ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『復活が信じられません!』 マタイによる福音書22:23〜33、ヨハネによる福音書20:1〜10

聖書研究祈祷会 2021年11月17日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会も、配信と並行して開いています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の320番「ハレルヤ、ハレルヤ(息子よ、娘よ)」を歌いましょう。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆復活と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を探している人を導いてください。

◆私たちの神様。先週の水曜日は、牧師の体調不良のため休んでしまいましたが、またこうして、祈りと学びのときを持つことができ、感謝致します。どうか今、先週参加できなかった人も、今日改めて、あなたの言葉を一緒に受け取ることができますように。

◆私たちの神様。日曜日には、収穫感謝記念日として、礼拝の中で神の祝福を分かち合う食事「愛餐式」ができたことを感謝致します。どうか今、共に食卓に集えない人たちにもあなたの恵みと祝福が豊かに分けられますように。

◆私たちの神様。来週からは、キリストの再臨を待ち望みつつ、キリストの誕生を祝う準備をする「アドヴェント」に入ります。どうか今、自分一人で整えられない、思いや、言葉や、行動を、互いにとりなし合いながら積み重ねていけますように、助けてください。

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書22:23〜33、ヨハネによる福音書20:1〜10(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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メッセージ

神様がいると信じている、イエス様の教えも共感している、天国へ行きたいと願っている……だけど、復活が信じられません……キリストが死んでから3日目に甦り、墓から出てきたと、信じることができません……死んだ後、魂だけが天国へ行くなら分かるけど、亡くなった人が、新しい体で甦るなんて、どうにも信じられません。

 

洗礼を受ける決心がつかない、「信じる」と未だ口にできない……そんな人から、よく聞かされる悩みです。中には、既に信じて洗礼を受けた人からも「実は、復活が理解できないんです」「心から信じられないんです」と告白されることがあります。時々ふと、私自身も、「本当に自分は、復活を信じているんだろうか?」と考えてしまうこともあります。

 

だって、現実に誰かが復活したところなんて、見たことがありません。仮死状態から蘇生するのと違って、死後、数日経った人間が、埋葬された人間が、起き上がって出てくるなんて、悪い冗談みたいです。「奇跡」というより「悪夢」に感じる人の方が多いでしょう。まるでゾンビ映画ですもんね。

 

私は牧師として、何人かの葬儀に立ち会って、亡くなった人の体に触れてきました。中には、ただ眠っているように見える遺体、触ったら目を覚ましそうな遺体もありました。でも、目を開けたことはありません。そして、多くの遺体は、冷たく固まっていて、動き出したら折れてしまいそうな、そんな状態になっていました。

 

私の祖父が亡くなったとき、病院でチューブを外してもらった遺体は、水分を多く含んでいたので、硬くなるどころか、崩れそうに見えました。あの体が起き上がる、あの体が新しくなる……そんなふうにイメージすることは、非常に困難な状態でした。身内や友人を見送った人の中には、眠りについた人を、そっとしておきたい方もいるでしょう。

 

どうして、復活しなければならないのか? 甦らなければならないのか? 肉体が滅んで、魂だけが残され、痛みや労苦や困難から、解放される話じゃダメなのか? キリストの復活も、肉体まで甦ったと言わないで、魂だけが弟子たちのもとに現れた……夢や幻で現れた……じゃダメなのか? それなら納得できるのに、信じて受け入れられるのに。

 

正直なところ、そう思っている人は少なくないと思います。科学や文明が発展する前のイスラエルでさえ、復活を素直に信じる人は限られていました。先ほど読んだ聖書箇所には、はっきりと「復活はない」と言っているサドカイ派の人々が出てきます。サドカイ派は、かつてのイスラエル社会で、政治的な実権を握っていたユダヤ教の指導者です。

 

彼らは、自分たちの信じる旧約聖書、創世記から申命記までの記述に、復活が明記されていないことから、死後は肉体と共に、魂も滅びると考えていました。実際、旧約聖書で復活について言及されているのは、ダニエル書やイザヤ書のほんの僅かです*1。新約聖書でも、復活があるのかどうか、度々議論になっていたことが書かれています。

 

そりゃそうですよね。死んだ人が生き返ったら、現実的な問題がたくさん出てきます。必ずしも喜べる話じゃありません。会いたくない人と会うかもしれない、死んでいてほしかったと言われるかもしれない、片付いたはずの問題が再燃するかもしれない……七人の夫と結婚して亡くなった女性のように、誰の妻になるか問い詰められるかもしれません。

 

そんなのごめんです。色んなものに、再び振り回されるくらいなら、消えてしまった方がマシだと思うかもしれません。現実に、新しい体で甦ることは、イメージしにくいし、甦ったら困る人もいるし、自分自身の身の振り方も分からない。実際、イエス様が復活したとき、人々は歓迎するより先に恐怖しました。怖がって、戸惑って、疑いました。

 

もし、本当に生き返ったなら、この人を見捨てて逃げた自分たちは、どう扱われるんだろう? 今更、ゆるしてもらえるんだろうか? 甦った人の家や着るものも、どう用意したらいいんだろう? 敵対しているユダヤ人やローマ兵から、どう匿えばいいんだろう? 復活しちゃったら、むしろ問題だらけです。あっさり受け入れられません。

