ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『あなたみたいに?』 レビ記19:9〜18、ヨハネによる福音書13:31〜35

礼拝メッセージ 2018年4月22日

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【新しい掟】

 イエス様が十字架につけられる前、弟子たちと最後の食事をしていたとき、お互いの信頼と絆を揺るがす2つの発言が飛び出しました。どちらもイエス様の口から出た言葉です。一つは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」という言葉、もう一つは「ペトロが自分との関係を3度否定してしまう」という予告。どちらも衝撃的な知らせでした。

 

 弟子たちは皆動揺します。「いったい誰が裏切るというのか? 自分たちは仲間なのに」「あのペトロがイエス様から離れるというのか? この中で誰よりも慕ってきた仲間なのに」……お互いの間にあった信頼を失いかねない言葉、連帯や結束を崩してしまうような予告、その間に挟むようにして、イエス様は先ほど聞いた教えを語られます。

 

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」……今、自分たちの中に裏切る者が出ると言われたのに「互いに愛し合いなさい」と命じられる。「互いに愛し合え」と命じられた直後、ペトロが自分から離れて行くと予告される。弟子たちの心はざわついて、とてもとてもイエス様の言うことについていけなかったと思います。

 

 新しい掟を与える……非常に意味深な響きです。自分たちの中の誰かが裏切ると聞いた直後、弟子たちは余計に何が語られるのか気になったでしょう。彼らは緊張感を持ってイエス様が語られる教えを聞いていました。しかし、イエス様が命じられた掟は、実際には、それほど斬新なものでも、驚くものでもありませんでした。このタイミングで言わなければ……。

 

「互いに愛し合いなさい」、現代でもそう珍しい言葉ではありません。憎み合うより、愛し合う方がいいに決まっています。どんな宗教でも、どんな哲学でも、愛は推奨されてきました。新約聖書が書かれるはるか以前、旧約聖書のレビ記にもこう記されました。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。

 

 神様から与えられた掟、律法全体を要約する言葉としても、これはよく知られています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい」……「互いに愛し合え」という掟、果たしてそれは新しかったのでしょうか?

 

【達成困難な掟】

 一つ、今まで言われてきたことと違うものがあるとすれば、それは「互いに」という部分です。自分が相手を愛するだけでなく、相手も自分を愛すること、自分だけでは完結できないこと、それが命じられている。なんて難しいことでしょう! 私たちはよく、自分の内面だけが、自分の気の持ちようだけが、未来のあり方を良くしてくれるような言葉と出会います。

 

「何事にも感謝して生きよう、そうすればあなたは幸せになれる」「人からの言葉をネガティブに受けとめないでポジティブに生きよう。そうすれば全てが上手くいく」あるいは、「あなたが人を愛せば、周りもあなたを愛してくれる」……世の中そんな言葉であふれてきました。多くの人が同意したくなるでしょう。キリスト教でも似たようなことを語ります。あなたの気の持ちよう、あなたの心のあり方で、あなたの生きている世界は変わるのだと。

 

 しかし、私たちはしばしばそれとは違う現実に直面します。何事にも感謝しようとすれば、「これは相手じゃなくて私が悪いから」と言い聞かせる場面が増えてくる。あらゆることをポジティブに受けとめようとすれば、ネガティブなことに目を瞑るしかなくなっていく。自分が誰かを愛しても、返ってくるのは無視や批判だったりする。上手くいかない原因は、全て自分自身にあるかのように感じてくる……。

 

 そう、私が愛そうとするだけでは、私の気の持ちようだけでは、愛は完結しないし、世界はより良いものにならないのです。私たちはどうすれば正しい生き方ができるか、神様に「いいね」と言ってもらえる生き方ができるか、いつも気になっています。「私が」良いことをすれば、「私が」謙虚であれば、「私が」親切にすれば、「それで大丈夫」と言ってほしい。私が変えられないあの人の行動とセットで、私に命じないでほしい。さあ神様、私ができること、私個人が達成できることを教えてください。それを一生懸命守りますから! 

