ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『無色透明不定形神様』 申命記4:15〜24

聖書研究祈祷会 2018年6月20日f:id:bokushiblog:20180702204208j:image

【偶像礼拝】

 イスラエルの民がエジプトから脱出し、神様から約束されたカナンの地に入る直前、モーセの最後の説教が語られました。モーセは、民と一緒にヨルダン川を渡って、約束の地に入ることが許されていなかったからです。申命記は、この時語られたモーセの告別説教として記されていますが、その中では繰り返し「唯一の神様だけを拝むこと」「偶像を造ったり拝んだりしてはいけないこと」が語られます。

 

 キリスト教は偶像礼拝を禁止している……おそらく、教会に通っていない人でも、これくらいはよくご存知だと思います。キリスト教は、見えない神様を拝む宗教だ。石や木で神様の像を造ったり、自分たちの先祖を神として拝んだりすることはない。見ることも触れることもできない神様だけを拝む、そういう人たちだ……だいたいの人が、こう理解していると思います。その通りです。キリスト教は偶像礼拝を厳しく禁じています。

 

 偶像礼拝……私たちが本当によく耳にする言葉です。旧約聖書の中で、神様が最も嫌ってきたこと、人々に注意してきたことです。神様は、他の国々で信仰されている異教の神々の像だけでなく、ご自分の像を作ることも絶対に許しませんでした。人間なら、何か立派なことをした暁に、自分の像が立てられると、ついつい嬉しくなってしまいますが、神様は逆に怒ります。

 

 決して、シャイだから、恥ずかしいからという理由で怒るわけではありません。神の像を作ることは、たとえ自分の像として作られたものであっても、他の神々を拝んでいるのと変わらない……そう言って怒るのです。どうやら、単にキリスト教以外の仏像やお地蔵を拝むことが禁止されている、というだけではないようです。

 

 いったい、偶像礼拝とは何を意味するのでしょうか? 神様は、何をそこまで嫌っておられるのでしょうか? 出エジプト記、民数記を振り返りつつ、今日の申命記の箇所から、共に聞いていきたいと思います。 

 

【形ある神を拝む】

 第一に、偶像礼拝は自分に都合の良い神様を拝むことだと語られます。16節で、神様はこう言っていました。「堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も」……なんて念入りに、これもダメ、あれもダメだと繰り返すのでしょう! 神様はよっぽど、像を造られることが嫌いなようです。

 

 像を造る……それは一言でいえば、分かりやすさを取得することです。パッと見て、自分が理解しやすいようにする。その存在がどういうものかを確認し、分析し、把握できるようにする。もっと言えば、自分がそれを操作するため、支配するために行います。像を造ることで、自分がその存在の庇護下にあることを周りに示す。自分たちには神様がついてくれているという証拠を得ようとする。

 

 イスラエルが、モーセの出かけている間に金の子牛の像を造ったのは、まさにそのためでした。目に見える神様は、目に見えない神様と違って、私たちにとってたいへん都合の良い存在です。悪いことをするときは、その像から離れたところで行います。神様を敬っていることを示すのは、その像の前にいる時だけで良いのです。

 

 神学部の一年生だった頃、私はある聖書学の授業で、こっそりと別の授業の課題をやっていました。次の時間がレポートの提出だったのに、全然できていなかったからです。本当は、真面目に授業を受けなければならないのに、私は講義そっちのけで必死に課題という内職をやっていました。その時、無意識に机の上に出していた聖書を、そっとカバンの中にしまったことを思い出します。

 

 何となく、聖書が置いてあるところで内職をするのが嫌だったのです。自分のやっていることを神様に見られているという感覚が、聖書を隠せば少し和らぐような気がしました。ところが、聖書学の授業で聖書をカバンにしまったものですから、逆に講師の目に留まって、「君は何をやっているんだ?」と問い詰められてしまいました。実際には、聖書や十字架を隠したところで、神様の目は私たちから離れないのです。

 

 神様が、目に見える物体であるなら、そこから隠れることも、離れることも、また都合の良い時だけ近づくことも簡単です。一方で、見られたくないものまで常に見ている、いつ、どこにいるのか分からない私たちの神様は、なかなか厄介な存在です。もっと操作しやすく、私たちに都合よく、コンパクトな存在にしたくなります。しかし、そうは問屋が卸しません。神様は、私たちの衝動をよくご存知なのです。

