ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『あなたのものは私のもの』 エフェソの信徒への手紙1:15〜23、ヨハネによる福音書17:1〜13

礼拝メッセージ 2018年5月13日

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【似ている言葉】

「お前のモノは俺のモノ、俺のモノも俺のモノ」……小さい頃、私も毎週のように見ていた国民的アニメ『ドラえもん』に出てくる有名なセリフです。そう、あの典型的なガキ大将、ジャイアンのセリフ、皆さんもよくご存知だと思います。主人公であるのび太君の持ち物を横取りしては言い放つ、たいへん自己中心的な言葉、利己的な物言い……あまり良いイメージを持っている人はいないでしょう。

 

 ところが、2011年3月25日に放送されたアニメでは、このセリフのイメージが一変します。のび太君が新一年生になる時の話です。その日、彼は入学式早々、さっそく学校に遅刻してしまいます。遅れて体育館に到着してみると、既に誰一人残っていません。式が終わってしまったと思ったのび太君は、トボトボと家に帰り始めます。

 

 しかし、帰宅する途中で、彼は日頃のおっちょこちょいぶりを発揮して、迷子になってしまいます。歩いても、歩いても家にたどり着くことができず、疲れ果てたのび太君は、ランドセルを下ろして休もうとしました。ところが、歩道橋に置いたランドセルはバランスを崩し、走行中のトラックの荷台に落ちてしまいます。

 

 そのままトラックは過ぎ去って、のび太君はランドセルを見失ってしまいました。彼は慌ててランドセルを探し始めます……しかし、いっこうに見つけることはできません。その時、入学式に現れなかったのび太君を、ジャイアンが探しにやって来ます。すると偶然にも、トラックに運ばれていくランドセルを発見し、のび太君の置かれている状況を理解するのです。

 

 ジャイアンは「俺に任せろ!」と叫んで、必死にトラックを追いかけ、ランドセルを何とか取り戻します。のび太君は戻ってきたジャイアンからランドセルを受け取り、「ジャイアン、ありがとう!」とお礼を言います。すると、照れ隠しのようにジャイアンが返してきたのがこの言葉……「当たり前だろう! お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノだ!」

 

 ちなみにこのストーリー、マンガ版にはなく、アニメ版のみのお話だそうです。昔に比べて、ジャイアンもだいぶ丸くなってきました。もともと映画版ではなぜか情に熱いキャラクターになることで有名でしたが、最近では、一般に放送されているアニメでも、けっこう良い奴になっています。

 

 さて、皆さんもうお気づきのとおり、今日私たちが読んだ聖書箇所には、あのジャイアンが言っていたのと似たようなセリフが書かれていました。17章10節で、イエス様が神様に向かって口にした言葉です。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」。

 

【ゲッセマネの祈り】

 メッセージのタイトルにも挙げていた「あなたのものは私のもの」という言葉……ありがたいことに、誰かのものを横取りして、それを正当化するようなヤクザなセリフではありません。アニメ版ジャイアンのセリフが、のび太君との厚い友情を感じさせたように、イエス様の言葉も「あなた」と「私」の結びつき、「神様」と「イエス様」との間にある深いつながりを感じさせてくれます。

 

 この言葉は、イエス様が十字架につけられる前、逮捕されてしまう直前にささげられた、「大祭司の祈り」と呼ばれるものに出てきます。ちなみに、イエス様が殺される直前の祈りと聞いて、皆さんがよく思い浮かべるのは「ゲッセマネの祈り」だと思います。ヨハネによる福音書以外の、マタイ、マルコ、ルカによる福音書で、この祈りが出てきました。

 

 イエス様は弟子たちと最後の食事をされた後、神様に祈りをささげるため、彼らと一緒にオリーブ山へ出かけます。とてもドラマチックなシーンです。イエス様は途中でペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを選んで、ゲッセマネの園へ連れて行き「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と頼みます。さらに、少し進んだ場所でうつ伏せになって、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と身悶えしながら神様に祈るのです。

 

「杯」というのは、人々のために自分が十字架につけられて死ぬことを意味しています。これから訪れる悲惨な未来を知っていたイエス様は、いよいよその時が近づいてきて、ひどく苦しまれました。そう、神の子であるイエス様も、私たち人間が苦しむのと同じように、「裏切り」「罵倒」「孤独」「死」といった状況が訪れるのを、非常に恐れ、怖がり、嫌がったのです。そして「できることなら、こんな苦しい使命、負わせないでください」と神様に訴えたのです。

