ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『やめられないとまらない』 歴代誌下15:1〜8、使徒言行録4:13〜31

礼拝メッセージ 2018年6月3日f:id:bokushiblog:20181121165246j:plain

 

【教会の使命】

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」……ペトロとヨハネは、イエス様の十字架と復活、イエス様の語ってきたこと、行ってきたことについて、話さないではいられないと叫びました。今日のメッセージのタイトル「やめられないとまらない」も、2人の言葉から来ています。決して、今からカッパ海老せんの話をするわけではありません。私がするのは伝道の話です。

 

 しかし、この言葉に、いったいどれだけの人が同意できるでしょうか? 伝道は「やめらない、とまらない」……皆さん、そんなこと自分の口から言えますか? 

 

 確かに、教会は伝道しなければ教会とは言えません。ただの勉強会や同好会とは違います。ここに集まり、洗礼を受けた一人一人が、イエス様の言葉と行いを伝える使命を持っています。言わば、私たちは伝道共同体なのです。

 

 イエス様も天に昇られる前、弟子たちにこう言いました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」

 

 教会の一員であるクリスチャンは、一人一人がこのように命じられた伝道者です。イエス様の十字架と復活、神様の赦しと救いを伝えていく使命があります。当然、私たちはあらゆる人に、福音を伝えなければなりません。

 

【伝道のリスク】

 福音、それはイエス様によってもたらされた「良い知らせ」です。良い知らせなら、人々は喜んで受け取るはずです。世の中悪いニュースで溢れていますから……しかし、私たちが普段語っている「良い知らせ」は、いったどこから来たものでしょう? 

 

「私が落ち込んでいたとき、この音楽には何度慰められたことか!」「今まで病弱だった私も、このサプリを飲み続けたらすっかり元気になったんだ」「疲れたとき、この動画を見ると気分が明るくなるんだ」……私たちは、聖書から教えられたことより、圧倒的に、他のものから良い知らせを、慰めを語ってきました。

 

 一方で、私たちがイエス様のことを語るのは一週間に何回あるでしょう? そう、福音を語ることこそ、私たちが避けてきたことです。私たちは日曜日、イエス様の十字架と復活を聴いて、月曜日から土曜日までは教会の外で大人しく過ごします。間違っても、弟子たちのようには語りたくありません。

 

「あなたの罪のせいで、イエス様は死にました。しかし、イエス様は復活し、あなたを赦し、あなたを救ってくれました」……そんなこと言おうものなら、すぐ私たちは攻撃を受けるでしょう。

 

「上から目線で何を言っているのか! あなたこそクリスチャンのくせにいっぱい罪を犯しているじゃないか。私と一緒に上司の悪口を言ったし、私から借りたタクシー代を踏み倒しているし、私の犯したミスをいつまでもつついている……いったい、あなたのどこをキリストは赦してくれるのか?」

 

 伝道とは、なんて厄介なものでしょう。人々を悔い改めさせようとした瞬間、私たちが悔い改めを迫られます。伝道は、私たちの心を揺さぶり、叩きのめし、震えさせてきます。非常にリスキーです。できれば何か良いことをして、キリスト者は優しくて思いやりに満ちた人だと、認めてもらう程度で勘弁してほしいところです。

 

 ペトロとヨハネも、まさにそんな行動をします。3章で足の不自由な人を癒し、歩けるようにしてあげたのです。素晴らしい! キリスト者はなんてすごいんだ! 親切で、優しくて、立派な人たちだ……それで終われば良かったのに、2人は10節でとんでもなく危険なことを言い始めます。

 

「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が使者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」

 

 あなたたちの殺した人が復活して、あなたたちを癒す者となった……はっきり言って相当攻めている言葉ですよね。「良い知らせ」というには、ちょっと刺激が強すぎる言葉です。ペトロはこの前にも、人々が十字架につけて殺してしまった、あのイエス様への信仰が、足の不自由な男を癒したのだと語っていました。そして、人々に悔い改めるよう命じました。

 

 彼はこれだけ大胆なことを言っていますが、いつ、こう言われてもおかしくありません。「上から目線で何を言っているのだ! 何が悔い改めろ、だ! お前こそイエスが十字架にかかったとき見殺しにしただろう!」

 

 実際、一部の人からはそう言われていたかもしれません。ヨハネもそうです。2人は、イエス様の遺体が無くなった時、真っ先に墓へ駆けつけた弟子でした。しかし、空っぽの墓を見ても、マグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と言っても、自分たちが直接会うまでは、イエス様の復活を信じなかったのです。その口から、彼らは「死者の中から復活したイエス・キリストを信じろ」と語ります。

 

 もし、2人を前から知っている人が、その場に紛れていたらこう言ったでしょう。「上から目線で何を言っているのだ! 何が復活だ! お前たちだって、つい最近までイエスは死んだと言っていたじゃないか……復活なんてありえないこと、信じていなかったじゃないか!」

