聖書研究祈祷会 2018年5月30日
【神様との食事】
神学部の学生だった頃、私は原因不明の虫垂炎でしばらく入院していたことがありました。幸い、手術する必要はありませんでしたが、三日間食事をとることが許されず、点滴で過ごさなければなりませんでした。病院の中で暇を持て余していた私は、その時ほど、自分が食事できる日を楽しみにしていたことはありませんでした。
点滴で栄養は受けていましたし、たいして運動もできなかったので、さほど空腹にはなりません。しかし、腹を満たす以上に、食事は自分にとって欠かせない娯楽であったことを、私はその時初めて気づかされました。食事には、栄養補給以上の大きな意味があります。特に、誰かと一緒にとる食事がそうです。今でも、私は家に帰って一人で夕飯を食べるとき、無性に誰か人のいる場所でご飯を食べたくなるときがあります。
幼い子どもでも、一人ではなかなか食べてくれないのに、何人かで一緒に食事を始めると、もりもりご飯を食べてくれることがあります。きっと、人間にとって自分以外の存在がいる場所で食事をすることは、生きていく上で、よほど大きな力になっているのでしょう。しかし、私たちはいついかなる時も、どんな相手とも、楽しく食事をできるわけではありません。
たとえば、上司がいる場所での食事、目上の先輩との食事、厳しい親戚に囲まれているときの食事……相手によっては、緊張で何を口にしているのか分からなくなるときもあります。できれば、食事の席で一緒になることを遠慮したい人間だっています。たとえ、それが尊敬する相手、あこがれの存在であっても、いきなり食事に誘われたら狼狽えてしまいます。
大好きな人の前でものを食べる……相手に抱いている感情が、尊敬であろうと恋心であろうと、初め実行するにはなかなか勇気のいることですよね。特に、普段は自分にとって遠い存在である場合、なかなか顔と顔を合わせられない関係の場合、より一層、ハードルは高くなっていきます。
皆さんにとって、尊敬と畏れとあこがれの対象、目の前にいたら食事も喉に通らなくなるような相手とは、いったい誰でしょうか? 普段は顔を合わせられない、遠くに感じてしまう存在……キリスト者にとって、その究極の相手とは神様でしょう。実際に、神様が目の前に現れて「さあ、一緒に食事をしよう」と言われたら、たぶん私は震え上がってしまうでしょう。本来ならそれくらい緊張する相手です。
ところが、今日読んだ聖書箇所には、びっくりするほど淡々と、神様の目の前で食事をした人たちのことが書かれていました。それは、エジプトを脱出してシナイの荒れ野に到着したモーセとアロン、アロンの息子たち、およびイスラエルの70人の長老たちでした。彼らは「神を見て、食べ、また飲んだ」と言われています。なんてあっさりした書き方でしょう!
【だんだん近づかせる神】
この箇所は、新共同訳聖書で「契約の締結」という見出しが打ってあるように、神様がイスラエルの民と契約を交わした場面です。非常に重要なシーンですが、この章で書かれている出来事が、実際にはどう展開したのか、正直さっぱり分かりません。よく見れば、契約締結の儀式がどこで行われたのか、山頂で行われたのか、山の麓で行われたのかさえ、はっきりしないのです。
これは、いくつもの伝承が合成され、複数の資料が組み合わされた結果であると説明されます。しかし、メッセージを聞く方としては、なかなか厄介なところです。重複した記述、回りくどい展開、矛盾した描写……しかし、その一つ一つから、私たちは重要な意味を受け取ることができるのです。
まず、私たちは矛盾する神様の言葉に首を傾げました。神様は1節でモーセに対してこう言います。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さなければならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない」
どうやら、神様はイスラエルの民とは基本的に離れていたいようでした。むやみに近づいてほしくないと言ってきます。ところが、9節ではこう書いてあります。「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老たちと一緒に登って行った」……彼らがどこまで登って行ったのかは分かりませんが、確かなのは、神様のすぐ目の前までやって来たことです。なぜなら、彼らはその目で神様の足元を見ることができたからです。
「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた」……サファイアは空の青さを示し、敷石は天の大空を表すと言われています。天上にいる神をすぐ近くで仰いだことを意味しますが、それを考えると、彼らは山の麓というよりも、だいぶ上の方まで登って行ったのではないかと思わされます。「遠く離れて」と言われながら、割と近くまで来てしまったのです。
しかも、彼らは最初言われていたように、神様にひれ伏した様子もありません。むしろ、神様を目の前にして、その場で食べ、飲み始めたのです。旧約聖書において、神様を見た者は基本的に死を免れないと考えられてきました。だからこそ、モーセもはじめ、燃える柴の中から神様の呼び声を聞いたとき、顔を見るのを恐れて地にひれ伏したのです。
ところが、この場面ではモーセもアロンも、他の人々も、みんな顔を地に伏せません。「直接顔を見たら死んでしまう」と言われていた存在を前に、平然と食事を始めます。なんて大胆な行動でしょう! 彼らはおかしくなってしまったのでしょうか? 神様もなぜ、「遠く離れて、ひれ伏さねばならない」と命じた相手が、思いの外近くに来て食事を始めてしまったのに、何も怒らなかったのでしょう?