 

【怒る神を見ない】

 第二に、偶像礼拝は、受け入れ難い神様の姿を見なくなることだと語られます。見えない神様なのに「見なくなる」なんて表現おかしいかもしれませんが、実際、私たちがよくやっていることです。「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった」

 

 そう、イスラエルの民は、モーセがホレブの山に登って、神様から十戒を授けられるとき、山の頂きで神様の栄光が、燃える火のように輝くのを見ていました。見ていましたが、それから間もなく、彼らは金の子牛の像を造ってしまいます。本当の神様が、自分たちの前に現れたという現象をその目で見て、恐れたのに、彼らは受け入れず、偶像を造ってしまったのです。

 

 神様が人々の前に現れるとき、それは必ずと言っていいほど、「恐れ」を伴いました。神様を直接見たら死んでしまうかもしれない……今自分が神様と会ったら、無事ではいられないかもしれない……まるで、自分が焼き尽くされてしまうような「恐れ」に駆られるのは、神様の怒りと裁きを知っているからです。神様は正しい裁きをもたらす方であり、悪に対して怒る方です。私たちに都合良く、見て見ぬ振りをしてくれる方ではありません。

 

 「主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り、わたしがヨルダン川を渡ることも、あなたの神、主からあなたに嗣業として与えられる良い土地に入ることも決してない、と誓われた」……21節で、モーセはそう民に語りました。実際には、神様の怒りの要因には、モーセ自身の罪もあったことが、これまでの聖書研究で語られてきましたが、ここに「都合の悪い神様」が現れます。

 

 色々間違いや失敗もしたけれど、40年以上も神様に従って民を率いて来たモーセが、最後の最後に、約束の地へ入ることを許されない……そんな神様、正直認めたくありません。神様、ここはモーセを労って、一目でいいから約束の地を見せてあげてくださいよ! そうお願いしたくなります。モーセ自身も3章25節でこう祈ります。

 

 「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」……しかし、憤る神様はモーセの祈りを聞こうとはされません。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北をよく見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい」そのように答えます。

 

 私のような説教者の誘惑として、神様は優しい方だということだけを語りたくなる時があります。特に、自分が「神様、これは厳しすぎますよ……」と感じる言葉にぶち当たったとき、なるべくその厳しさを削り取って、まろやかにして、皆さんに伝えたくなります。しかし、それもまた、受け入れ難い神様を見ようとしない、都合の良い神様を造ってしまおうとする、偶像礼拝なのです。

 

 あの優しさに満ちたイエス様も、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様も、実は、その言葉の多くが受け入れ難いものでした。「敵を愛しなさい」「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たからである」……どうでしょう? 皆さんこの方を受け入れられますか?

 

 ちょっと厳しいところは、難しいところは削り取って、分かりやすい、優しいところだけを信じたくなるでしょう。けれども、モーセは正直に言います。神様は私に対し、また、あなたに対し、怒る方だと。常に私たちが受け入れられる、理解できる方ではありえないと。私たちの理解を超え、想像を超えた介入をしてくる方だと。私たちに都合の悪い、受け入れがたさを持つこの方こそ、紛れもない神様なのです。

 

【神以外のものに支配される】

 第三に、偶像礼拝は、神様以外のものに支配されようとすることです。「目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである」ここをそのまま字義通りにとるなら、神様の被造物に過ぎない自然や天体を拝んではならない、ということになるでしょう。きっと、その通りのことが言われています。

 

 同時に私たちは、イスラエルの民が、繰り返し神様以外のものにひれ伏し、仕えようとしてきたことを思い出します。エジプトを脱出してからというもの、人々はいったい何度「エジプトで奴隷をしていた方がマシだった」「さあ、エジプトに帰って我々の主人に仕えよう」と口走ったことでしょう。

 

 エジプトの強制労働に喘ぎ、苦しんでいた彼らが、自らまた、エジプトの支配下に戻ろうとするのです。実は、私たちはあるものの支配下で、理不尽な扱いを受け、嘆いたり苦しんだりしながらも、繰り返し、自ら、その支配下に戻ろうとします。戦後の日本も、脱出後のイスラエルにたいへんよく似ています。

 

