ほとんどパニックだったのではないでしょうか?

 

【二、三度目の問い】

 続けて、イエス様は同じ質問をもう一度してきます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか?」ハッとしたペトロは再び答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。さっきと何も変わらない答え……そう、彼は他に言葉を用意していませんでした。新しい返事を考えている場合ではありません。「わたしの子羊を飼いなさい」その言葉の意味を捉えるのに、まだ頭がついていっていませんでした。

 

 しかし、イエス様はおかまいなしに続けます。「わたしの羊の世話をしなさい」。ペトロと違って、イエス様の返した言葉はさっきと少し変わっています。「子羊」が「羊」になり、「飼いなさい」が「世話をしなさい」に変化しました。ペトロはますます混乱します。世話を必要としているのは自分の方です。この人のためなら命を捨てられると思いながら、イエスの仲間か疑われると「違う」と3度も嘘をついてしまった弱い自分。

 

 私は自分が思っているほど強くはない。私はまだまだ世話を必要とする子羊だ。それに気づいたばかりなのに、あなたは「わたしの羊の世話をしなさい」とおっしゃられる……皮肉を言われているのか? 困らせようとしているのか? ペトロはだんだんと辛くなってきます。

 

 3度目に、イエス様は言われます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか?」とうとうペトロの感情が溢れだします。3度、イエス様は「わたしを愛しているか?」と聞かれました。まるで、自分がイエス様の仲間であることを3度否定してしまったことを思い出させるかのように……ペトロは涙をこらえながら答えます。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」

 

 イエス様はそれに対し、「分かった」とは言ってくれません。やはりさっきまでと似たようなことを言われます。「わたしの羊を飼いなさい」……あまり聞いていて居心地の良い場面ではありませんでした。イエス様は最後まで、ペトロの返事にOKを出してくれないからです。3度、イエス様の仲間であることを否定したペトロは、ちゃんと許してもらえたのか? はっきりと言葉にはしてもらえませんでした。

 

 イエス様は意地悪だったのでしょうか? ペトロに罪悪感を抱かせたまま、安心させないつもりでしょうか? しかし、よく考えてみると、イエス様の方も、求めていた答えをペトロからもらっていないのです。「あなたはわたしを愛しているか?」そう3度も聞いたのに、ペトロは最後まで「はい、わたしはあなたを愛しています」とは答えません。ずっと最初に考えてきた回りくどい答えを言い続けます。

 

 「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」これが、もしも夫婦や付き合っている人同士の会話であったなら、さらに険悪なムードが流れ始めるでしょう。「どうして直接『わたしを愛している』と言えないの?」というふうに……ペトロは最後まで保険をかけていました。

 

 イエス様を見捨てた弱い自分が、大胆に「わたしはあなたを愛しています」なんて言ったら「では、なぜあの時……」と言われてしまう。周りで聞いている他の弟子たちにも「ペトロの奴、また言っているよ……」と思われてしまう。そんなことのないように。しかし、イエス様は、もっと積極的な言葉をペトロから聞こうとしていました。「あなたを愛しているなんて、私には言う資格がない」そう項垂れているペトロに、イエス様は3度も聞きました。

 

「わたしを愛していると言ってくれ」「わたしはおまえを信頼しているのだ」「わたしの羊を飼いなさいと言うほどに……」あり得ないことです。ペトロにとっては想像もつかないことでした。自分に「信頼」なんて気持ちをイエス様が持っているなんて。愚かにも自分は自分を過大評価し、その果てにイエス様を見捨てて逃げてしまった。それなのに、信頼されるなんて……自分の羊を任せようとされるなんて。

 

【行きたくないところへ】

 今日のメッセージには、「それを私に任せます?」というタイトルをつけました。これはペトロの気持ちを率直に表したら、こうなるのではないかと思ったからです。「わたしの羊を飼いなさい」「いや、それを私に任せます?」……ついこの前、あなたを見捨て、あなたから離れて閉じこもっていた私に、みんなを導いていけると思いますか? あなたのことを伝えていけると思いますか?

