ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『言ってる意味が分からない』 創世記18:23〜33、ヨハネによる福音書16:12〜24

礼拝メッセージ 2018年5月6日

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【意味が分からない】

 「言ってる意味が分からない」……礼拝メッセージに、よくこんなタイトルつけましたよね。今から私の話す内容が、このタイトルどおりだったら笑えません。難しい言葉や言い回し、回りくどい話ばかりで、何を語ろうとしているのか分からない……わざわざ朝早くに家を出て教会へやって来たのに、そんなもの礼拝で聞かされも困ります。実際に、もし私がそういう話を始めたなら、あっと言う間に皆さんの頭がカクンッと傾いて、船を漕ぎ始めるのは分かっているのです。

 

 なぜって、私自身まだ小さかった頃、実は神学生だった頃も……いえ、もっと正直に言えば今だって、意味の分からないメッセージを聞いていたら、すやすやと寝息を立てて、寝てしまうでしょうから。しかし、牧師になってみてよく分かります。聖書の話をするとき、本当に、これをやってしまいがちだと。注解書に書いてある難しい言葉を並べ立て、皆さんを煙に巻くような言い回しを使い、何とか礼拝説教っぽく体裁を整える。

 

 正直に言えば、そんなこといくらでも、やっちゃえるわけです……世の我々牧師たちは。やってしまう度に、必死に目をこする皆さんの顔を見て、「ああ……またやってしまった。神様どうかお赦しください。次こそは、イエス様がたとえ話を使って分かりやすく話してくれたように、みんなが分かるようなメッセージを、私も話しますから」そう悔い改めるわけです。

 

 ところが、先ほど皆さんと聞いたイエス様の話、分かりやすかったでしょうか?「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」……まあ、何を言っているか分からないですよね。もっと具体的に言ってとか、せめて、たとえ話で分かりやすくとか頼みたくなります。

 

 実は、ヨハネによる福音書に出てくるイエス様は、他の福音書と違って、たとえ話をあまり語りません。先週の礼拝でもチラッと言いましたが、この福音書でまとまったたとえ話は「羊と良い羊飼いのたとえ」そして「ぶどうの木と枝のたとえ」、この2つしか出てこないのです。さらに、イエス様の言っていることも非常に回りくどい……言い回しを理解するのが難しいこと難しいこと! なんとも独特な文章です。

 

 ちょっと、イエス様……メッセージを作る牧師の身にもなってくださいよ! そんな語り方あなたがされたら、我々の話す言葉も難しくなって当然じゃないですか! 文句の一つも言いたくなります。事実、イエス様の話を直接聞いた弟子たちはこう漏らします。「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と。

 

 この言葉、牧師がメッセージの後で会衆から言われたら、一番傷つくやつです。「先生の話していることが分かりません」「何を言いたかったのです?」……それを、あのイエス様が言われている。ついさっきまで文句の言いたかった私は、今度は逆に親近感が湧いてきます。ああイエス様、あなたもなかなかみんなに伝わらなかったのですね。イエス様でさえそうなら、私が意味の分からない話をしてしまっても、仕方ないですよね?

 

 しかしそれは、我々牧師が、伝わらない言葉を語っても、許されるということではないのです。なぜなら、イエス様はちゃんと、弟子たちに伝わる術を知っていたからです。自分の言っていることを、いつ、どうやって理解するのか、知っていて、この回りくどい言葉を語られました。この言葉が、やがて彼らにどんな力をもたらすのか、全部分かっていたのです。

 

【栄光の時】

 イエス様は12節でこう言っていました。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」……そう、弟子たちはまだ理解できません。イエス様の言っていることについていけません。彼らはこの前に、イエス様がやがて神様から栄光を受けると繰り返し聞いていました。

 

 弟子たちはそれを、イエス様がローマ帝国を打ち倒して、地上の王になることだと理解していました。当時、イスラエルはローマ帝国に支配され、ユダヤ人は、何とかこの状況から解放してくれる救い主を待ち望んでいたからです。そして、様々な奇跡を行ってきたイエス様を見て、人々は期待します。イエス様が自分たちの敵を討ち亡ぼし、華々しい王座に着くことを。弟子たちも、その時には自分がイエス様の側近として、高い地位につけるよう願っていました。

 

 しかし、イエス様が受ける栄光とは、地上で華々しい王座に着くことではありませんでした。なんと、十字架にかけられて死ぬことだったのです。イエス様が救おうとしていたのは、ローマの支配に苦しむイスラエル人という限定されたところではありませんでした。正しく生きたいと願いながら、どうしても神様に背き、理不尽な世の中を構成してしまう人々、罪の支配に苦しむ全ての人を救うために、イエス様はやって来たのです。

 