 

 さらに、それだけではありません。ペトロとヨハネが、イエス様の十字架と復活を語っているとき、サドカイ派の人々が近づいて来ました。サドカイ派とは、当時の貴族祭司と上流階級の信徒サークルで、新しい思想に反対の立場をとる「超保守派」の人々でした。特に、「死者の復活」については否定的な意見を示し、イエス様とも何度もやり合ってきたグループです。

 

 その彼らがやって来ても、イエス・キリストの復活を語り続けたわけですから、当然何も起きないわけがありません。貴族や上流階級の気に入らないことをすればどうなるのか、皆さんもよくご存知でしょう。2人は脅されました。「今後、イエスの名によって誰にも話すな」と……しかし、2人は対立する人々に囲まれた状態で言うのです。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです!」

 

 常識的に考えれば、なんて愚かな行動でしょう!

 

【厄介な言葉】

 実は、旧約においても、神様から聞いたこと、語られたことを話すというのは非常に厄介なことでした。最初に読んだ歴代誌下15章には、預言者オデドとその子アザルヤが、ユダの王アサの前に来て、神様の言葉を伝えたことが記されています。

 

 その頃、アサは自分の国から異教の神々を一斉に除去しようとしていました。神様は自分以外のものが神として拝まれるのを禁じていたからです。しかし、実際には多くの場所に偶像が置いてあったわけですから、国民の多数は他の神々を祀っていたわけです。

 

 年若いアサにとって、国内から偶像を撤去し続けていくことは、いつ人々から反感を買ってもおかしくない、支持を失ってもおかしくないリスキーなことでした。どうやら、彼は神様に従い続ける勇気を失いかけていたようです。しかし、オデドとアザルヤはおかまいなしに、王に向かってこう言います。

 

「あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある」……そうは言っても、この時アサの母親マアカまでもが、外国の神々であるアシュラ像を拝んでいたのです。アサに命じられたことは、自分と国民、自分と母親の関係を崩しかねない、非常に厳しい言葉でした。

 

 王によっては、「これ以上そんなことできるか!」と怒って、オデドとアザルヤを投獄してしまうかもしれません。事実、アサは晩年、自分の行いを批判した預言者を投獄してしまいます。いつだって、神の言葉を伝える者たちには危険がありました。

 

 にもかかわらず、オデドとアザルヤは主の言葉を語ります。ペトロとヨハネは、イエス様の復活を語ります。「見たことや聞いたことを話さないではいられない」……たとえ自分の身が危険に晒さても……言葉どおりだとすれば、これは本当に厄介です。危険だと分かっていても、自分を止められないわけですから。

 

 しかし、ここで私たち自身のことを思い返してみましょう。私たちは「見たことや聞いたことを話さないではいられない」という体験をしたことがあるでしょうか? 確かに、ある時牧師のメッセージに心打たれ、誰か他の人にも伝えたくてたまらないという経験をしたことがあるかもしれません。(そうだといいなと思います……)信徒の証に感動して、家族や友人にその話をした経験があるかもしれません。

 

 けれども、身の危険を顧みないほど、周りに引かれ、家族や友人との関係が変わってしまうことを覚悟してまで、これらの話をし続けたことがあるでしょうか? あっても、そうたくさんじゃないですよね。実際には何度もやめているし、止まっているわけです。だからこそ私たちは、「話さないではいられない」弟子たちを見て、なんて心の強い人たちだろう、自分には真似できない……と思ってしまうわけです。

 

 しかし、弟子たちも口を閉じようとしたことは何度もあったはずです。実際には、落胆して立ち止まったことがあったはずです。神様に愚痴を言うこと、もう語るのを止めたいとこぼすこと、きっとたくさんありました。旧約の預言者たちだって、何度も愚痴っていました。立ち止まっていました。しかし、彼らはまた「話さないではいられなく」なっていきました。繰り返し、ある方に手を取って起こされていったからです。

 

【手を取られたのは】

 実は、足の不自由な男が、ペトロに手を取られて立ち上がったように、ペトロ自身も足が震えて歩けなくなったとき、イエス様に手を取って、起こしてもらう体験をしていました。

 

 マタイによる福音書14章22節以下に記された、イエス様が湖の上を歩く、有名なエピソードです。その日、湖は非常に荒れていました。弟子たちが乗った舟は陸から何スタディオンも離れており、逆風のため戻ることもできませんでした。そこへ、ちょうど夜が明ける頃、イエス様が湖の上を歩いて、困っている弟子たちのところへやって来ました。

 

 しかし、弟子たちは水の上を誰かが歩いてくるのを見て、「幽霊だ」と怯えてしまいます。彼らは「死」を身近に感じたとき、いつもイエス様を見失います。荒れ狂う湖の上で、空っぽの墓の前で、「あの方はここにいるはずがない」と考えます。しかし、イエス様は近づいてきて声をかけます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」……その声を聞いたペトロは勇気を出して答えました。