 

 皆さんも一度はそういう思いを持ったことがあるのではないでしょうか? 私もそうです。できれば自分自身ですぐ実行できることを命じてほしいと願います。しかし、イエス様はそんな単純な掟を与えてくれません。むしろ、なんて達成困難なことを言うのでしょう。仲間の誰かが裏切ると聞いた直後の弟子たちは、なおさら困惑したに違いありません。彼らは先に出て行ったユダが裏切り者とは、まだ知りませんでした。今いる自分たちの中に裏切る者がいるかもしれない、そう思っている中で「互いに愛し合え」と言われたのです。

 

 そんな! 私は誰と愛し合えばいいのです? 私よりも自分は偉いと主張するこの人と? それとも、自分だけ抜け駆けして出世しようとしたあの人と? あるいは、仲間を敵に売り渡そうとしているかもしれない、この中の誰かと? イエス様、このメンバーで、互いに愛し合いなさいと言いますか? 私が愛して、なおかつ相手も私を愛することでしか達成できない掟を、この私たちに与えますか?

 

 弟子たちは、イエス様の与えた掟がどれだけ実行困難か、十分過ぎるほど知っていました。彼らはよく、お互いの中で誰が一番偉いかを議論し、言い合いになっていました。度々、自分にはどんな見返りがあるのか、どんな報酬がもらえるのかを気にしていました。弟子たちの中には「愛し合う」どころか、「競い合っている」「争い合っている」という現実がありました。

 

【愛し合えるか?】

 皆さんはどうでしょう? 「互いに愛し合いなさい」と言われたとき、誰と愛し合うことを思い浮かべるでしょうか? マタイによる福音書なら「敵を愛せ」という教えが語られるように、愛し合うべき隣人に、身近な同族だけでなく敵対する民族、避けている人々のことも入ってきました。しかし、今日読んだところで「互いに愛し合いなさい」と言われているのは、紛れもなく身近な存在、仲間同士においてです。

 

 普段から顔と顔を合わせる人たち、行動を共にしている人たち、ここにいる私たちのような教会で出会う者同士、家で出会う者同士、職場で出会う者同士、学校で出会う者同士……その間で、互いに愛し合えと言われている。実は、遠く離れた外国の人と愛し合うよりも、たまにしか会わない文化の違う人と愛し合うよりも、普段から一緒に居て、競い合い、言い合いをすることの多い、仲間同士で愛し合えと言われたときの方が、私たちは壁にぶつかるのかもしれません。

 

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」……続けてそう語ったイエス様自身、愛し合うということが簡単ではないことを、身をもって知っていました。「わたしがあなたがたを愛したように」……イエス様が弟子たちを愛するとき、彼はたいてい孤独でした。自分の使命について、弟子たちはことごとく理解してくれませんでした。

 

 『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』33節でそう言われているように、イエス様が十字架につけられるとき、ついてきてくれる仲間は一人もいませんでした。いつも、一方的な愛だったかもしれません。自分を理解しない人のために、自分を見捨ててしまう人のために、自分を裏切ってしまう人のために、イエス様は十字架にかかっていきました。そうまでして愛されました。

 

 なおかつ、その愛に応えることを求めました。あれだけ無理解で、あれだけ自分勝手で、あれだけ情けなかった弟子たちに、自分の愛に応えるよう求め続けました。最後まで……相手が変わらなくてもかまわない、この人の生き方がそのままでも別にいい、ただ私は愛し続ける……そんな態度とは違いました。イエス様は諦めた方が楽なこと、期待し続ける方がしんどいことを、相手に求め続けました。相手の応答を。自分が愛するように相手も愛してくれることを、求めるのを止めませんでした。

 

 後に、イエス様が十字架にかかって殺され、三日目に復活し、天に昇っていった後、弟子たちはイエス様が与えた新しい掟を思い出しては、驚いていたでしょう。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」それをこんな自分たちに求めてくれたことを。

 

 イエス様、あなたが私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合えると思ってくれたのですか? あなたみたいに、愛し合うことを本気で求めてくれたのですか? いつも競い合い、言い合って、自分のことばかり考えていた私たちに、そこまで期待してくれたのですか? そうなのです。そこまで期待してくれたのです。しかも、諦め混じりとか、駄目元とかではなく、本気でそう思ってくれたのです。

 

【栄光を受ける】

 イエス様がこの掟を語ったとき、悲観的な様子は全くありませんでした。ユダが自分を裏切るために出て行った直後であるにもかかわらず、イエス様はこう言います。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」……人の子というのは、イエス様が自分自身を指すときに使う言葉です。

 

 なぜユダが裏切りの決意をし、出て行った直後に栄光を受けたなんて言われるのか? それは、イエス様が敵の手に売り渡され、十字架につけられることが確定した瞬間だったから。全ての人の罪を背負って代わりに罰を受ける準備が整ったから。神様の計画が成就するその段階に、まさに入った時だったからです。