 第二次世界大戦で敗北し、しばらくアメリカに占領された後、その軍が撤退しようとした時、日本の方から、アメリカ軍に残ってほしいと沖縄に基地を提供しました。そこから日米安保体制ができていくわけですが、実は、アメリカ国防総省のホームページで公開されている資料によれば、日本に駐留する米軍が、日本を防衛する義務は、実質明記されていません。

 

 私たちは、日本が他国に攻撃されたら、同盟国のアメリカに守ってもらえるという感覚でいますが、アメリカにその義務はないのです。日本国内では対等な条約を結んでいると思われがちですが、英語で公開されている安保体制の書類では、日本の要請に対し、米軍が出動する義務は一切ありません。ほぼ、アメリカに従う形、アメリカに支配される形で、関係が築かれています。

 

 色んな場面で、それが理不尽な関係になると知りつつ、あるいは知ろうともせず、私たちは誰かの支配下に自ら入っていきます。その方が、なんとなく自分を守ってもらえるような、分かりやすい安心を得られたような気分になります。特に、共同体、国家においてその感覚は強くなります。イスラエルは、エジプトを脱出してカナンの地に定着した後も、繰り返しこの誘惑に襲われました。

 

 多くの預言者が、大国に貢ぎ物をして守ってもらおうとするイスラエルの王に警告しました。それはかえって国を滅ぼすと、大国ではなく、私たちの神、主を信じなさいと……しかし、残念ながらこの警告を聞いた王はほとんどいませんでした。民も、王に従って預言者たちに反発しました。やがて、イスラエルは、預言者の言うとおり身を滅ぼし、他の国から支配されるようになります。私たちも、全然他人事にはできない話です。

 

 目に見えない、透明で、形もなく、触れることもできない神様よりも、私たちに安全を提供してくれそうな、助けてくれそうに見えるものが、世の中にはいくらでもあります。しかし、私たちが信じているほど、目に見えるものは、私たちを守ろうとも、助けようともしてくれません。

 

 より確かで、分かりやすいものに、私たちは支配されることを願いがちですが、本当は分かりにくい、目に見えない神様こそ、私たちの声を聞き分け、助け出してくださる方なのです。神様は、私たちが他のものに支配されることを望みません。

 

【熱情の神、妬む神】

 さて、今日読んだ最後のところでは、非常にインパクトの強い一文が記されていました。「あなたの神、主は焼き尽くす神であり、熱情の神だからである」……ここから、優しく大らかな神様を想像する人はなかなかいないでしょう。むしろ、「熱情の神」と訳されている言葉は、もともと「妬む神」と訳されていた言葉で、ちょっとトゲトゲした印象をもたらします。

 

 妬みは人間関係において好ましいものではありません。しかし、旧約においては、神様が「妬む神」であると繰り返し強調されています。29章17節以下には、他の神々に支配されようとする者は、神様の怒りと妬みを受けて、天の下から消し去られると宣告されています。

 

 神様は、これほどまでに妬むほど、怒るほど、私たちとの関係を特別に思っているのです。思い返してみれば、約束の地に入ることのできなかったモーセは、イスラエルの中で唯一、神様が姿を現す山の頂上に、繰り返し登ることを許された人でした。何度も、何度も、彼は誰も入ることが許されなかった場所で神様と出会い、神様に聞き、神様と話をしてきました。彼はイスラエルの中で、誰よりも許されてきた人でした。

 

 他の神々の像を拝み、自分から離れてしまう人々に対し、神様は何度も怒りを発しましたが、かつて宣言されたとおりに、滅ぼし尽くし、焼き尽くすようなことはありませんでした。彼らに与えた罰は、裏切った民を傷つけるためではなく、もう一度自分に立ち返るため、関係を回復するためのものでした。神様は、妬む神であると同時に、諦めきれない、慈しみ深い方であり、粘り強く私たちに介入され続けます。

 

 神様が偶像礼拝を禁じているのは、私たちが滅ばないように、他のものに支配されないようにするためです。私たちが、いかに他者の支配に入りやすいか、分かりやすいものに流されやすいか、神様は本当によくご存知なのです。形なく、目に見えず、焼き尽くす火である神様は、私たちを捕え、支配する者の鎖を灰と化し、解放されます。私たちがうろたえ、恐れてしまうようなやり方で、そのことは起こるのです。

 

 もう一度、私たちが再び別の者の支配下に入ることがないよう、今日語られた御言葉を繰り返し、思い出していきたいと思います。主は生きておられます。