ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『どこにいるのかわからない』 イザヤ書42:14〜16、ヨハネによる福音書20:1〜18

礼拝メッセージ 2018年4月1日

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【見つからないイエス様】

 「どこにいるのかわからない」……そんなタイトルがイースターの礼拝につけられているのを見て、不安になった方もいるでしょう。私自身も、赴任して早々にヘンテコなタイトルにしてしまったなと思います。ただ、一つ弁明させていただくと、この言葉はイエス様が復活した日、イエス様について最初に言及された言葉なのです。誰の言葉かと言えば、マグダラのマリアという女性です。

 

 彼女は、ルカによる福音書8章2節で、イエス様に七つの悪霊を追い出してもらった女性で、マルコによる福音書やマタイによる福音書でも、イエス様の埋葬のシーンに出てきます。かつて、自分を癒してくれたイエス様を慕って心から大切に思っていた女性……その彼女が、朝早く、まだ暗いうちにイエス様の死体が収められた墓へ行くと、大事件が起きていました。

 

 なんと、入り口を塞いでいるはずの大きな石が取り除けてあり、イエス様の遺体がなくなっていたのです。慌てた彼女は、ペトロと「もう一人の弟子」のところへ向かいます。この「もう一人の弟子」が誰のことかは、あまり明確ではありません。伝統的には、十二弟子の中のヨハネのことだとされています。おそらく、マリアは弟子たちの中でも中心的な存在であった二人に、まず知らせに行ったのでしょう。

 

 マリアは二人にこう言います。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」……イエス様の遺体がなくなっている。どこにいるのか分からない。それが、イースターの朝、最初に言われた言葉でした。マリアの話を聞いて、二人の弟子も急いで墓の前にやって来ますが、彼女の言ったとおり、イエス様の遺体はなくなっており、どこにいるのか分かりません。

 

 彼らは結局イエス様を見つけられないまま、早々に家へ帰ってしまいます。一方、マリアは弟子たちが帰った後も、墓の前に立ちすくんでいました。そして、最初の発言から三度にわたって「イエス様の遺体がどこにあるのか分からない」と呟くのです。

 

 イエス様がどこにいるのか分からない……神様を信じ、イエス様を救い主と信じている人たちにも、そういう時があります。こんなに悩んでいるのに、こんなに苦しんでいるのに、私を助けてくれるはずのイエス様が、どこにいるのか分からない。本当にいてくれるのか自信がない。気がつくと、イエス様よりももっと手軽に、もっと現実的に思えるものはないか、リアルに頼れるものはないか捜している……そんな覚えがないでしょうか?

 

 私には……あるのです。告白すると、牧師であっても、どうしようもない悩みや苦しみを前にして、イエス様がどこにいるのか、何を求めればいいのか、分からなくなることがあるのです。特に、マリアが直面していたような「人の死」といった出来事は、私たちに希望を見失わせます。しかし神様は、イエス様を見失ってしまう私たちにも、確かにその存在に気づかせ、希望を与えてくださいます。今日は、イエス様がご自分を見失っている人たちのもとへ、自ら近づいて来てくださった復活の出来事について、共に聖書から聞いていきましょう。

 

【イエス様を捜す二人の弟子】

 さて、マリアの報告を聞いて墓へ向かった三人は、消えてしまったイエス様を捜しますが、それぞれどこか不自然な行動を取っています。まず、不思議に思うのはペトロと一緒に来たもう一人の弟子です。彼は一番に墓へ到着したにもかかわらず、なぜか中には入りません。身をかがめて墓の中を覗き、亜麻布が置いてあるのを確認するだけです。やがて、後から到着したペトロの方が先に墓へと入ります。

 

 ヨハネによる福音書は、名前を明記しない「イエスの愛しておられた弟子」を、ペトロより優位に置くことが多いのですが、ここではだいぶ慎重に行動する人物として描いています。もしかすると、彼は単に死体がある場所へ入るのをためらっただけかもしれません。当時、死体に触れることは汚れることとされ、汚れを受けてしばらくの間は、通常の生活ができなかったからです。

 

 一方、先に入ったペトロは、イエス様の体を覆っていた亜麻布と、頭を包んでいた覆いが、それぞれ離れた所に丸めて置いてあるのを見つけます。これは、ただ遺体が持ち去られたにしては不自然なことでした。何よりも汚れることを嫌っていたユダヤ人が、わざわざ死体を剥き出しにして運ぶなんて考えられなかったからです。丸められた二つの布は、かつてイエス様自身が予告していたように、死者が生き返ったのかもしれない……という予感を与えます。

 