 キリスト教で「罪」と言うとき、それは単に犯罪のことを指すのではありません。私たちは、間違っていると知りながら、それに従ってしまうことが幾つもあります。組織における間違った体制、上司の間違った態度、友人の間違った要求、自分自身の間違った欲求……決して、法律を犯しているわけではないけれども、みんながそれに従っているけれども、本当は「ダメだ」と心の中で叫ぶものがある……その叫びに答えないで無視し、望まない生き方を続けている。それを「罪」の力と呼ぶのです。

 

 神様の呼びかけに答えないで、神様から離れ、別の力に従ってしまう……単純に犯罪を犯さなければ済むものとは違って、この罪は一人で抗うことができません。容易に償うことができません。本来なら、罪から離れられない私たち人間は皆裁かれて、滅ぼされるはずでした。私たちには、弁護してくれる方が必要なのです。それも、とても優秀な……。

 

 かつて、創世記の18章後半で、同じように神様から離れた罪人が、裁かれてしまう出来事がありました。有名なソドムとゴモラの町が滅亡する話です。ある日神様は、イスラエルの父祖であるアブラハムに向かってこう言います。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」。

 

 それを聞いたアブラハムは慌てます。ソドムには甥のロトが住んでいました。もし、神様がソドムの町を見に行ったら、ロトも一緒に滅ぼされてしまうと思ったようです。彼は必死に、ソドムの町が滅ぼされないよう神様に執り成しを行います。「あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」と。

 

 すると神様は、あっさりアブラハムの要求を聞き入れます。「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」……旧約では、繰り返し人々を裁く厳しいイメージの神様ですが、実はこうした執り成しがあるとき、神様はその願いを無視しませんでした。むしろ、誰かが執り成すチャンスを、弁護する機会を、いつも人々に与えていたのです。

 

 アブラハムはその後も続けます。もし正しい者が45人しかいなかったら……30人しかいなかったら……20人しかいなかったら……ついには10人しかいなくても、その者たちのために、町を滅ぼさないと神様に約束してもらうのです。しかし、そこで止めてしまったアブラハムの執り成しは、成功しませんでした。なぜなら、町にはたった10人さえ正しい者がいなかったからです。

 

 人間は「ここまでやったら大丈夫ですよね?」と自ら神様に提示した正しさにさえ、至ることができません。これくらいはできる、これくらいの正しさならある……神様、これより悪ければどうぞ裁いてください。そう思わず願いたくなります。しかし、私たちは遥かに足りない自分の正しさを、罪の重さを、自覚することができていないのです。アブラハムも分かっていませんでした。人々の罪がどれだけ重く、正しさが足りなかったかを。

 

 そう、私たち人間は皆、足りない自分を弁護してくれる者が必要です。しかし、その弁護は容易ではありません。私たち人間の中に、完全な執り成しをすることができる者はいないのです。しかし、神様は、そのまま私たちを裁いて滅ぼすことを、義とされませんでした。神様の子であるイエス様も同じ気持ちでした。弱い人も愚かな人も助けたい、そんな神様の意志を実行する……人間が償いきれない罪を背負って、代わりに自分が裁きを受ける。全ての人が、やがて来たる神の国で永遠の命を受けられるように、自分が十字架にかかる。それこそが、イエス様の言う「栄光の時」でした。

 

 非常に壮大な計画が遂行されようとしていました。もちろん、弟子たちはそこまで考えが及びません。せいぜい、目の前にある、ローマという分かりやすい敵を倒してくれるくらいのことしか考えていませんでした。彼らには、特別な奇跡を行う方が、服を脱がされ、鞭打たれ、十字架につけられるような形で、人々を救おうとしているなんて、理解できませんでした。

 

【真理の霊】

 イエス様も、彼らが理解できないことを知っていました。しかし、やがて自分の言ったことが理解できるように、弟子たちに真理の霊が送られてくると話します。真理の霊……いったいそれは何でしょう? 14章の後半で、その正体が語られていました。「わたしはあなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことを思い起こさせてくださる」

 

 そう、真理の霊というのは、神様が人々に送る聖霊のことでした。弁護者、すなわち、罪から離れられない私たちのために執り成しをしてくれる方、私たちを悪から守り、弁護し、助けてくれる力です。イエス様は、神様と自分、自分と聖霊とが一致した存在だと弟子たちに語りました。自分は父である神様の意志を実行し、聖霊は自分の意志を人々に実行させる力だと。

 

 つまり、聖霊が一人一人に送られるということは、一人一人にイエス様の意志が働いてくれるということです。その人が裁かれないよう弁護し、罪から離れるための必要な気づきと力を、イエス様が与えてくれる……弟子たちにも、その時が来れば、今は理解できないイエス様の話が、分かるようになると言うのです。

 