 

「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」……私たちも、洗礼を受けたとき、神様のことを誰かに伝えようと決心したとき、始めはこう思いますよね。「主よ、激しい風が吹き荒れるこの世の中を進ませてください」そして、イエス様の「来なさい」という返事に頷いて、ペトロは、私たちは進み始めます。

 

 しかし、強い風がビュービュー吹き付けてきます。湖を歩き始めてから急に吹いてきたわけではありません。風はもともと吹いていました。ペトロも私たちもそれを知っていました。この嵐の中で、この世の中で、イエス様に向かって歩いていくことの難しさは、分かっているつもりでした。

 

 しかし、いざ強い風がまともに当たると、本当に怖くなって足が止まります。そして気がつきます。「自分はなんてありえないことを、恐ろしいことをしているのだろう! 湖の上を歩こうとするなんて! 伝道しようとするなんて!」

 

 我に返った瞬間、ペトロの足は湖の中へ沈んでいきます。私たちも恐れと不安の中へ沈んでいきます。そして必死に叫びます。「主よ、助けてください!」……イエス様はすぐに手を伸ばして私たちを捕まえます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」そう言いながら、必ず捕まえてくださるのです。私たちはイエス様から立ち上がらされ、再び湖の上を、この世の中を進んでいきます。

 

 ペトロは、それから数ヶ月後に、足の不自由な男と出会いました。目の前の人が、かつて湖の上で震えていた、歩けなくなっていた自分だと気づきました。彼はその人の手をとりました。ぎこちなく引っ張られる男の手が、かつてイエス様に引っ張られた自分の手を思い出させました。ペトロが起こすと、男はたちまち足やくるぶしがしっかりして立てるようになりました。それどころか、躍り上がって神様を賛美し始めました。

 

 ペトロは、自分が男の手を取ったとき、イエス様の手を見ました。自分が男を立ち上がらせたとき、イエス様の奇跡を見ました。あのとき私を助けたイエス様が、今、私と共にいて、一緒にこの人を立ち上がらせている……自分を脅し、捕まえ、止めようとする人が近づいてくる中、強い風が吹きつけてくる中、ペトロはイエス様と再び出会いました。

 

 男を癒し、イエス様の名を示したとき、ペトロも癒され、イエス様の名を示されました。伝道しに来て、自分が伝道されたのです。「今後あの名によってだれにも話すな」……分かりやすい脅しを受けました。しかし、もう立ち止まってはいられません。なんたって今、自分は起こされたばかりですから。足の不自由な男と一緒に、私も手をとって立ち上がらされたのですから。

 

【伝道者は誰?】

 さて、私たちは今、弟子たちに起きたことを聞きました。イエス様の語ったこと、行なったことを聞きました。ここで見たこと、聞いたことを人々に話していくのは、いったい誰でしょうか? ここから出て、伝道者として遣わされていくのは誰なのでしょう?

 

 どうぞ覚悟してください。今日、この話をされているのは、皆さん以外の第三者ではありません。「まさか、私に?」と思っている、あなたです。先週の日曜日、私は皆さんが「神の子」とされている事実を話しました。伝道者はあなたなのです。

 

「先生、そんなことおっしゃられても、私はただの一般信徒です。あなたこそ正真正銘、牧師として召された伝道者じゃありませんか! 私に伝道を押し付けないでください。知っています、あなたは一週間メッセージの準備をするという名目で閉じこもり、外で話すことを恐れていると! あなたこそ伝道者なのに!」

 

 そのとおりです。私もまた、悔い改めを迫られています。キリストの弟子である皆さんから、命じられています。皆さんが、立ち止まった私の手を取って起こします。「行って、外にいる人たちをキリストの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」と……お願いです。どうぞ私を、皆さんが遣わされる日常へと、教会の外へと一緒に連れ出してください。私に命じてください。

 

「先生、うちの子どもと会ってください。あいつに聖書の話をしてやってください」「先生、私の母の家へ来てください。神様の話をしてあげてください」「先生、キリスト教に興味のある友達がいるのです。どう話せばいいか教えてください」……。

 

 ある方が私に求めてくれました。牧師室から出て、幼稚園の子どもたちに会うことを。ある方が私に求めてくれました。礼拝に顔を出せなくなった人の所へ訪問することを。ある方が私に求めてくれました。病床につく友人のために、一緒に車に乗って訪問聖餐に行くことを。

 

 伝道は、やめられませんし、とまりません。どうぞ、続けて他の方々も求めてください。福音を知ってほしい人のもとへ、私を連れ出してください。私の心を揺さぶり、叩きのめし、震え上がらせてください。その時こそ、神様が私とあなたに聖霊を送ってくださるでしょう。大胆に語らせてくださるでしょう。私も皆さんに命じます。「行って、すべての民をキリストの弟子にしなさい」