 ところが、ペトロはそれに対して驚くほど無反応でした。もう一人の弟子も、ペトロの後にようやく墓へ入ってきますが、その反応はほとんど記されません。ただ一つ、8節で「見て、信じた」と書かれているだけです。この「見て、信じた」という言葉は、たいへん重要なことが書かれてあるように感じます。しかし実際のところ、彼が何を見て、何を信じたのか、よく分かりません。

 

 ヨハネによる福音書では、全体として「見ないで信じる信仰」というモチーフがあり、20章29節でイエス様自身が「見ないのに信じる人は幸いである」と語っています。それは、復活の主を見ないで信じることを言っていますが、ここに登場する愛弟子が、本当に「イエス様の復活を、見ないうちから信じた」と言えるかは疑わしいです。なぜなら、続く9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあるからです。

 

 つまり、死体がないのを見て、すぐにイエス様が復活したと信じたわけではないのです。いったい、もう一人の弟子は何を信じたのでしょうか? 彼らは相変わらず、イエス様がどこにいるのか分かりません。分かっているのは一つだけ、「ここにはいない」ということです。

 

 ここにはいない……死体が置いてあるはずの墓にはいない、閉ざされた死の領域にはいない、イエス様の体は少なくとも墓の外にある。朝早く、辺りはまだ暗い時間です。しかし、やがて太陽が昇り、光に照らされる時がやってきます。暗い墓の中ではなく、これから明るくなっていく墓の外に、イエス様の体がある。まだイエス様の復活に気づいていないこの弟子も、確かに何か心を動かされたのです。

 

 二人の弟子は家へ帰っていきます。原文を見てみると、彼らは最初、別々の家から出てきたようです。しかし、一週間後には、他の弟子たちと同じ一つの家にいたことが19節に書かれています。空っぽの墓を見たペトロともう一人の弟子は、知らず知らずのうちに、復活したイエス様と再会する場所へ、同じ一つの家へ帰るように導かれていました。行く手の闇は、いつの間にか光に変えられ、彼らも太陽に照らされていたのです。

 

【イエス様を捜すマリア】

 一方、マリアは二人が帰った後も、墓の外に立って泣いていました。彼女もそのうち泣き止んで、弟子たちと同じように帰っていくのかと思いきや、ありえないことが起こります。なんと、マリアが泣きながら身をかがめ、墓の中を覗くと、白い衣を着た二人の天使が、イエス様の遺体のあったところに座っていたのです。

 

 マリアがすぐに二人を天使だと気づいたかは分かりません。天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねても、マリアは普通にこう答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置いてあるのか、わたしには分かりません」……普通、さっきまで誰もいなかったはずの所に、突然二人も座っていたら、もっと驚くと思います。しかも、白い衣というのは当時たいへん貴重なもので、それを身につけていること自体が特別な存在であることを示しました。

 

 それなのにマリアは「イエス様の死体がなくなった」という悲しみに囚われて、目の前の異常な出来事に全く心が動かされなかったのです。そして、さらにありえない出来事に直面します。マリアが後ろを振り向くと、死んだはずのイエス様本人が立っていたのです。にもかかわらず、マリアはそれがイエス様だと分かりません。墓を管理する園丁だと思い込んで、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言ってしまいます。

 

 これもむちゃくちゃな言葉でした。遺体を引き取るには、その人を収める墓を所有していなければなりませんし、マリア一人では成人男性の遺体を運ぶことができるとも思えません。もはや、物事を冷静に判断することができなくなっていたのでしょう。ここでは、マリアの様子が殊更愚かに描かれていますが、既に見てきたように、イエス様を捜しにきた三人は、イエス様の復活を予感させるしるしを見ても、皆ほとんど無反応でした。

 

 それは、イエス様が死んでしまったという事実に絶望し、目の前が真っ暗になり、イエス様が復活したしるしを見ても、すぐに理解することができなかったからでしょう。しかし、イエス様はそんな一人一人に対して、自ら復活したことを知らせるため、目の前に現れてくださいます。そして、誰よりも悲しみにくれ、絶望し、目の前が見えなくなっていたマリアに、まず現れてくださったのです。

 

【自ら現れるイエス様】

 15節で、イエス様はまだ自分のことに気づいていないマリアに、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問いかけます。これは、墓の中にいた天使たちと同じ質問で、「だれを捜しているのか」という問いには、非常に重要な意味があります。マリアが泣いているのは、イエス様の死体がなくなってしまったからです。マリアが捜していたのは、死んだまま動かないイエス様の体です。

 

 彼女は、イエス様が殺されてしまったことで、イエス様を救い主だと信じていた自分の理解も壊されてしまいました。救い主ならそう簡単に殺されるはずがない。あんな惨めな死に方をするはずがない。そんな自分の考えに縛られて、イエス様との関係をもはや回復できないもの、取り戻せないものだと思っていたのです。それは、他の弟子たちも同様でした。