 

 けれども、イエス様はそう願った後でこう言い直します。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」……イエス様は神様に向かって、自分の素直な願い、正直な思いを告白した上で、それでも、あなたの考えているとおり行なってくださいと祈りました。たとえ、どんなに辛い使命でも、神様は必ず正しい方向へ進ませてくださる。悲しみを喜びに変えてくださる、そう信頼して、「これから自分に降りかかることは恐ろしいですが、あなたの願っていることを私も願います」と、神様に祈ったのです。

 

【父と子と彼らの関係】

 教会に来ている多くの人が、この祈りに励まされたのではないでしょうか? イエス様も私たちと同じように悩み、苦しみ、それを訴えた上で、神様に従っていった……私たちの痛みを、葛藤を、イエス様は経験し、よく知っていてくださる……ところが、ヨハネによる福音書では、ゲッセマネの祈りが出てきません。

 

 12章27節に、ヨハネ版ゲッセマネの祈りと呼ばれるものが出てきますが、とても短い祈りです。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。

 

 他の福音書ほど、イエス様の不安とか、葛藤とかいったものは見えてきません。むしろ、たった4行で、自分が十字架につけられる運命を受け入れてしまったように見えます。実は、ヨハネによる福音書では、他の福音書に共通して出てくる多くのエピソードが省かれています。おそらく、著者はマタイ、マルコ、ルカによる福音書を知っていて、そこに記されなかったことを、なるべく書こうとしたのでしょう。

 

 事実、17章に出てきた祈りは他のどこにも出てきません。これから十字架につけられ、地上を去ろうとするイエス様が、残される弟子たちのために執り成しをされた、非常に貴重な祈りです。そして、ここではとても大胆なことが言われています。神様に向かって、イエス様が「あなたのものは私のもの」と語られる。同時に、「私のものは全てあなたのもの」とも言われます。

 

 神様と自分が一体であることを表した印象的な言葉です。さらに驚くのは、イエス様が「彼ら」と呼んでいる人たちについて言われていることです。6節にこう出てきます。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」

 

「彼ら」と言うのは、直接的にはイエス様に従ってきた弟子たちのことを指しています。同時に、イエス様を信じて受け入れる全ての人たち、いわゆるクリスチャンや教会に来ている人たちのことも入ってきます。その「彼ら」のことを、イエス様は「神様が自分に与えてくれた人たちだ」と語ります。

 

 もともと自分が大事にしていた宝物を、大きくなった息子に与える父親のように、神様はペトロ、ヤコブ、ヨハネといった弟子たちをイエス様に与えたと言うのです。また、現在イエス様を信じている私たちも、神様がイエス様に譲り与えた、大切な宝物のように表現されます。

 

 実際には、そのように表現された弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまうポンコツだったわけですが……現在イエス様を信じている私たちも、みんながみんな宝物のように扱われるべき、大層な人間というわけではありません。喧嘩もするし、嘘もつくし、過ちもたくさん犯します。それなのに、なんて恐れ多い言葉でしょうか!

 

【弟子たちを執り成す祈り】

 さらに、イエス様は衝撃的な言葉を続けます。

 

「彼らは、御言葉を守りました」……御言葉というのは、神様の言葉、イエス様の教えです。彼ら弟子たちは、イエス様の教えを守ったのでしょうか? 誰が一番偉いのか言い合って、互いに愛し合うことがなかなかできなかった彼ら。これから祭司長たちに捕まるイエス様を見捨てて逃げてしまう彼ら。自分の身が危うくなると、イエス様の弟子であることさえ否定してしまう彼ら。「御言葉を守った」なんて、どうして言えるでしょうか?