 

 今だってそうです。復活したあなたと出会ってからも、私は他の弟子たちと一緒に、家に鍵をかけて閉じこもっていました。食べ物を得るため外へ行くときも、暗い時間を見計らって出て行きました。私がユダヤ人に捕まるのを恐れて、あなたのように十字架にかけられるのを恐れて、なかなか外へ出られないことは知っているでしょう? 私は今、「どこどこへ行け」と命じられても、そこへ行く力がないのです。

 

 しかし、イエス様は言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」……本来なら、それほど励まされる言葉ではありません。お前は歳をとったら自由に動けなくなるのだ、表面的にはそうとしか聞こえてこない嫌味な言葉。しかし、ペトロにはどう聞こえたのでしょう?

 

 彼は若いとき、確かに行きたいところへ行っていました。イエス様が捕まったときも、一旦は逃げ出しますが、一人だけ勇気を出して後からつけていきました。「今こそ、あなたのためなら命を捨てます」と言った自分の言葉を証明するとき。私は自分で、自分の力で、行きたいところ、イエス様の後についていくのだ……しかし、彼の思いは果たされません。行きたいところへ行けるはずの彼の足は、不安と恐怖に支配されて、ピタッと止まってしまいます。

 

 彼が行きたいところへ行くためには、イエス様のもとへ行くためには、苦しみや死の危険がある「行きたくないところ」を通り過ぎなければならなかったからです。そこへ行く力は、いくら若くても、いくら自由に動けても、彼にはありませんでした。しかし今や、イエス様は宣言されます。「あなたは両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」

 

「帯を締められ」という言葉は、「縄をかけられ」とも訳されます。逮捕され、十字架の上に両手を伸ばして死刑にされる……そんな場面が暗示されているのです。イエス様が捕えられ、連れていかれるのを一番近くで見ていたペトロは、すぐそれが何を表しているのかイメージできたでしょう。

 

「あなたのためなら命を捨てます」と言って、実際にはイエス様のあとを辿れなかった自分……その自分が、今度は十字架にかかったイエス様と同じ道を歩む、そう宣言されている。実際に、ペトロは62年頃、ローマ皇帝ネロの迫害によって殉教したという伝説が残されています。ルカによる福音書の著者も、それを知っていてこの部分を書いたと言われています。

 

 そう、彼は行きたくないところを通り過ぎて、本当に行きたかったイエス様のもとへ、良い羊飼いのもとへ行くのです。彼自身が、どれだけ弱く、傷つき、情けない者であっても、彼はイエス様の道を歩む者、イエス様の羊を飼う者として歩まされるのです。

 

【良い羊飼い】

 今日最初に読まれたエゼキエル書34章には、イエス様が用いられた「羊を飼う」「子羊を飼う」という表現がありました。そこには、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」という16節の言葉が出てきます。まさに、復活したイエス様は、失われたペトロの信仰を取り戻し、傷を包み、弱っていた心を強くされ、新たな羊飼いとして遣わされようとしています。

 

 そして今、最後に再び言われるのです。

 

「わたしに従いなさい」

 

 この言葉に対する、ペトロの返事は書かれていません。書かれていないからこそ、私たちも当然想像することになります。ペトロはイエス様に何と答えたのだろうと……そして気がつくのです。この言葉に答えるよう求められているのは、ペトロだけではないと。「またイエス様を悲しませるかもしれない」「また、失望させるかもしれない」「私は信頼なんてされるに値しない」自分のことをそう思っている私に向かって、あなたに向かってイエス様は命じているのです。

 

 「わたしに従いなさい」

 

 大切なものを失ってしまったあなた、追われて逃げ出してしまったあなた、傷ついてまともに立てないあなた、弱り切っているあなた、今、あなたに、イエス様は呼びかけています。「わたしに従いなさい」……「私に言いますか?」「こんな私に?」思わずそう返してしまう前に、思い出しましょう。イエス様がペトロにしたように、今、私のことも、尋ね求め、連れ戻し、包み込んで、強くしてくださることを。