実は、イスラエルの人々を遠ざけるような発言をしながらも、彼らがだんだんと近くに来るよう導いてきたのは、ほかならぬ神様ご自身でした。19章で、イスラエルの民がシナイの荒れ野に到着したとき、はじめ神様はモーセだけを山の上に呼んでいました。神様がモーセに語るときは、濃い雲の中で行われ、他の人からは絶対見えないようにされていました。神様が民全員の前でシナイ山に降るときも、最初はモーセ以外の誰一人、山に登ること、山に触れることさえ許されませんでした。
「民のために周囲に境を設けて命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さなければならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない』」なんとも厳重な注意です。ところが、この後神様はこう言います。「角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる」
そして、角笛が鋭く鳴り響いたとき、最初はモーセだけが呼ばれました。しかしその後、神様はどんどん山に登れる人たちを増やしていきます。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない」……そうして、有名な『十戒』がイスラエルの民に授けられました。
さらに、神様はもう一度モーセを呼び出し、今度は彼とアロン、祭司となる息子たち、そして、七十人の長老も一緒に連れて来るよう命じるのです。契約締結に際して、神様の前言撤回が続いていきます。神様は、人々と契約を結ぶ際、実は何度も人々を自分に近づかせ、しかもその人数を増やしていきました。イスラエルの民は、それを繰り返される中で気づいていくのです。
自分たちは、神と等しい者であるかのように軽々しく振る舞ってはならない。神と人間とは絶対的に異なるという点で、距離があることを自覚しなければならない。けれども、神様は私たちの近くにいようとしてくださる。私たちを御許に近づけようとしてくださる。神様は絶対的な距離のある私たちを、今、招こうとしている。
食事は、最も日常的に行われる人々の営みです。同時に、食事こそ、神様が人々の間に介入される非日常的な場面でした。人々が喉の乾きを覚えたとき、神様はモーセに岩を割らせ、水を湧き溢れさせました。人々が空腹を訴えたとき、天からマナを振らせました。人々が肉を食べたいと我儘を言ったとき、神様は天からうずらの群を振らせました。神と人間との契約は、この食事という風景の中で行われたのです。
【何度も契約を読ませる神】
さて、神様とイスラエルが契約を交わす場面は、19章で十戒を与えられるところからずっと続いていきますが、私たちはその中で、幾つも重複している記事を見かけます。特に気になるのは、24章の3節と7節に出てくるこの言葉です。「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」
実はこれ、19章の7節でも人々が神様に答えていた言葉です。実に3回も繰り返されています。先に、モーセから神様の命じられた言葉が伝えられ、人々がそれに対して答えるというやりとりです。しかし、その内容は少しずつ更新されていきます。19章では、「主の命じられた言葉」だけが契約の内容でした。24章の始めでは、それが「主のすべての言葉とすべての法」になっています。
これはおそらく、「言葉」と言われているのが十戒の基本部分で、「法」と言われているのが21章以下に付け加えられた世俗法を指していると思われます。さらに、7節では「契約の書」から神様の言葉が読み上げられたと記されています。契約の書は、モーセが3節で人々に語った神様の言葉を、全て書き記したものです。つまり、同じことを2回約束したことになります。
さらに、神様はモーセにこう言います。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」わざわざモーセが神様の言葉を文書に書き起こしたというのに、神様はもう一度それを石の板に書き記して与えると言うのです。最初から、石に書き記して与えれば良かったのでは? と思わず考えてしまいます。