 

 8節ではこうも言っています。「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」……イエス様の伝えたことを信じ、イエス様を神の子として受け入れる、それを彼らはできているとイエス様は語ります。

 

 確かに、16章30節で、弟子たちはイエス様に向かってこう言っていました。「あなたが何でもご存知で、誰もお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」……しかし、彼らはイエス様が十字架につけられて死に、三日目に甦るという言葉を、まだ理解していませんでした。実際に甦ったイエス様と出会うまで、自分たちに語られてきたことを、信じていなかったのです。

 

 イエス様自身、「わたしたちは信じます」と言った弟子たちに対し、こう返しています。「今ようやく、信じるようになったのか? だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている……」その言葉どおり、彼らは間もなく、イエス様を置き去りにして逃げ帰り、自分の家に閉じこもってしまうのです。

 

 そんな彼らのことを、イエス様はなぜ「御言葉を守りました」とか「自分を信じた」とか言ったのでしょう? それを理解するには、2つの視点が必要です。一つは、この祈りが、イエス様が天に挙げられた後のことを暗示する、預言的なものであったこと。もう一つは、この祈りが、彼らのためにイエス様が行なった執り成しでもあったことです。

 

 そう、弟子たちがイエス様のことを本当に理解するのは、十字架にかけられて死んだイエス様が3日目に復活し、自分たちの前に現れた後のことでした。聖書に書かれていたことが本当に実現した。イエス様は神様の意志を実行し、死から甦る栄光を受けられた。自分たちだけ逃げ帰ってしまった家の中に、もう一度会いにきてくれた復活の主を見て、彼らはようやく、それを本当に信じたのです。

 

 今はまだ、御言葉を守ることができていない彼ら、信じることができていない彼らも、自分が十字架にかかって復活した後には、ちゃんとできるようになる。私を受け入れて信じてくれる。そう預言しながら、イエス様は神様に執り成しておられるのです。そして、「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」と神様に言った後、「わたしは彼らによって栄光を受けました」とまで言っています。

 

 これは、復活したイエス様が天に昇った後、十日後に聖霊を受けた弟子たちが、イエス様を神の子として証言し、その教えをたくさんの人に伝えていったことを表しています。そして、自分が天に挙げられた後も、弟子たちが苦難や困難から守られるように「神様、彼らを助けてください」と願ってくださったのです。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。

 

「彼らも一つとなるため」……この言葉には、とても切実な思いが込められています。ヨハネによる福音書では、人々の間に様々な分裂が起きていたことが報じられています。ユダヤ人の中で起きていた分裂、弟子たちの中で起きていた分裂、そして、この福音書が記された時代にも、教会において幾つもの分裂が起きていました。

 

 しかし、教会が分裂し、別々のグループに分かれていく度に、このイエス様の祈りが思い出されてきました。父なる神と子なるキリストが一つであるという信仰のもとで、私たちキリスト者は一致し、神様のことを伝えていくことができるはずだ……そうやって、多くの困難を経験しながらも、世にある教会は、共同して神様の働きに用いられていったのです。

 

【全てを満たすイエス様】

 私たちはイエス様のものであり、神様のものであり、愛されている存在です。互いに愛し合って一つとなるように、つながることができるように、執り成しを受けています。教会は、この執り成しをキリスト者同士行っていくところでもあります。後の信仰者であるパウロも、最初に読まれたエフェソの信徒への手紙で、こう祈っていました。

 

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」……これは、弟子たちと同じように、イエス様を信じる者が聖霊を受けて、知恵と力を得ることができるように願っている祈りです。

 

 そして、手紙の1章23節にはこう綴られています。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」……イエス様が天に昇られたことによって、姿を見えなくされたことによって、私たちはまさにそのことを実感します。

 

 私たち人間は、どんなに仲の良い人がいても、常に一緒にいることはできません。建物で隔てられ、国境で隔てられ、海で隔てられます。思想、信条においても度々隔てられます。必ず一人になる時がやってきます。イエス様も心を震わせて恐れたような、孤独を経験するときがやって来ます。しかし、私たちが天を見上げたとき、すべての人はイエス様によってつながっていることを思い出すことができます。

 

 この何一つ隔てるもののない空に、イエス様は昇っていかれました。常にここで、私たちとつながり、私たちに聖霊を注いでくださいます。そして、教会に来て神様を礼拝するとき、全てにおいて、全てを満たしているイエス様が、私と共にいてくださることを確認することができます。共に、この恵みを味わいましょう。また新しい一週間を歩んでいきましょう。

 

 今度の日曜日には、待ちに待ったペンテコステ、イエス様が弟子たちに聖霊を送られたことを記念する日がやって来ます。その日、もう一度私たちは集まって、パンとぶどう酒を分かち合い、イエス様につながっていることを思い出しましょう。イエス様の存在が満ちているこの場所で、どんな隔たりも、ものともしない方がおられる場所で、私たちも互いのため、世界のために、執り成していきましょう。