 

 彼らは、イエス様を救い主、神の子として捜すことができなくなり、二度と会うことのできない存在として捜すことしかできなくなっていました。「もう一度イエス様に会う」という希望を持てずに、「せめてイエス様の遺体を引き取りたい」という願いしか持てませんでした。ある意味、それが自然なのです。私たちも、死んだ人が生き返るなんて現実離れした希望よりも、もっとリアルで叶いやすい期待を持とうとします。

 

 本当は遺体が無いから泣いているのではない。死んだ人と生きて会うことができないから泣いている……そのことを忘れようとしたマリアのように、私たちも本当に自分が求めていること、期待していることを忘れようとするでしょう。しかし、イエス様はそんなマリアに「何を捜しているのか」ではなく「だれを捜しているのか?」と問いかけます。あなたが探し求めるべきものは、人格のない死体ではなく復活した私ではないか? と自ら呼びかけたのです。

 

 イエス様から問いかけられたマリアは、絶望で暗闇に覆われたまま、まだ気づくことができません。他ならぬ本人に向かって、「あなたの遺体の場所を教えてください」と言ってしまいます。彼女は遺体を見失っただけでなく、イエス様が誰であるかも見失っていたのです。

 

 しかし、イエス様が一言「マリア……」と呼ばれたとき、彼女は見えなくなっていたものが見えるようになります。ただの園丁であれば知っているはずのない自分の名前、かつて同じ眼差しで、何度も呼びかけられた名前が聞こえてきます。マリアは再び振り向いて、イエス様に「ラボニ」と答えました。「ラボニ」とは、そこに書いてあるとおり、ヘブライ語で「先生」という意味の言葉です。

 

 おそらく、イエス様に対して弟子たちが最も一般的に使っていた呼びかけだったのでしょう。いつも一緒にいたあの先生が、あのイエス様が、私の目の前にいる! ついに、マリアはそう気づいたのです。思わず、イエス様にすがりつこうとした彼女へ、イエス様は静かにこう言います。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。

 

 ここをどう読むかはたいへん難しいところですが、重要なのは、イエス様が直ちに、新しい使命をマリアに与えられたことです。「墓の前に止まっていないで、人々のもとへ出て行って、私が復活したことを知らせてほしい」……マリアはイエス様からそう頼まれて、今まで離れることのできなかった死の領域、墓場を後にし、弟子たちのところへ「わたしは主を見ました」と告げに行くことができたのです。

 

【私たちを呼ぶイエス様】

 このように、イエス様は最初にマグダラのマリアへ現れた後、やがて他の弟子たちにも姿を現していきました。彼らは皆、イエス様の死という突然の出来事に絶望し、イエス様が復活したというしるしや証言を聞いても、すぐには理解できませんでした。心の中でイエス様を捜しているのに、まるで目の見えない人のように、そこにある希望を見出すことができなかったのです。

 

 しかし、イエス様はそんな人間の弱さをよく分かっていました。既に16章16節で「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と予告していたのです。そして、実際そのとおりになりました。

 

 今日は司会者に、イザヤ書42章14節から16節も読んでいただきましたが、ここでも、見えない人を導いて、暗闇から光をもたらす神様の恵みが語られています。「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない」。

 

 私たちの中にも、今、目の前に暗闇しか見えず、光を見出すことのできない人がいるかもしれません。あるいは、これから何かに絶望して、そうなってしまうかもしれません。しかしイエス様は、私たちが希望を見つけることができないとき、自ら近づいて、声をかけてくださいます。「わたしにはイエス様がどこにいるのか分かりません」……そう力なく呟く私たちに、一人一人名前を呼んで、希望はここにあると気づかせてくださるのです。

 

 また、空っぽの墓を見てもイエス様の復活にすぐ気づけなかった弟子たちのように、たとえ、まだ「心からイエス様を信じている」と言えない人も、行く手に光が与えられています。なぜなら、イエス様はその人の帰る道を、ご自分と出会うことのできる「家」へと導いているからです。その家とは、私たちが今集まっているこの教会です。

 

 日曜日、イエス様が復活した日に、私たちは礼拝を共にし、そのことを確認します。今日も、私たちの背後にイエス様がおられます。私たちが振りむくのを待っています。今、イエス様がどこにいるのか分からない、希望が持てない人たちにも、イエス様は呼びかけるのをやめません。あなたが気づくまで、諦めずに名前を呼んでくださいます。共に、祈りを合わせつつ、イエス様の声に耳を澄ませましょう。