【しばらくいなくなる】

 それにしても、イエス様の話はたいへん回りくどいものです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」とは、イエス様が十字架にかけられて死に、弟子たちの前から、しばらくいなくなってしまうという意味です。「またしばらくすると、わたしを見るようになる」というのは、イエス様が死んだ後復活し、再び弟子たちに姿を現すということでした。

 

 いくら後から聖霊が送られて、この意味が分かるようになるとは言っても、あまりに遠回しな言い方です。もっとストレートに言えば、すぐ分かったかもしれないのに……しかし、他の福音書を見てみると、そうではないことが明らかです。イエス様がはっきり「私は十字架につけられて死ぬ」と言っても、3回にわたって繰り返しても、弟子たちはその意味を理解しませんでした。

 

 彼らは思ってもみなかったのです。まさか、自分たちの期待していた救い主が、かっこよく悪い奴らを打ち倒すのではなく、罪人として十字架につけられるという惨めな死に方で、人々を救おうとしているなんて! しかもその後、復活してくるなんて!……案の定、ヨハネによる福音書でも、弟子たちは理解せず、最初に私の言ったことを呟きます。

 

 「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」……弟子たちが特にひっかかっていた「しばらくすると」という言葉、原文ではミクロンという単語で、ほんの短い期間のことです。「しばらく」と訳されていますが、ほとんど「すぐに」という意味です。

 

 実際、こう語って幾ばくも立たないうちに、イエス様は祭司長たちに捕まって、十字架につけられるため連行されていきます。また、処刑されて3日目には復活し、弟子たちの前に姿を現します。イエス様の語る出来事は、すぐに起きると言われているのです。そして、手元で聖書の続きを読める私たちには、この言葉がもう一つの意味を持っていることが分かります。

 

 イエス様は、復活した後、次々と弟子たちに姿を現しましたが、世の終わり、神様の支配が完成するとき、再び地上へ戻って来ると約束して、天へ昇っていかれます。弟子たちはまた、しばらくの間、イエス様の姿を見ることができなくなるのです。今度は、死んでから3日目に復活した時とは違って、だいぶ長いことイエス様に会えません。この世の終わり、終末の時という、いつ来るか分からない日まで、もう会うことはできないのです。

 

 いえ、実は違いました。イエス様は約束していました。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と……真理の霊、イエス様の意志を実行させる聖霊は、しばらくすると、すぐやってきました。イエス様が天へ昇ってから10日後に……弟子たちを弁護し、守り、助けるために。

 

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」……この回りくどい言い方には、イエス様を信じる全ての人を励ます大きな力があるのです。イエス様は、十字架にかかって死んだ後、三日目に復活しただけでなく、天へ昇って神様のもとへ行った後、すぐに聖霊を送ってくださいました。

 

 私たちがイエス様を見ることができなくなっても、イエス様は側にいてくださる。私たちを弁護し、守り続けてくださる。ペンテコステの日、約束の聖霊を受けた弟子たちは、かつて意味の分からなかったイエス様の言葉を理解したのです。天に昇ったイエス様は、今も私と共にいてくれるのだ。悲しみは喜びに変わり、この喜びを奪い去る者は、もはや誰もいないのだと。

 

【聖餐の時】

 さて、今日はこの後、聖餐式があります。聖餐式は、神様を信じますと告白した人が、信仰者であり続けるための式です。イエス様とつながり続けるための式、そう先週もお話しました。500年前の宗教改革者、ルターを始め、カルヴァンやメランヒトン、教会が聖書に立ち返るよう訴えた多くの人々が、この聖餐式をとても大切に考えました。

 

 なぜなら、聖餐式は単にイエス様のことを思い出す式ではなく、ここにイエス様がいてくださること、私とイエス様が聖霊によってつながっていることを、体験する場所だからです。イエス様は、十字架につけられる前夜、これから自分を見捨てて離れてしまう弟子たちのために、パンを割き、ぶどう酒を注いで、彼らとつながってくださいました。

 

 復活した後、最初は自分に気づけなかった弟子たちのために、エマオの途上でパンを割き、「私はここにいる」と示してくださいました。イエス様は、ぶどう酒をご自分の血として、パンをご自分の体として私たちに与えました。「あなたを弁護し、守り、助ける私は、ここにいる」と、繰り返し実感するよう導いてくださいました。

 

 今日、私たちはイエス様と共にいます。比喩ではなく、本当に、ここにイエス様がおられるのです。私たちの目には見えませんが、紛れもなく、私たちを愛してくださるイエス様が、ここにいてくださるのです。共に、この盃とパンを受けましょう。信仰を告白していない人も、聖餐式の中で祝福を受けることができます。共に、イエス様がここにいることを思い出し、喜びを分かち合いましょう。