 

事実、弟子たちは、イエス様が復活したと聞いてからも、受け入れるどころか、戸に鍵をかけて締め出しました。現実的な対応です。自分たちもユダヤ人に捕まるかもしれないのに、墓を見に行った女性たちの戯言を信じて、危険を犯すわけにはいきません。見捨てられた恨みを晴らしに、死者がやってくるのもごめんです。

 

墓に蓋をし、戸に鍵を締め、「死んだ人は生き返らない」と言い聞かせる方が、この先、平穏に過ごせるでしょう。愚かにならずに済むでしょう。賢い態度と言えるでしょう。しかし、イエス様の復活を理解せず、受け入れられなかった弟子たちは、同時に、矛盾した姿も見せていました。

 

それは、自分たちも墓を見に行って、空っぽであることを確かめ、「見て、信じた」という出来事です。変ですよね? ヨハネによる福音書20章9節には、彼らが「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を」「まだ理解していなかった」と書いてあります。それなのに直前で「見て、信じた」と書いてある。

 

何を信じたのか分かりません。イエス様が復活したことを理解していないのに、納得していないのに、受け入れられていないのに、空っぽの墓だけ見て「信じた」と言われる。他の福音書を読んでも分かるように、弟子たちは空の墓を見たあとも、甦ったイエス様と出会った後も、なお疑ったり、揺れ動いている様子が出てきます。それなのに、「信じた」と言われる。

 

どうやら、「復活を信じる」って、自分が「納得する」「理解する」とは、違う状態を指すようです。理解してない、納得してない、受け入れ切れてない……だけど、空っぽの墓を見たとき、何かが変わる人がいる。聖書に書かれたことを見て、何かを受け取る人がいる。まだ理解していないのに、「見て、信じた」としか言えない心になった人。

 

聖書に書かれていることを、理解できずにいるけれど、納得できずにいるけれど、自分の意志を超えたところで「信じる」思いを与えられる……復活したと言われる、あのイエス様を、心に迎えたい気持ちが与えられる。その気持ちは、あなたの理解や納得を超えて神様から与えられた「信仰」なんです。

 

弟子たちもそうでした。復活を理解していないけれど、受け入れ切れてないけれど、空っぽの墓を「見て、信じた」者になりました。「復活が理解できないんです」「心から信じられないんです」と言う人も、聖書に書いてあることを「見て、信じた」者と呼ばれます。まだ、分かっていないにもかかわらず。

 

復活って別に「納得する」事柄じゃないんです。この世の在り方や法則と辻褄を合わせるものではないんです。本当に自分は、心からイエス様が甦ったと、死者の中から復活したと口にできるか? 亡くなった人が、新しい体で甦ると口にできるか? 自分は「信じている」と、言えないんじゃないか? 理解とか確信とかを得られてないんじゃないか?

 

そう思っているあなたに、イエス様は信仰を見いだします。こちらの理解を超えて、戸に鍵をかけた部屋へ侵入し、魚を食べて見せ、ご自分の傷に触れさせます。疑った者、見捨てた者を祝福し、平和を祈り、奴隷ではなく同胞として、天の使いとして送り出します。復活したら、甦ったら、囚われるはずの問題からも、次々と解放してみせます。

 

「復活が信じられません」「理解する、納得する自信がありません」そう項垂れる皆さんは、あの日、空っぽの墓を目にして帰った、弟子たちと同じ道にいます。帰り着いた自分の家で、イエス様に迎えられる、弟子たちと同じ「信仰者」です。あなたの理解や納得を超えて、あなたを「信じる者」とされた方、あなたに平和を告げる方を、どうか受け入れ信じてください。キリストの平和がありますように。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(愛知県名古屋市の熱田教会)のために、障がいのある人のために、認知症の人のために、依存症の人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆愛知県名古屋市の熱田教会のために祈ります。4年後に創立120周年を迎える教会の建物が、無事に整えられますように。教会付属の堅磐信誠(かたわしんせい)幼稚園の働きが、支えられますように。

◆障がいのある人のために祈ります。心や体や発達の仕方において、障がいのある人たちに、あなたの慈しみがありますように。特に、孤立している当事者や身内が、必要なケアとサポートにつながれますように。

◆認知症の人のために祈ります。本人や周りの人が抱える不安に、寄り添う人が与えられますように。自分にできること、できないことの見極めがもたらされ、残りの人生も豊かに送ることができますように。

◆依存症の人のために祈ります。薬物やアルコール、ギャンブルや性など、様々な依存症に苦しむ人たちに、あなたの助けがありますように。病気と自覚と周りの理解、適切な治療につながることができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌23番「わたしの口は絶えず歌う」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も教会に集まって、配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究祈祷会は、牧師の体調不良のため、急遽お休みさせていただきました。今週からは、また通常通り再開しています。

 

配信はここまでですが、この後2時半まで、希望する参加者が質問したり、祈ってほしいことを分かち合える時間を持ちたいと思います。時間のある方はぜひ、ご参加ください。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。

*1:橋本滋男「マタイによる福音書」山内眞 監修『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2000、2008年、92頁上段23行〜下段9行参照。