こうして見てみると、神様と人間との間で結ばれた契約は、びっくりするほど回りくどい過程を経て、なんとも非効率的なやり方を繰り返して完成されました。非常にじれったいですよね。逆に言えば、神様は念には念を入れて契約を交わされたとも考えられます。何せ、口頭の約束を文書に書き記し、さらにその文書を石の板に書き写して契約を結ばれたのですから。そこまでする? と言いたくなるような慎重さです。
しかし、この後の展開を知る私たちは、神様の度を過ぎた慎重さに何も言い返せません。何しろ、人々は3回も「わたしたちは主が語られたことを全て行います」と言ったくせに、たった40日後には、もう約束を破ってしまったのですから……そう、彼らはモーセが石の板を授けられている間に、金の子牛の像を作って拝んでしまうのです。
確かに、40日間もモーセが山を登ったまま降りてこなければ、指導者を失った民は右往左往し不安になるでしょう。しかし、彼らのうちアロンとその息子、さらに70人の長老たちは、つい最近本物の神を見ながら食事をしたばかりです。しかも、山の麓で待っていた他の人々も、神様の栄光が山の頂きで燃える火のように輝いているのを見ていました。
かつて、燃える柴の中から呼びかけられた神様の姿が、燃える山頂という馬鹿でかいスケールになって、人々の目に見えていたのです。その上で、彼らは神様と交わしたばかりの約束を破りました。33章で印象的な神様の言葉が聞こえてきます。「あなたたちはかたくなな民である」
かつて、エジプトのファラオとその民に向かって語られた言葉が、イスラエルに跳ね返って来ました。何重にも契約を交わした神様の慎重さは、残念ながら正しかったのです。しかも、この契約の締結には、神様の覚悟が示されていました。4節から8節にかけて、契約の書を読み上げるモーセによって、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物である雄牛が神様にささげられます。
モーセはその血を半分取って祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけてこう言いました。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」実は、レビ記の規定を見てみると、神様にささげる動物の血は、ほとんど祭壇に塗られるか注がれるかで、半分のみをささげるという事例はありません。しかし、残りの半分を民に振りかけることには、重要な意味が見出せます。
創世記15章の記事に、アブラハムと契約を結ばれた神様が、二つに切り裂いた子牛の間を通るという儀礼が記されていました。これは、約束を破る者が、たとえ神の方であっても、二つに切り裂かれた子牛と同じようにされるという厳しい誓約を意味していました。何度もこちらが助けているにもかかわらず、不平不満を言い続けてくる人々と、神様はお互いに約束を破ったら罰を負うという姿勢を見せたのです。
【イエス様との食事】
実はとっても思い切った、とっても踏み込んだ契約を神様は結んでいました。だからこそ、心から人々に守って欲しかった、大事にして欲しかった契約でした。私たちは、この契約締結の祭儀を目にするとき、ある食事の風景を思い起こします。それは、イエス様が十字架にかけられる前、弟子たちと最後の食事をされたとき、杯を手にとってこう言われたことです。
「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」……イエス様が行われた最後の晩餐と聖餐式の制定は、明らかに出エジプト記で契約を結ぶときの食事を意識したものでした。確かに、神様は人々のために、二つに切り裂かれ、血を流されたのです。本来は、約束を破った人間の方が受けるべき裁きを、神様が自ら負ったのです。それも、人間を赦すために……
神様が私たちに求めたのは、同じテーブルで食事を共にする関係でした。神様から出された食事、綺麗な湧き水やふわふわのマナ、新鮮なうずらを手にとって、私たちが散り散りに、別々の場所で貪り食べることではなく、同じテーブルで和やかに食事をいただくことでした。やがて来たる神の国で、神様はこれを実現されようとしています。聖餐式は、神様と人間との契約を思い起こすと共に、将来招かれる天上の会食を先取りしたものでもあるのです。
私たちも神様の目指す方向へ共に歩んでいきたいと思います。今度の日曜日、華陽教会では月に一度の聖餐式が行われます。イエス様の裂かれた体、イエス様の流された血として与えられたパンとぶどう酒とを飲むとき、私たちが今、神様が目の前にいるところで、この食事に招かれていることを思い出したいと思います。