 

 さらに、「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる」と言われます。イエス様が十字架にかかることによって、神様が栄光を受けるとき、イエス様も死から復活させられて、栄光をお受けになるのです。イエス様は、自分を未だ理解しない人たちのために、自分を見捨てる人たちのために、彼らを愛して十字架にかかっていくことを、虚しく感じませんでした。

 

 むしろ、その時を「栄光のとき」と言われました。「互いに愛し合いなさい」と命じたイエス様は、なかなか自分がするように愛してもらえなかったイエス様は、それでも、誰よりも、弟子たちが愛し合えること、自分の愛に応えることを信じていたのです。

 

 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」……その言葉どおり、互いに愛し合う関係は、その人々がイエス様の弟子であることを最もよく証しするのです。

 

【イエス様が居られる】

 実際に、教会の中で過ごす私たちは、イエス様を信じる者同士愛し合うことさえ、いかに難しいかを実感する時があります。表面上優しくしていれば、寛容な心を見せていれば、相手を愛していることになる、なんてものではありません。最初に読まれたレビ記19章9節から18節には、こんな言葉がありました。「あなたたちは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しくさばきなさい」「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい」

 

 愛の実践には、時に相手から嫌われるかもしれないことが要求されます。同胞を正しく裁く、率直に戒める……その上で、お互いに憎むことなく愛し合う関係を築いていく……ほとんど奇跡です。今日もあの人のことを避けてしまった。本当は言うべきことを言えなかった。つまらない文句を言われてしまった。感情的に言い返してしまった。

 

 日常生活においても、教会生活においても、愛し合うことの難しさはいつだって体験することができます。私自身、教会の人たちを愛せなかった時期があります。憎んでいた時があります。自分の身内が、自分自身が教会の中で傷つけられたとき、そこに集まる人たちと愛し合うなんて、不可能だと思っていました。

 

 大人になったら、自分は教会から離れてやろうと思っていました。ペトロがイエス様のことを「知らない」と言った後で、また弟子として戻ったようには、自分は戻らないと思っていました。しかし違ったのです。愛し合うことが不可能だと思っていた人たちと、和解する日はやってきました。自分が思ってもみなかったときに。

 

 教会で牧師として仕える日が来るなんて、教会で「互いに愛し合いなさい」と自分が語る日が来るなんて、考えられなかったのに、その日はやって来ました。今、ここで……しかも驚いたことに、しぶしぶではなく、仕方なしにはではなく、自分自身喜んで、楽しいとさえ思ってやっている。

 

 互いに愛し合うならば、それによって私たちは気づかされます。ここにイエス様の力が働いていることを。世代も違う、好みも違う、感覚も思想も違う……何なら聖書の捉え方だって違う……そんな人たちが集まっているところで、互いに愛し合うという出来事が起きている。そこには確かに、イエス様が居られるのです。イエス様が弟子とさせてくださっているのです。

 

【華陽教会創立127周年】

 華陽教会は2日後に創立127周年を迎えます。3年後には130周年です。それほどの長い歴史を、華陽教会は歩んで来ました。その間、様々な困難がありました。岐阜におけるキリスト教の伝道は、名古屋などに比べると、なかなか軌道に乗らなかったことが資料に残されています。

 

 当初は、キリスト教に関心を持つ者がいました。伝道が有望と見られていました。しかし、思うほど成果は上がりませんでした。教会に対する迫害もかなりあったと言われています。突然の地震、牧師の相次ぐ交替、教会所在地の移転、新会堂の建築……そうした一つ一つの出来事には、私も知らない多くの悩みや葛藤があったでしょう。

 

 教会の中で、互いに愛し合うということが困難になったこともあったかもしれません。時に牧師と信徒の間で、信徒と信徒の間で、あるいは新来者と信徒の間で……しかし、イエス様はいつの時代も、「互いに愛し合いなさい」と求めることを止めませんでした。どんなに私たちがイエス様みたいに人を愛せなくても、「子たちよ」と呼びかけるのを止めませんでした。

 

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい……互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」……今日、皆さんにお願いがあります。イエス様が私を愛したように、イエス様があなたを愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。どうか、こんな私がイエス様の弟子であることを示させてください。ここにいるあなたと、弟子とされていることを示させてください。